第2章:秘密主義の怜と心の距離

怜と初めての打ち合わせを終え、出版社へ戻る途中。

拓也の脳裏には、彼の無表情の奥に垣間見えた一瞬の“ゆらぎ”が焼きついていた。


(あれ……笑ってた、のかな)


微かに口元が緩んだように見えた瞬間。

拓也の心臓がトクンと大きく跳ねたのは、決して仕事の感動だけではなかった。


 


数日後、拓也は再び怜のもとを訪れた。

次回ネームの相談と、雑誌の進行スケジュールの確認のためだ。


インターホンを押すと、また前回と同じ無機質な声が響いた。


「……編集の人?」


「はい。拓也です」


「……入って」


ロックが外れる音。ドアが開いたその奥には、相変わらず無表情の怜が立っていた。

だが、前回よりもどこか視線が柔らかい……気がする。少なくとも、拒絶の空気はない。


「中、どうぞ」


怜の声に従い、リビングへと足を進める。ソファの横にあるローテーブルには、すでに資料やネームが整然と並べられていた。


「ここ、座って。お茶……淹れる?」


「え、いいんですか?」


「あんまり得意じゃないけど。前に編集が来たときは出さなかった。……でも、君は、まあ……いいかなって」


あまりに不器用な言い回しに、思わず笑ってしまいそうになる。

だが、怜の背中はどこかぎこちなく、それがかえって真剣さを物語っていた。


(……本当に人付き合い、苦手なんだな)


それでも、気を使ってくれたその事実が、妙に嬉しかった。


 


湯気の立つ湯呑みを受け取りながら、拓也はネームに目を通す。

ページをめくるたび、驚かされる表現の巧みさ。キャラクターの感情が紙の上で呼吸していた。


「すごい……このシーン、前回のより、もっと感情が入ってる気がします。何か意識されたんですか?」


「……うん」


怜は言葉を選ぶように、視線を少しだけ落とす。


「前に君が、“キャラが生きてる”って言ってくれたの……少し、うれしかったから」


思わず、拓也の指が止まる。

え、今の……“嬉しかったから”?

その言葉が、静かに胸に染み込んできた。


怜は、口数が少なく、目も合わせない。けれど、拓也の言葉をちゃんと覚えていて、影響を受けてくれている――

それが、とても尊く思えた。


 


一通りネームの確認を終えた頃。

怜がふと、尋ねてきた。


「……拓也って、なんで編集やってるの?」


初めて名前で呼ばれたことに、小さく驚きつつも、拓也は答える。


「作家さんが描いた“伝えたいもの”を、より多くの読者に届けたいから……かな。あとは、自分が感動した作品を、一緒に作る側に回りたくなったんです」


怜は、黙って聞いていた。

その横顔には、まるで遠くの景色を見ているような、どこか切なげな光が浮かんでいた。


「……俺、信じられないんだ。人ってやつ」


「……誰かに、裏切られたこと、あるんですか?」


問いかけた瞬間、怜の瞳が僅かに揺れる。だが彼はそれに答えず、視線を逸らして立ち上がった。


「もう……今日は終わり。ネーム、編集部に送っておいて」


拒絶ではない。けれど、それ以上の踏み込みを拒む、静かな線引き。


 


帰り道、拓也は考えていた。

怜の言葉の端々にある“距離”と“怖れ”。

それはきっと、過去の痛みが作った壁なのだろう。


(俺にできることなんて、限られてるかもしれないけど……少しでも、この人の世界に、近づきたい)


怜の瞳に浮かんだ寂しさが、どうしようもなく拓也の心を掴んで離さなかった。


そしてこのとき、拓也はまだ知らなかった。


数週間後、あの冷たかった怜が、自分の腕にすがるように頬を寄せ、「もう他の人には見せないから、俺のこと、見てて……?」と甘える日が来るなんて――


 


──その始まりは、確かにこの小さな距離から、静かに始まっていた。


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