第1章:出会いと初対面の印象
都会の喧騒から少し離れた路地にひっそりと佇む、小さな出版社「白鷺(しらさぎ)出版」。
社員数は決して多くないが、独特の感性を持つ作家を多く抱えており、その中でも拓也(たくや)は入社以来、ずっと編集部で汗を流してきた。几帳面で責任感が強く、締切には人一倍厳しいが、作家には親身で優しいと評判だ。
その日、朝の編集会議が終わった頃。上司の佐原に呼び止められた。
「拓也、ちょっといいか。新しく連載が決まった新人漫画家の担当を、お前に任せたい」
「……新人、ですか?」
「名前は『霧生 怜(きりゅう れい)』。この業界じゃ知る人ぞ知る天才ってやつだ。ネット連載から火がついて、今回が初の商業誌連載になる。ただな――ちょっと癖がある」
拓也はその名前に聞き覚えがあった。ネット上では、鮮烈な構図と深い心理描写で話題になっていた若手作家。その画面には言葉では言い表せない「温度」があり、一度目にすれば忘れられない迫力があった。
「癖、というと?」
「取材拒否。顔出しNG。連絡は最低限。編集者と顔を合わせるのも基本嫌がる。だけど作品は圧倒的、天才肌ってやつだ。お前なら、きっと上手くやれる」
どこか含みを持たせたように言いながら、佐原は一枚の紙を差し出した。
そこには怜の連絡先と、自宅の住所が記されていた。
「本人と直接会って、原稿の相談をしてやってくれ。最初が肝心だ。無理に距離を詰めず、慎重にな」
――翌日。
拓也は怜の指定した自宅マンションに向かっていた。高層ビルに囲まれた住宅街の中にある、やや古めだが清潔感のある低層マンション。エントランスでインターホンを押すと、すぐに応答があった。
「……編集の人?」
低く抑えた声。冷ややかだが、どこか緊張しているようにも聞こえる。
「はい、白鷺出版の佐原の紹介で伺いました、早川拓也と申します」
沈黙ののち、電子ロックがカチリと開く音がした。
怜の部屋は、最上階の角部屋。エレベーターで上がり、緊張しながらチャイムを鳴らすと、静かに扉が開いた。
目の前に立っていたのは――
整った顔立ちに、銀色がかった前髪。淡く光を反射する瞳に、長くしなやかな指。
だがその表情は無表情で、どこか遠くを見るようなまなざしをしていた。
「……入って」
簡素な一言で中へ通される。
部屋は整理されていて、生活感が少ない。インテリアはモノトーンで統一されており、唯一の個性は壁際にずらりと並べられた漫画の資料と画材だ。
「ここに座って。話は手短に」
ソファを指さして怜がそう言う。
対面に腰を下ろしながら、拓也は静かに観察した。言葉は少なく、目線もあまり合わないが、彼の仕草のひとつひとつが妙に丁寧で、繊細さを感じさせる。
「霧生先生。今回の連載、楽しみにしていました。原稿のペースや、構成のことも相談できればと思いまして――」
「先生、って呼ばなくていい。……怜でいい」
「えっ……」
「そのほうが楽。いちいち壁作られるの、面倒だから」
小さく、しかしどこか諦めを含んだ声だった。
拓也はその言葉に少し驚きながらも、深くうなずいた。
「じゃあ……怜さん。よろしくお願いします」
そのとき、一瞬だけ怜が視線を上げて、拓也をじっと見つめた。
まるで何かを測るように。試すように。
沈黙が流れる。
だがすぐに怜は視線を逸らし、立ち上がって原稿用紙を持ってきた。
「これが第一話。読んでみて」
差し出された原稿を受け取り、拓也はページをめくる。
すると、そこにはまさに「彼にしか描けない世界」が広がっていた。
張り詰めた緊張感の中に、じんわりとにじむ感情。
キャラクターの息遣いが、紙の上で生きていた。
「……すごい。こんな作品、見たことありません。怜さん、本当に……すごいです」
その言葉に、怜のまつげがわずかに震えた。
そして、ほんの少しだけ唇の端が持ち上がったように見えた――拓也には、そう見えた。
その日、拓也はまだ知らなかった。
この無表情で、何を考えているのかわからない怜が、
自分にだけ、とびきり甘い笑顔を向けてくる日が来ることを。
───そして、その秘密が誰にも知られず、自分だけのものになることも。
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