第3話 序章3

 走っていた。いや、滑るように――浮くように――それでも確かに、晴賀コウは“逃げていた”。


 足元の床は軽く傾斜し、通路の照明が点滅する。音もなく開いた隔壁をすり抜け、ひとつ、またひとつ、扉のロックを解除していく。


「……まだ身体が重いな」


 自分の声に驚いた。濁っていた意識が、徐々に戻ってくる。コールドスリープからの復帰には数時間から数日かかるはずだ。なのに、自分は目覚めた瞬間からこうして動けている。


 どこかで何かがチグハグなのだ。記憶も、体調も、時間感覚も――


 だが、確かな感覚がひとつだけあった。


 ――この船のことを、俺は知っている。


 目にする壁の材質。セキュリティパネルの癖。換気口の位置。手のひらを翳す角度までも。


 それはまるで、何年もここで過ごした者のような“慣れ”だった。


(なぜだ……俺は、乗船した記憶さえ、おぼろげだというのに……)


「確かに俺は言った。ナギサの名を……レア・ナギサを。なぜ?」


 答えはない。だが――彼女の名を口にした時、胸の奥が激しく痛んだ。まるで、冷たい鎖で心臓を締め付けられたように。


「知ってる……いや、忘れてた。でも、確かに“いた”んだ」


 “ナギサ”という名の人物。彼女に、自分は何かを託された。あるいは、約束を――


 その時、警報音が鳴った。


 ピリリリリリ――ッ!


 背後の通路に赤いランプが連鎖的に点灯する。同時に、機械音声が冷徹に響いた。


《警告。セクターC-12における不正侵入を感知。警備ドロイド展開。対象、コード未登録》


「チッ、早いな……」


 後方に金属の足音。四つ足歩行の低重心タイプか。量産型のセキュリティドロイドだろう。機体名はS-K08。火器は非搭載だが、スタンショック機能がある。


 晴賀は手元の端末に素早くコマンドを走らせる。


 ――〈サブネットルートへ切り替え〉

 ――〈制御キー:SIGMA_N〉


 扉がひとつ、静かに開いた。通常なら立ち入り禁止の非常メンテナンス通路だ。彼は迷いなくそこへ身を滑り込ませる。


 内側から扉が閉まる直前、ドロイドの金属脚が視界に映った。


「――間に合ったか」


 冷たい金属の壁にもたれながら、深く呼吸する。けれど、安堵はしなかった。


 この船には“まだ見ぬ領域”がある。


 それは、乗員マップに存在しない「影のフロア」――あるいは、計画から削除された“誰か”が住んでいた空間。


 晴賀は知っている。というよりも、身体が覚えている。


(ナギサはそこにいた……今も、いる? いや……)


「待ってろ、ナギサ。俺が、思い出すから。全部――お前との約束も、全部だ」


 そのとき、通路奥から小さな光が瞬いた。誰かがいた。


 息を呑み、晴賀は一歩踏み出す。非常灯の下に、スカートを穿いた少女のような影が、ふいに現れた。


 白く、静かに、そこに立っていた。


「ナ……ギ、サ……?」


 彼女は微笑んだ。


 次の瞬間、視界が歪み、音が反転する。


 そして、晴賀は“視界の外側”へと引きずり込まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る