第2話 剣を取る時

 静寂の中、遠くから何かが弾けるような音がした。甲高く、耳に引っかかる鋭さ──人の声だ。しかも、子供か、若い女性のように聞こえる。


 思わず部屋の入口まで足を運び、神殿の奥へと視線を向ける。広い通路の先、薄暗がりの中で、何かが起きている。確信はない。けれど、全身の神経がその場にとどまることを拒み、動けと叫んでいた。


──誰かが、危ない。


 迷っている暇はなかった。気づけば、崩れかけた通路へと駆け出していた。長く、暗い廊下が続く。左右には朽ちかけた扉が並び、割れた石板や崩落した天井が散らばっている。


 その奥、薄暗がりの中で──何かが動いた。目を凝らす。


──二つの影。


 一つは小柄な人影。もう一つは、それを遥かに上回る巨大な影。次の瞬間、小さな影が激しく吹き飛ばされ、床を転がった。


「……っ……まったく、誤算だったわね……」


 かすれた少女の声が、静まり返った神殿に染み込むように届いた。その声に混じる苦痛と悔しさ──それだけで、何かが胸の奥を衝いた。


 足元に転がる石片を見つけ、瞬時に手を伸ばす。このまま黙って見ていられるわけがない。拾い上げた石を、狙いを定めて投げる。カン、と甲高い音が空間を裂いた。


 巨体が、ぎょろりとこちらを向いた。その目に宿るのは、言葉では言い表せない敵意のようなもの。思わず息を飲み、全身が反射的に強張った。視線の先では、少女が驚きと緊張をにじませながらこちらを見つめている。


 そして──


 化け物が吠えた。耳を突き刺すような咆哮。ドォン、と地響きを立てながら、一直線にこちらへ突進してくる。空間に差し込むわずかな光が、闇の中のその異形を照らした。


──クマのようなシルエット。


だが、骨ばった四肢。鋭く光る爪。常軌を逸した巨大な牙。あれは、ただの獣なんかじゃない。


──何か、おかしい。


 咄嗟に身をかがめて横へ跳ぶ。反射的な動きだったが、体は思ったより素早く反応してくれた。直後、空気が爆ぜるような音が耳元で弾け、風圧が頬を切るようにかすめる。振り返らずとも、背後で石床が砕ける音が響き、破片が飛び散る気配が背中に伝わってきた。


 無意識のうちに息を詰めたまま、膝をついて衝撃を吸収し、その勢いを利用して立ち上がる。そのまま床を蹴り、倒れていた少女の元へと駆け寄った。


 崩れかけた柱をすり抜けながら、彼女の姿を視界に捉える。倒れ込むように身を縮めた少女は、動かない。だが、胸が上下しているのが見えた。


──まだ、生きてる。


「立てるか!」


 短く声をかけると、少女は痛みに顔をしかめながらも小さく頷いた。光に照らされたその顔は、年の頃で言えば自分と同じか、少し下くらいだろうか。明るい栗色の髪が乱れ、頬には土埃がついている。


 けれど、その目にははっきりとした意志の光が宿っていた。こんな状況でも、自分を見失っていない──そんな気がした。


「……うん、大丈夫。動ける……」


 手を取って引き上げる。その身体は思ったより軽かった。そのまま彼女の手を引いて、神殿の奥へ走り出す。振り返る余裕なんてない。ただ、ひたすらに足を動かす。少女の手を握ったまま、暗がりの中を駆け抜ける。石造りの床にブーツの音が響くたび、冷たい空気が肌にまとわりついてきた。


 どれだけの距離を走ったのか、もうわからない。分岐した通路を直感で選び、狭く歪んだ空間をくぐり抜ける。崩れた天井の下、壊れた椅子や棚、古びた装飾──この場所にかつてあった静けさの痕跡が、急かす足取りと対照的に映る。


 壁の向こうに何があるかもわからない。地図も、方角も、出口の気配すらない。

ただ、背後に迫る何かから逃れるために──足を止めることだけは許されなかった。


 とにかく、前へ。


──だが、行く手は突如として断たれた。


 辿り着いたのは、天井が高く開けた空間──祭壇の間のようだった。奥に据えられた台座には、半ば朽ち果てながらも女神像が鎮座している。一部は崩れて欠けていたが、その静かな佇まいには、かつてこの場所が神聖で荘厳な場であったことを物語る気配が残っていた。


 壁際には崩落した柱が何本も転がり、先へと続く通路は存在しない。まるで、ここがこの神殿の終着点であるかのように、行く手は完全に閉ざされていた。進めない。

急停止し、肩越しに振り返る。


 部屋の入口──先ほどの化け物が、四足を低く構え、じりじりとこちらへにじり寄っていた。目は光を反射し、鋭い意志すら感じさせる。まるで、この場から逃すつもりなど微塵もないと言わんばかりに。


 ぐるる……と喉の奥で低く響く唸り声。その振動が空気を震わせ、生臭い吐息が波のように押し寄せてきた。


 無意識のうちに喉を鳴らし、隣にいる少女を視界の端で確認する。彼女の腕には、紅い筋が一筋、滴っていた。さっき吹き飛ばされたときの傷だ。小さく肩で息をしながら、それでも気丈に立っている姿が目に映る。


──このままじゃ、持たない。


 冷たい現実が胸の内を突き刺す。それでも、あきらめるつもりはなかった。気づけば、頭の中はすでに“どう戦うか”を考えていた。体のどこか深いところが、逃げるという選択肢を切り捨てていた。まるで、自分の意志ではなく、戦うという行動が“自然に選ばれていた”ように感じる。


 わずかに頭を巡らせながら、周囲に視線を走らせる。


──武器になりそうなものは……?


 視線が自然と祭壇へと引き寄せられる。その中央──女神像の手前に、埃をかぶった一本の剣が横たわっていた。金属の表面はくすみ、柄の装飾もところどころ剥げている。だが、不思議と目が離せなかった。古びているはずなのに、何かを訴えかけてくるような存在感があった。


 剣を目の端で捉えながら、じりじりと後退する。化け物から目を逸らすことなく、少しずつ間合いを広げていく。わずかでも隙を見せれば──即座に飛びかかってくる。そんな確信があった。


 それでも、手に取らなければ始まらない。一歩、また一歩と、警戒を解かずに祭壇の近くへと足を運ぶ。細心の注意を払いながら、祭壇の剣にそっと手を伸ばす。

指先が柄に触れた瞬間、冷たい金属の感触と共に、微かな震えのようなものが掌を這った。


「……これなら、戦える。」


 そう呟いた瞬間、自分の中にわずかな熱が灯るのを感じた。根拠はない。けれど、柄に触れたとき、胸の奥に何かが静かに流れ込んできた気がした。それはまるで、意志を持った力が呼応しているような──不確かだが否定できない、奇妙な確信。


 小さく息を吐き、剣をしっかりと握りしめる。ずしりとした重み。その質量が逆に心を安定させた。ただの武器ではない。これは、ここで“使うべきもの”だ。


 化け物との距離は、目に見えて狭まっていた。四肢を低く構えたまま、こちらの様子を窺いながら、一歩ずつ確実に前へとにじり寄ってくる。空気を裂くような殺気を纏い、今にも飛びかかろうという気配を全身にまとっていた。


 それでも──


 恐怖の奥から、揺るぎない意志がせり上がってくる。逃げない。やるしかない。


 俺は──戦う。


 息を整える間もなく、剣を構える。目の前の異形と、正面から対峙する。

空気は凍りついたように重く、張りつめた沈黙が鼓膜にのしかかる。

全ての音が遠ざかり、ただ自分の呼吸と鼓動だけが、やけに大きく感じられた。


 次の瞬間、地を蹴る音が響いた。

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