第5話 深紅の智
窓の外では、秋の紅葉が少しずつ赤みを帯びはじめていた。
季節のうつろいを背に、伽耶と誠は机を並べて、いつもの朝の学びに向き合っている。
「う〜……むずかしい……誠、これ、なんて読むの?」
伽耶が不機嫌そうに眉を寄せながら、隣に座る誠に問いかける。
誠は手元の書簡を読む手を止め、すぐに伽耶の方へと顔を向けた。
「“あやうい”と読みます。もう、ここまで進まれていたんですね――素晴らしいです」
微笑みながら告げる誠に、伽耶もにっこりと胸を張った。
「でしょ?わたし、がんばってるんだから!」
得意げに言うと、彼女はページをめくり、ある一節を指差した。
「ねえ、じゃあこれは?どういう意味?」
誠は身を乗り出し、伽耶が指差す箇所をじっと覗き込んだ――
「これは、“彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず”と読みます。
孫子の兵法の一節で、敵も味方も情勢をしっかり把握していれば、幾度戦っても敗れることはない――という意味ですね」
誠が淀みなく答えると、伽耶はぱっと顔を輝かせた。
「誠、あなたって兵法にもくわしいのね!どうやって勉強してるの?」
身を乗り出すように顔を覗き込んでくる伽耶に、誠は少しだけたじろいで、視線を外すようにして答える。
「……軍部にて、兵法の師から教えを受けております。
週に数度、陣形や戦史、戦略などを――」
「師匠っ!」
ぴたり、と誠の言葉を遮るように、伽耶の声が跳ねる。
「あなたにも“師匠”がいるのね!? どんな人? 会ってみたいわ!」
目をきらきらと輝かせて言う伽耶に、誠は不意を突かれたように一瞬まばたきをした。
「師匠は……周焉明(しゅう えんめい)と申します。軍師を務めており、わたしは彼に学びを受けて一年ほどになります。
知は深く、理も明晰で、毎回とても刺激を……受けております」
誠が言葉を重ねるたびに、隣で話を聞く伽耶の瞳が、きらきらと輝きを増していく。
身を乗り出すわけでも、無理に割って入るわけでもなく――
ただその目だけが、まるで星を宿したように、ぐんぐん誠の言葉を追いかけてくる。
その熱に、誠は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに視線を前に戻して続けた。
「……ですが、姫様には少々、刺激が強すぎるかもしれません」
「会いたい!!」
勢いよく立ち上がった伽耶が、ばしんと両手で誠の手を包み込む。
「ねえ、お願い!その周焉明殿に、わたしも一度だけでいいから会ってみたいの!」
「こほん」
部屋の隅から咳払いが聞こえた。
芳蘭だった。
はっとした伽耶は手を放し、気まずそうに少しだけ視線を泳がせる。
「……軍部など、姫様が足を踏み入れる場所ではございません」
芳蘭は小さくため息をつきながら、きっぱりと言い切った。
「どうして?お姉様はいつも行かれているじゃない!」
「華蘭様は“特別”です。姫様は武芸をお学びではないでしょう」
芳蘭は、伽耶の勢いに押されながらも、凛とした態度を崩さなかった。
「でも、お父様は――
“誠から学べることは、すべて学びなさい”って、おっしゃってたわ!」
伽耶の声に、明確な熱がこもる。
「だったら、その“師”に会うことに反対なさるはずがないわ!……わたし、手紙を書いてみる!」
ぱたんと机の上の書簡を閉じたかと思うと、伽耶はさっと筆を取って勢いよく走らせ始める。
「芳蘭、お願い。これ、お父様に届けて!」
「……姫様、今日は難しいかもしれませんからね」
苦笑混じりに小さくため息をつきながら、
芳蘭はもうすっかり慣れた手つきで机へと歩み寄り、伽耶の書いた文をすっと手に取る。
「では、お預かりいたします」
そう言って呼びつけた文官に、手紙をしっかりと手渡すと、
きちんと礼をしてから言葉を添えた。
「陛下へ、なるべく早くお届けを」
その傍らで――
“師”という言葉が出た時点で、なんとなく嫌な予感はしていた。
だが、まさか本当に筆を取るところまで行くとは――。
あまりの急展開に、誠はぽかんと固まるしかなかった。
文が届けられてから、ほんの小一時間後のことだった。
伽耶が机の上で頬杖をついてため息をついていると――
「おーい、入るぞー!」
控えめとは言いがたい、豪快な声とともに、ガラッと勢いよく書房の扉が開いた。
「烈翔兄様!?」
ニカっと笑う烈翔を目にして、思わず立ち上がる伽耶。その後ろで、芳蘭が目を見開いた。
(な、何が起きて――)
その場にいた誠は、唐突な展開に思考が完全に停止し、ただ呆然とそのやり取りを見守るしかなかった。
「手紙、読ませてもらった。なかなか面白かったぞ?」
「えっ……!」
「父上は、軍部なんてって顔してたからさ、俺がついてってやるからいいだろって説得したんだよ。軍部ってのはちょっとクセのある連中も多いしな。俺がついていけば、誰も文句はいえねぇだろ。」
そう言って、烈翔はわしわしと伽耶の頭を撫でる。
伽耶はくすぐったそうに身をすくめたものの、すぐにぱっと顔を上げて、目を輝かせた。
「ありがとう!お兄様!」
ぱんっと手を叩いて喜ぶ伽耶の横で、芳蘭は小さくため息をつく。
「なーに、俺も軍部に戻るところだったんだよ。ついでだ、ついで。
それに、誠の“師匠”とやらがどんな奴か、俺もちょっと見てみたくてな?」
そう言って、烈翔はイタズラっぽく誠の方へ視線を送った。
誠は一瞬きょとんとしたあと、はっとして背筋を伸ばす。
「よし、そうと決まれば、さっさと行くぞ! 時は金なりってな!」
烈翔は豪快に笑いながら、誠の背中を容赦なくばしばし叩く。
誠はバランスを崩しながらも、姿勢を正したままついていく。
そのあとを、伽耶と芳蘭が顔を見合わせながら、微笑んで続いた。
――季国軍部本営前。
そこに立った瞬間、伽耶はごくりと唾を飲み込んだ。
大きな門に、威風堂々とした兵の姿。今まで見たことのない“男たちの世界”。
兄も誠も芳蘭さえもそばにいる。それでも、自然と背筋が伸びてしまう。
(……いよいよ、本当に来てしまった……!)
道中、烈翔が軽口を叩いていた。
「軍部なんて、ちょっとホコリっぽいけど――まあ、ここの空気ってのは一度は吸っておくべきだな」
誠は「姫様はお出迎えなどなくとも大丈夫でしょうか」と心配していたが、伽耶はにっこり笑ってこう言った。
「お客ではなく、“学びに来た者”として行くのよ。だから、平気!」
そう言った自分の足が、今ほんの少し震えていることに、伽耶自身はまだ気づいていなかった――。
「開門!!」
兵のピンと張った声が響き、重々しく扉が開いた。
「わぁ…! 中はこんなふうになっていたのね…!」
最初の緊張はどこ吹く風といった様子で、伽耶はあたりを目を輝かせて見回している。
中では、兵たちが木剣を手に素振りをしていたり、槍での突き訓練を行っていたりと、活気に満ちていた。
だが、やがて――
彼らの視線が、一斉に入口の方へと集まっていく。
「……あれは……」
「おい、本当に姫様じゃないか?」
「まさか、軍部に……!?」
訓練の動きが、わずかに止まる。
烈翔が歩を進めることは珍しくない。だが、その隣に立つのは――季国の姫君・伽耶。
兵たちは次第にざわつき始め、だが誰も声をかけることはできず、ただ尊敬と興味の入り混じった視線を向けていた。
「あの……兄様、なんだか視線を感じるような……」
初めての経験に戸惑った様子で、伽耶はそっと隣の烈翔を見上げた。
「ああ、珍しいからな」
烈翔はニカッと笑い、軽く肩をすくめる。
「笑って手でも振ってやれ。喜ぶぞ」
伽耶はおずおずと片手を上げ、ぎこちないながらも微笑んで、兵たちに向かって手を振った。
すると、それまで黙っていた兵士たちが――
「なんと愛らしい……!」
「さすがは華蘭様の妹君……!」
「姫様万歳!!」
と、まるで歓声のような雄叫びを一斉にあげた。
「まったく……」
後ろから響いたのは、芳蘭の深いため息だった。
手を上げたまま固まってしまった伽耶の隣で、誠が一歩前に出て、そっと言葉を添える。
「……師の部屋は、こちらでございます」
書棚には古びた兵法書がぎっしりと並び、机の上には書簡や報告書が高く積まれている。
その奥で、額に手を当てながら、ため息をついていた男がひとり――。
「……周焉明様」
誠が一歩進み、静かに声をかける。
「あ?」
眉間にしわを寄せたまま、焉明が顔を上げた。
腰ほどまで伸びた長い黒髪は、首元でざっくりと結われている。
顎には無精に生えた髭――剃り残しというより、もはや放置されているようにも見える。
「……おまえ、随分な方々をお連れしたな」
その渋い声に、伽耶は思わず見入ってしまった。
“この人が……誠の師匠?”
どこか胡散臭そうなのに、なぜか目が離せない。
貫禄と、だらしなさが同居する不思議な空気――伽耶はそんな彼を、少しだけ面白そうに見つめた。
「申し訳ありません、急遽のことで……」
誠が深々と頭を下げる。
その横で、焉明はふうと一息吐きながら、ガシガシと頭を掻いた。
「……して、どういう風の吹き回しだ?」
ちらりと伽耶の方へ視線を向けて、
「まさか籠入りのお姫様が、“ただの”おじさんを見に来たってわけじゃあるまい?」
あえて“ただの”を強調し、胡散臭げに笑う。
しかし――
「そのとおり!です!」
間髪入れずに伽耶が前へ一歩進み、真っ直ぐに焉明を見上げた。
その瞳には、好奇心と敬意、そして――
まるで宝物を見つけた時のような、まっすぐな輝きがあった。
焉明は何度か瞬きをし、ためいきをついた。
「変わったお嬢ちゃんだな。……誠坊、しかたねえ。王族のご訪問だ、茶くらい出すのが礼儀ってもんだろ。奥の棚に“例のいいやつ”がある、頼むな」
「はっ……かしこまりました」
すかさず返事をする誠の横で、芳蘭もすっと膝を折る。
「私もお手伝いさせていただきます。どのようなものか見させていただく必要がございますので」
「へいへい、見張り番つきってわけだ」
焉明が軽く手を振ると、ふたりは退出のために扉へと向かう。
部屋には、伽耶・烈翔・周焉明の三人だけが残された。
「さて……妙に静かになっちまったな。」
ぽつりと、周焉明が呟く。
ぽつりと呟いた周焉明は、立ち上がりながら首を軽く鳴らす。
「改めまして、俺は“周焉明”と申します。……まあ、冴えない軍師の端くれでしてな」
少し自嘲するように笑ってみせる。
「お恥ずかしいことに、名ばかりの地位ばかりが与えられまして――
肝心の策は、棚に置かれるばかりでございます。……ああ、棚といえば、さっきのお茶も“棚の奥”だったか」
すると伽耶は、くすっと微笑んで――
「でも、“棚の奥”って、特別なものがしまってある場所でしょう?
お父様も、滅多に使わない大切なお道具は、棚の奥にしまっているもの」
「……棚の奥、ねぇ……おもしれぇこと言うな、嬢ちゃん」
焉明は何度か瞬きをし、ため息をついた。
どこか胡散臭そうな顔をしながらも、伽耶の言葉の意味を反芻しているようだった。
一瞬の静寂ののち、部屋に大きく響く烈翔の笑い声。
「天才軍師から一本取るとは、やるじゃねえか、伽耶。」
烈翔から褒めてもらえた伽耶は、両頬を淡く染めた。
焉明もふっと笑ったが、その顔は先ほどまでの皮肉めいたものより、どこか優しげだった。
「誠坊のこと、聞きに来たんだろ?あいつは……ああ見えて、まっすぐすぎるところがある。
剣よりも、言葉で人を動かせるやつなんだよ。お姫様も、きっとそれで動かされてるんじゃないか?」
冗談めかして笑いながらも、その声の奥には確かな信頼があった。
「……でもまあ、気をつけな。ああいう真面目なのは、無理しても気づかれないからな」
伽耶は小さく瞬きをした。
今のは誰に向けた言葉だったのだろう?――けれど、焉明はもう何も言わず、再び書類に目を落とした。
もう何も聞いてくれるなといったような様子に、伽耶は少したじろいだ。
けれど、それでも――意を決して、口を開いた。
「わたし、聞きたいことがあって来たんです。
誠はすごいんです。わたしが知りたいこと、なんでも知ってる……」
言葉を選ぶように一度だけ息を整えて、伽耶は続けた。
「どうしたら、あんなふうになれますか?」
その問いに、焉明はゆっくりと顔を上げ、室内の右手に並ぶ書棚を指さした。
そこには兵法、軍略、歴史……あらゆる分野の書物がぎっしりと詰め込まれている。
「……あいつは確かに優秀だ。一を教えれば十を知る。
だが――誠坊がここに来て、まだ一年だ。
その一年で、あの棚の本をすべて“踏破”した」
伽耶は立ち上がり、書棚に並ぶ本を一冊、そっと引き抜いた。
手に取った書の端は擦り切れ、指の触れた場所には、何度も読まれた跡が刻まれていた。
「今日の自分は、昨日までの自分の積み重ねだ。ありたい自分があるのなら――ただ、目の前のことを、毎日ひとつずつこなしていくことだ。
そうすりゃ、気づけば明日には、“なりたい自分”に、ちょっと近づいてるさ」
伽耶は、ほんの少しだけ瞳を伏せ――それから、顔を上げて静かに笑った。
「……がんばります」
その言葉に、焉明は一瞬だけ目を細め、何も言わずにひとつ、うなずいた。
すると、それまで黙っていた烈翔が、急に声をあげた。
「お前、おもしれぇな!次の遠征、俺と組んでみねえか?」
バンッと肩を組まれ、焉明が小さく咳き込む。
そんな空気を切るように――
「……まったく、あのようなものを王族の皆様に出そうとするなんて……!」
ぷんすかと怒りながら、芳蘭が扉の向こうから戻ってきた。
後ろには、申し訳なさそうに肩をすぼめる誠の姿がある。
「さあ、姫様!帰りますよ!」
芳蘭は伽耶の手を取ると、そのまま出口へと引っ張っていく。
「このような場所にいては、お体に障ります!!」
「えぇ〜っ、でもまだ――」
「姫様っ!」
びしっと指を差され、伽耶はしぶしぶ頷き、ぺこっと焉明に頭を下げた。
焉明は手を振って見送り、烈翔はその後ろで笑いながら肩をすくめる。
「まったく、面白ぇ姫様だな……」
――そして、小さな冒険の一日が、静かに幕を下ろした。
軍部からの帰り道。
どすどすと肩を怒らせながら先を行く芳蘭に続いて、伽耶と誠は、並んで静かに歩いていた。
「……姫様。なにか、失礼なことはありませんでしたか?」
誠がそっと伽耶に目を向ける。
「師匠はとても才あるお方なのですが、あのような……ええと、その……少々独特なところがあるもので、心配で……」
眉をひそめて深刻そうに言う誠に、伽耶はふふっと笑って首を横に振った。
「失礼なことなんて、ひとつもなかったわ。わたし、今日すっごくいい一日になったと思ってるの。……周焉明殿のおかげね」
そう言って笑った伽耶の顔に、誠は思わずほっとしたように息を吐き、胸をなでおろした。
――そのとき、ふと伽耶が首を傾げる。
「ところで、あなた……“誠坊”って呼ばれてるのね?」
「えっ……あ、はい。師匠から、昔からずっと……」
「ふふっ、わたしも呼んでいい?」
イタズラっぽく笑って、じっと覗き込んでくる伽耶の瞳に、誠はぎょっとして目を逸らした。
「そ、そ、それは……っ ご勘弁ください……!」
赤くなった顔を隠すように視線を落とし、早足になる誠。
「ええ〜? なんでよ〜? わたしだって呼びたいのに〜」
「だ、だとしてもです……!」
ぷくっと頬をふくらませる伽耶と、慌てて前を向く誠。
その前方で、芳蘭の足音が一段と大きくなった気がした――。
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