第5話「砂に刻まれし眠り猫」(エジプトの記憶)

夜の砂漠は、静かだった。

風は神殿の柱を撫で、私の毛並みに細く冷たい指を這わせていった。


私は猫。

ここ、神の住まう神殿で生まれた。

砂と石と祈りに囲まれたこの場所で、私は“神の使い”として育てられた。


けれど……私は、ただの一匹の猫だった。

お腹が空けば鳴いたし、甘えたくて人の膝に乗った。


神でもなんでもない、

ただ、生まれて、生きて、ここにいた。


ある日、神官の娘が私に名をくれた。

「ネフティス」……優しき夜の女神の名。


その子は、小さな手で私を撫でた。

くすぐったくて、温かくて……それが好きだった。


やがてその娘にも、友ができた。

隣国の少年王子。

ふたりはよく、この神殿で会い、手を取り合い、星を見上げていた。


私も、その膝の間で目を細めていた。


ふたりが笑うと、空が広くなった気がした。


でも、平和は長く続かなかった。

王子の国とこの地の間に、火種が灯ったのだ。


ある晩、王子の命が狙われた。

敵の兵が神殿に忍び入り、

その刃が、王子と娘に向けられた瞬間……


私は、駆けた。


なぜ、なのかは分からない。

私は、ただの猫だ。

戦う力なんてない。けれど……あのふたりが傷つくのを、見たくなかった。


私は兵の顔に飛びかかった。

爪で引っかき、噛みつき、吠えた。


その隙に、ふたりは逃げた。

けれど、私は……その場に残った。


刃が振り下ろされた。

痛みは、一瞬だった。


でも、その手の中には……あの子の涙の匂いがあった。


私は、もう動けなかった。

砂に横たわり、星を見上げた。


空は、遠くて、静かで。

けれど、私は……満たされていた。


後日、ふたりは私を見つけた。

砂に埋もれた私の亡骸を、震える手で抱き上げて、泣いた。


王子は言った。

「君は神より、神らしい存在だった」


娘は言った。

「いつか、この命、忘れないように……“形”を刻むわ」


やがて時は過ぎ、

私の眠っていた場所に、巨大な像が建てられた。


人の顔と、獣の体。

空を見つめるように、沈黙を貫くその石像は、

誰からともなく“スフィンクス”と呼ばれるようになった。


でも本当は、あれは……

「小さな猫の眠る場所」なんだ。


風が吹くたび、私の毛並みを撫でていたあの風が、今も砂を越えて届く気がする。

その中で、私は静かに、もう一度、こう思う。


この命、何度目だっけ?


覚えてないけど……

「あの子たちの笑顔の記憶だけは、ちゃんと胸にあるよ」

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