模範的加害者

広川朔二

模範的加害者

その日も、事故現場には誰の影もなかった。


花束を供えるため、何度目かもわからないほどに訪れた横断歩道の脇。ガードレールには、娘・莉子の遺影と小さな風車が括りつけられていた。風車は冬の風にかすかに揺れているが、誰かが手入れした形跡はない。


「……今年も、来ないのね」


佳央里は静かにそうつぶやくと、花を添え、缶のホットココアを手向けた。事故から三年。あの瞬間から時計の針は止まったままだ。


莉子が死んだのは、たった十三歳のときだった。進学塾の帰り、信号のある横断歩道を渡っている最中。建設会社勤務の若手技師・牧野俊晴が運転していた車に、スピード違反で撥ね飛ばされた。


彼は裁判で「深く反省しております」と繰り返した。傍聴席にいた佳央里の前で、涙をこぼしながら何度も頭を下げた。


証言台には彼の妹の美優も立った。


「兄は、もう毎晩のように悪夢でうなされています。本当に、あの子の命を奪ったことを悔いています……」


裁判官はその様子に同情を示し、判決は執行猶予付きの禁錮2年。「社会復帰の機会を残すべきだ」というコメントが添えられていた。


だが、それから三年。


彼は一度たりとも事故現場に花を供えに来なかった。莉子の命日に連絡もない。もちろん、償いの言葉も。彼からの連絡は判決前に何度か謝罪の手紙が送られてきただけだ。


一方、地元紙には彼の名が「若き技術者の再出発」としてたびたび登場していた。再就職し、安全管理プロジェクトの一員として“被害者遺族の思いも背負って”働いているのだという。


「……そうだったの。背負ってるのね、人前では」


佳央里はそう呟き、空を見上げる。冷たい灰色の雲が、空一面に広がっていた。


癒えることのない傷を抱えたまま過ごしていたある日のこと。


佳央里の自宅ポストに、一通の封筒が届いた。差出人の記載はない。無地の白封筒に、宛名だけが手書きされていた。


訝しみながら開封すると、A4サイズの紙が数枚、丁寧にホチキスで留められていた。

そこにはスマホのスクリーンショットのような画像が並び、見慣れないSNSの画面が写っていた。


「また遺族に手紙書かされた。マジで義務反省キツいw」

「涙?演技に決まってんじゃん。あんなのウケる奴いんの?」

「“命の重み”とか講釈垂れるやつって大体底辺なんだよなあww」


思わず紙を床に落とした。手が震えているのに、なぜか涙は出なかった。


しばらくして、そのアカウント名が目に入った。

「@revive_build!197」


建設、再生、生まれ変わり。

そう名乗る男が、死者を嘲笑っていた。


その夜、佳央里はひとり、莉子の遺影に向かって語った。


「……許せるわけ、ないよね」


蝋燭の火が、ふっと揺れた。それは、まるで同意するようにも、娘の涙のようにも見えた。


封筒が届いてから三日後、佳央里はその送り主と会っていた。封筒の中に「興味があれば連絡ください」というメッセージとともに電話番号が添えられていたのだ。


場所は都心から離れた小さな喫茶店。午後の時間帯にもかかわらず、客はまばらで、店内にはコーヒー豆を挽く音とBGMのジャズが静かに流れている。


向かいに座るのは、記者を名乗る男——倉科誠一(くらしな・せいいち)。四十代半ば、無精髭まじりの顔には疲れと諦念が浮かんでいる。


「……どうして、私にあれを?」


佳央里の声には、疑念と怒りが混じっていた。倉科はゆっくりとカップに口をつけてから、低く答えた。


「取材をしてるんです。“社会が忘れていく被害者遺族”ってテーマで。あなたの事件も、例に挙がりました」


「……見世物にする気?」


「違う。俺はあの男が“模範的更生者”として持ち上げられてるのを見て、吐き気がした。だから、調べたんです。……あの裏アカ、彼の周囲から聞いて調べました」


倉科はそう言って、スマホを取り出した。


「あのアカウントは事故後すぐに作られたものです。表では“更生した若者”、裏では“法を舐め切った態度”です。……まるで二重人格ですよ」


佳央里は手を握りしめた。


「じゃあ、あの涙も反省文も嘘だったのね。反省しろと言われて、彼は“反省の型”だけを身につけた」


「型があれば、情状酌量される。あれは“演じていた”んだ、遺族に向かって。…私は、この事実を世間に明らかにしたい、そう思いました。でも被害者は莉子さんであり、あなたです。もし、あなたさえよければ…」


倉科の瞳が鋭く光る。佳央里はその視線を受けながら、静かに頷いた。


「…私にも協力できることがあれば言ってください。法での裁きが足りないのなら…あの子の無念を晴らしたい」


その夜。自宅に戻った佳央里は、莉子の遺影の前に座り、しばらく動かなかった。彼女の手には、SNS画面のコピーが数枚。そこには、あの男の言葉が並んでいる。


「“反省してます”って便利だよな。みんなそれで泣くし」

「妹まで利用して減刑ゲットw」

「マジでこの国ちょろいな?」


心が凍るほどの冷たさ。だが、怒りは熱かった。


そのとき、佳央里のスマホが鳴った。登録されていない電話番号。


『突然のお電話すみません、私、牧野美優と言います。その、牧野俊晴の妹です』


「……え?」


おずおずとした声。だが、どこかに決意の色も混じっている。


『私……倉科さんから連絡をもらって、それで、こっそり兄のスマホから実際にあのアカウントを見ました。まさか、あんなこと書いてたなんて……あんな、あんな……』


電話の向こうで声が震える。美優はずっと兄を信じてきた。涙も後悔も、本物だと信じていた。


『佳央里さん。もし、もしも……私にも、協力させてください。兄が本当に“償う”ってことが何か、あの人自身に見せたいんです』


佳央里は深く息を吐き、短く答えた。


「ありがとう。妹のあなたにこういうのは悪いかもしれないけど、…あの男に本当の罰ってものを教えてあげましょう」


それから数日後。


佳央里、倉科、美優の三人による、復讐計画が静かに始動した。焦点は、あの裏アカウントの完全な公開と、牧野の“更生神話”の崩壊。


ターゲットは、彼が企業の安全プロジェクトで表彰される予定の講演会。彼の“立ち直った加害者”としてのスピーチ中に、裏アカの投稿が暴露される——それが最初の一撃となる。


佳央里の中に、かつて感じた無力感はもうなかった。


「これは、罰じゃない。あの人が、本当に“人間に戻る”ための第一歩よ」


そう自分に言い聞かせるが、内心のどこかで、自分の行為が“善”か“悪”かの境界を踏み越えていることも、確かに理解していた。





講演会当日。会場となったのは都内の某財団が主催する「交通安全と地域社会の共生フォーラム」。スーツに身を包んだ企業関係者や行政職員、地域ボランティアたちが列を成していた。


その中で、ひときわ注目を集めている男がいた。


牧野俊晴。


“悲劇を乗り越えた若者”として紹介され、今や安全啓発活動の「模範的な語り部」としてメディアでも重用されている人物。


壇上に立った彼は、穏やかで誠実そうな表情を浮かべながら話し始めた。


「……私は過去に、ひとつの命を奪いました。反省と後悔の念は、今も胸の内にあります。

 だからこそ、安全を“自分の使命”と捉え、生き直しています」


その言葉に、何人かが感動したようにうなずく。記者もカメラも、彼の姿を捉えていた。


その瞬間だった。


壇上背後の大型スクリーンに、突如としてスライドが映し出された。


白地に黒文字のSNS投稿。

アイコンは例のアカウント名「@revive_build!197」。


「マジで反省コントはもう疲れるわw」

「反省=演技力。これ豆な」

「妹には感謝しかねえ。泣いてくれたおかげで減刑ゲットwww」


会場がざわついた。


スライドは次々に切り替わり、牧野の過去の投稿が淡々と映されていく。

——反省の仮面をかぶり、内心では遺族と世間を見下す言葉の数々。


一瞬、牧野の顔が強張った。


マイクの前に立ち尽くしたまま、彼は言葉を失った。会場の空気が一気に変わる。拍手が止まり、どよめきと困惑が混じる。


その後、流れた映像ではアカウントの管理画面を表示したスマートフォン。一度ロックされたそのスマホがリビングに置かれ、鼻歌を歌いながらそれを手に取る牧野の姿だった。


客席の最後列で、佳央里はその様子を静かに見ていた。隣には、フードを目深にかぶった美優。その手は震えていた。


「……ごめんね、お兄ちゃん」


彼女はそう呟いた。


事後、SNSやネットニュースは「模範的加害者の裏の顔」で埋め尽くされた。倉科が用意していた特集記事と証拠資料が同時公開されたことで、牧野の偽善は瞬時に全国へ広まった。


《「深く反省」は演技?》

《安全啓発スピーチ中に暴露された“裏アカ”の実態》

《元加害者が語っていたのは偽りの贖罪だった》


企業は契約解除を発表し、フォーラム主催者は謝罪会見を開いた。


「被害者遺族の気持ちを踏みにじる行為」

「更生の名を騙った冒涜行為」


その言葉が、今度は彼に向けて浴びせられていた。


佳央里の手元には、倉科が送ってくれた証拠ファイルが残っていた。彼女はそれを静かに封筒に戻し、リビングの引き出しにしまった。


そのとき、スマートフォンに一通のショートメッセージが届いた。


【裏で手を引いてたの、あんただろ?事故現場で待つ】


牧野俊晴、あの男だ。


「反省、してないみたいね」


佳央里はそう呟き、娘の遺影に目をやった。蝋燭の火がまた、わずかに揺れた。





事故現場に指定された夜。都内のはずれ、あの交差点には雨が降っていた。


佳央里は躊躇なくその場所にやってきた。すでに立っていたのは牧野俊晴。傘も差さず、濡れたまま立ち尽くしているその姿は、一見すると“打ちのめされた男”のようだった。


だが、彼の口から出た第一声が、その幻想をあっけなく壊した。いや、予想通りというべきか。


「で? 満足か? 俺の人生ぶっ壊して」


佳央里は答えない。牧野はにやりと笑う。表情には、悔しさや反省など微塵もなかった。


「ネットで俺を叩いてる連中、ほとんど“善人ごっこ”だぜ。本気で反省してる人間がいたら、あんな舞台で喋らねぇよ。全部見せ物だよ、見せ物。俺はうまくやってた。それだけの話」


「あなた……本当に、自分が何を壊したか、まだわかってないのね」


「はぁ? 娘の命だろ? 悪かったよ、事故だったんだよ。俺だってあのときは動揺してた。でもな、終わったもんは終わったの。それをいつまでも引きずってるほうが“社会の迷惑”なんだよ」


「そう。…もうあなたには何も期待していないわ。ところでなんで私を呼び出したの?」


「そんなの決まってんだろ!いいか、そっちから始めたんだ!やったらやり返される、当然だろっ」


自分には何も責任がない、そう言い聞かせるように叫んだ牧野はポケットからナイフを取り出した。


「親子同じ場所で殺してやるよ!」


しかし、その刃が佳央里に届くことはなかった。


「ぐわぁっ」


背後から足音を消して近づいていた倉科がナイフを持つ手を抑え、美優が防犯スプレーを牧野の顔面目掛けて放った。両手で顔を抑えもがき苦しむ牧野はナイフを落とし、倉科がそれを蹴り飛ばす。


そして、パトカーのサイレンが近づいてきた。


「暴行未遂の現行犯。ちゃんと通報しておいたわ。それにずっと録画もしてた。今回は、もう“模範的加害者”の肩書きは通用しない」


濡れたアスファルトの上で、警官たちに腕を掴まれながらなお叫んだ。


「俺は! 間違ってねぇ! 社会が……社会が求めた“いい加害者”を演じてただけなんだよ!」


——その声には誰も答えなかった。


それから数ヶ月後。


佳央里は一人、娘の命日を迎えていた。仏壇に手を合わせる彼女の顔は、どこかすっきりしていた。ニュースでは、牧野俊晴が暴行未遂と“虚偽発言による助成金詐欺”の疑いで再逮捕されたと報じられていた。


支援団体やスポンサーが調査を始めた結果、彼の過去の寄付や講演料の不正受給が次々と明らかになり、社会的に完全に抹消されていった。


贖罪の演技を踏み台に、利得と称賛だけを欲した男の末路。


それは静かで、そして完璧な“社会的死”だった。


「莉子。これでやっと……あなたを、悲しませる声がすべて、静かになったわ」


部屋に流れる蝋燭の灯は、もう揺れていなかった。

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