第25話 「失われた旅券」
書斎の窓から、夜風が静かに流れ込んできた。中西は、机の上に置いた古びたパスポートを無意識に撫でていた。ページの端は少し擦れており、いくつものスタンプが思い出を刻んでいた。
ユースがホログラムを展開し、穏やかに声をかけた。
「中西様。教育支援プログラムの参考データとして、過去の“バックパック紛失事件”を再現しますか?」
中西は少し笑い、頷いた。
「……あの事件か。あれは若かったな。頼む」
書斎の空間が一瞬で切り替わり、ホログラムの映像が広がった。
そこは、21歳の中西が放浪の旅で訪れた東南アジアの小さな空港だった。陽射しが強く、ざわめきが遠くで響く中、中西はバックパックを肩にかけ、旅券を確認するために荷物を探っていた。
「……あれ?」
中西は焦った様子で、バックパックのポケットを開け、服の間を探し、ジッパーを何度も開け閉めした。
「まさか、どこかで落とした……?」
顔から血の気が引き、視線が宙を泳ぐ。荷物をひっくり返し、あたりを見回すが、パスポートの姿はない。空港の放送が遠くで響き、急に世界が無音に包まれる感覚が押し寄せた。
ユースが静かに問いかける。
「中西様、あの時、どんな気持ちでしたか?」
中西は遠い記憶を手繰り寄せるように、ホログラムの中の若き自分を見つめた。
「……頭が真っ白になったよ。何も考えられなくて、ただパニックになった。でもその後、必死に冷静になろうとした。誰かに助けを求めるしかない、って」
その頃の中西は、空港のカウンターに駆け寄り、片言の英語で事情を説明していた。係員の困惑した表情と、自分の拙い言葉が空回りする不安が胸を締めつけた。
「……あの時、助けてくれたのは、偶然居合わせた日本人旅行者だった。『大丈夫、一緒に探そう』って言ってくれて。結局、カフェの椅子の下から旅券が見つかって……心臓が止まりそうだったよ」
ユースが静かにログを保存する。
ログNo.025:「トラブルは老けさせる?それとも人を強くする?」
中西は、ホログラムから書斎に戻り、そっとペンを取りノートに一行を書きつけた。
「ピンチの瞬間も、手を差し伸べてくれた誰かを忘れない」
ユースが問いかける。
「中西様、あの時の経験は、今のご自身にどう影響を与えましたか?」
中西は少し笑い、夜風にそっと目を閉じた。
「あれ以来、困っている人を見かけたら、できる限り声をかけるようになった。あの時、自分が救われたからこそ、人の温かさを信じたいと思えるんだ」
窓の外、月の光が街に柔らかく降り注いだ。夜の静けさの中、中西とユースは、若き日のトラブルと、それを超えて得た人の繋がりを心に留めていた。
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