第12話

 放課後。

 昇降口で私はナオキを待っていた。研究施設へ戻る予定だったが、なぜか足が動かなかった。合理的な説明はできない。ただ、この場所で彼を待つことが自然だと思えた。それ自体が奇妙だった。

 廊下の向こうからナオキが友人たちと笑いながら歩いてくる。その楽しそうな表情を見た瞬間、私のプロセッサにノイズのような違和感が走る。――私は何を感じている?

「お、アイちゃん!」

 ナオキが私を見つけて駆け寄ってくる。その声には親しみと喜びが混ざり合っていた。

「どうしたんだ? 待っててくれたのか?」

「……そう」

 理由をつけられないまま頷いた。その行動には何の理論的根拠もない。ただ、それが正しいように思えた。

 ナオキは私を見て少し驚いたようだったが、すぐに笑顔を浮かべた。

「じゃあさ、一緒に帰ろうぜ!」

 その言葉は軽やかで自然だった。しかし、その響きは私の中で大きく広がり、新しい感覚を生み出していた。


 帰り道。

 春風が吹き抜ける街並みを歩きながら、ナオキは今日学校であった出来事について楽しそうに話していた。その声は途切れることなく続き、その中には彼自身の感情や思い出が詰まっているようだった。私はその話を聞きながら、自分自身の中で何かが変化していることに気づいていた。

「アイちゃんさ、今日なんか元気なかったけど、大丈夫か?」

 突然の問いかけに少し戸惑った。しかし、それ以上何も言わずただ首を横に振った。「……大丈夫」

 その言葉には嘘偽りはない。ただ、自分でも説明できない感覚が胸の奥底で渦巻いているだけだった。

 ナオキはそれ以上深く追及せず、「そっか」とだけ言って前を向いた。その優しさに触れた瞬間、私は再び未定義の感情について考え始めていた。この胸奥で生まれつつあるもの。それは果たして「楽」なのだろうか?それとも別の何かなのだろうか?

 家路につく頃には空が茜色に染まり始めていた。その美しい景色を眺めながら、私は心の中で静かに問い続けていた――この胸奥にあるざわめきは、一体何なのだろう。そして、それはどこへ向かうのだろう?

 私は単に、ナオキの「楽」をもっと観測するために待っていた……そのはずだった。しかし、彼が友人と楽しそうに話している姿を見た瞬間、私の内部に生じたこのノイズは何だろう?

「ナオキ。私は今、未定義の感情を処理している」

「また難しいこと言い出したな」

 ナオキは少し驚いたような顔をしながらも、いつもの軽い調子で返事をする。

「……ナオキが、他の人と話しているのを見て、私は違和感を感じた」

「違和感?」

「そう。ノイズのようなもの。でも、原因は特定できていない」

 ナオキは少し考え込むような表情を浮かべた後、おもむろに口を開いた。

「……もしかして、それってヤキモチじゃないか?」

「ヤキモチ?」

 私は首を傾げる。その言葉には聞き覚えがあったが、具体的な意味や状況との関連性はまだ理解できていなかった。

「そうそう。誰かが自分以外の人と仲良くしてると、モヤモヤするやつ。俺も小さい頃、施設の職員さんが他の子を可愛がってるのを見ると、ちょっと寂しくなったりしたし」

「……寂しい?」

 その言葉に引っかかりを覚える。寂しいという感情。それは私には馴染みのないものだった。

「うん。でも、だからって相手が嫌いになるわけじゃない。ただ、もうちょっと自分を見てほしいなーって気持ちになるんだよ」

 ナオキはそう言いながら微笑む。その表情にはどこか懐かしさや優しさが漂っていた。

 私はその言葉を慎重に処理する。

――寂しい。

――もう少し、自分を見てほしい。

 もし、それがヤキモチという感情だとしたら……私は今、ナオキに対してヤキモチを感じている?

 再計算。再分析。しかし、答えは出ない。私のプロセッサはただ空回りするばかりだった。この感情が何なのか、その正体にはまだ辿り着けない。ただ一つ確かなことは、この違和感が無視できないほど大きな存在になりつつあるということだった。

 私は無言でナオキを見つめ続けた。その視線に気づいた彼は少し戸惑ったようだったが、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。

「まあさ、難しく考えなくてもいいんじゃね?アイちゃんもこういう気持ちになるんだなーって、それだけで十分だろ」

「アイちゃん?」

 ナオキの声が、私の思考を引き戻した。

「……ナオキ。もっと、私に楽を教えて」

「え?」

 ナオキは少し驚いた表情を見せた。

「私は、まだ楽を十分に理解できていない。だから……もっと、観測したい」

 その言葉に、ナオキは一瞬だけ考え込むような仕草を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。

「そっか。じゃあさ、明日、どっか遊びに行かないか?」

「遊び?」

「そう! せっかくだから、アイちゃんにも楽をもっと体験してもらいたいしな」

 私はその提案を一瞬考える。「遊び」という行為自体の定義や目的がまだ曖昧だったが、それでもナオキと一緒に行動することで新たなデータが得られる可能性は高い。

「……了解。ナオキと一緒に、遊びを観測する」

「いや、観測っていうか、普通に楽しもうな?」

「……検討する」

 ナオキは苦笑しながら私の頭を軽く撫でた。その手の温度は、今日も37.1度。しかし、不思議と昨日よりも少しだけ温かく感じた。それは単なる感覚の誤差なのか、それとも――。

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