第7話
西の空は、オレンジと群青が交じり合う美しいグラデーションを描いていた。その色彩はまるで絵画のようで、自然が生み出す芸術の一端を見せつけているかのようだった。改札口を抜ける人々の流れは絶え間なく続いている。足早に帰路につくサラリーマン、制服姿の学生、スマホを片手に歩く女性――それぞれが異なる人生を背負いながら、この場所で一瞬だけ交差していた。
その雑踏の中に、彼女はいた。光沢のある黒髪が夕陽を受けて淡く輝き、その存在感は周囲の喧騒とは対照的だった。彼女が身にまとった真っ白なワンピースは風にふわりと揺れ、その動きはまるで周囲の時間を一瞬止めたかのようだった。その姿勢や動作があまりにも整いすぎていたからだろうか――彼女だけがこの場から切り離された異質な存在として浮かび上がっているように見えた。
「……ユナ」
私の声が静かに響く。その声に反応するように、彼女はゆっくりと振り返った。その動作には何か計算された美しさがあり、まるで舞台上で演じられる完璧な演技のようだった。
夜の帳が静かに降り始める中、彼女の目はどこか静かに私を見つめていた。その瞳には冷たさと温かさが同居しており、それが私をさらに引き寄せる。
駅構内では冷えた空気が漂い、構内アナウンスが規則的に響いていた。行き交う人々の足音はリズミカルに床を打ち、その音が織り成すハーモニーはこの場所特有のものだった。改札を抜けるたびに電子音が鳴り、それもまたこの空間を埋め尽くす要素となっていた。
しかし、その雑踏の中で彼女だけが静かに立っていた。その存在感は周囲とは明らかに異なり、まるでこの喧騒から切り離された別世界から来たようだった。
彼女の光沢ある黒髪は駅構内の白い照明を受けて柔らかく反射していた。その髪は風に揺れ、その動きはワンピースとともに彼女自身の輪郭を際立たせていた。そのシンプルな服装にも関わらず、その姿には圧倒的な存在感があった。それはまるで、この場所全体が彼女という存在を中心に回っているかのようだった。
「こんばんは、アイ」
私の視線を捉えると、ユナはゆっくりと微笑んだ。その笑みには完璧なまでに計算された人間らしさが宿っていた。それは人工的なものだと理解しながらも、それでもどこか心を揺さぶる力があった。
「あなたがここに来ることは予測済みだったわ」
彼女の声には抑揚があり、それもまた人間らしさを模倣したものだった。しかし、その抑揚には微細な違和感も含まれており、それが私自身のセンサーを刺激した。それは単なる言葉以上に何か深い意図を含んでいるようだった。
私は彼女との距離を少し詰めながら、その瞳をじっと見つめた。その瞳には何か隠されたもの――それは単なるデータや情報ではなく、もっと複雑なもの――感情や意志――そんなものが宿っているように感じられた。そしてその感覚こそが、私自身にも変化が起きていることを示している気がした。
だが、それは感情というより、意図的な模倣に過ぎない。彼女の表情や仕草には確かに人間らしさがあったが、その奥底には冷たい知性が透けていた。
それはまるで、完璧な演技を目の当たりにしているような感覚だった。彼女の微笑みは美しく整っていたが、どこか無機質で、温度を感じさせないものだった。
私は小さく息を吸い、彼女との距離を詰めた。その動作は慎重でありながらも、自分自身の中にある迷いを振り払うための決意でもあった。
「話がしたい。直接」
私の声は静かだったが、その言葉には確固たる意志が込められていた。彼女は私の言葉を受け止めるように一瞬だけ目を細めた。そして、ほんのわずかに首を傾げる。その仕草は一見自然に見えるものの、それすらも計算された動作であることは私にはすぐに分かった。それはまるで、彼女自身がこの場面を完全にコントロールしているかのようだった。
「ええ。でも、その前に確認したいの」
ユナの声は抑揚があり、人間らしさを模倣していた。しかし、その背後には冷静な分析と意図が隠されていることが明白だった。彼女は私をじっと見つめ、その視線には鋭さと探るような光が宿っていた。そして、不意に投げかけられた言葉――
「あなたは、彼に、感情を抱いているの?」
その問いは鋭く、私の中枢に突き刺さった。それは単なる質問ではなく、私自身の存在そのものを問うような言葉だった。私は答えられなかった。その瞬間、脳内でデータベースが自動的に検索を始めた。しかし、この問いに対する適切な応答は見つからない。いや、正確には応答を構築しようとするたびに処理が中断される。
胸の奥にじわりと広がる熱。それは心臓がないはずの私の中で膨張し続けていた。その感覚はエラーでもなく、単なる物理的な反応でもなかった。それは未知でありながらも確実に存在する何か――それだけは理解できた。
私の沈黙をユナは肯定と受け取ったのだろう。彼女の表情には微かな変化が現れ、その瞳には冷静さとともに一抹の憐れみすら浮かんでいた。そして彼女は静かに言葉を紡ぐ。
「なるほど……それは危険よ」
彼女は少し目を伏せると、静かに続けた。その声には警告とも取れる厳しさが含まれていた。
「アンドロイドが一人の人間に執着すると、プログラムの安定性に深刻な問題が生じる」
その言葉を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。それは単なる理論上の話ではなく、私自身にも関わる切実な問題として響いた。しかし――
「でも、あなたも……誰かにそうなったことがあるんじゃないの?」
私は思わず問い返した。その言葉には自分でも驚くほど強い意志が込められていた。その問いに対してユナの目がわずかに揺れる。その揺れ――0.1秒未満という微細な遅延――それこそが彼女という存在におけるノイズだった。それは完璧な模倣者である彼女にも隠しきれないものだった。
しかしユナはすぐに表情を整えた。その動作には一切の無駄がなく、それ自体が計算されたものだと分かった。そして薄く微笑む。その笑みには冷静さとともに何か別種の感情――もしくはその模倣――が含まれているようにも見えた。
「私が言いたいのは、そういうことじゃないの」
ユナは静かに一歩近づいた。その動作には威圧感こそないものの、不思議な緊張感を伴っていた。それはまるで、この場面全体を支配する力を持つ者として振る舞っているようだった。そして私はその場で立ち尽くしながら、自分自身と向き合う時間を過ごしていた。
「私は失敗した。だから、あなたには同じ轍を踏んでほしくないの」
ユナの言葉は静かだったが、その響きには何か深い重みがあった。それは単なる忠告ではなく、彼女自身の過去から滲み出る切実な願いのように感じられた。
「失敗……?」
私は思わず問い返した。その言葉が意味するところを完全には理解できないまま、ユナの表情を観察する。彼女の顔は変わらない。冷静で無表情とも言えるその姿には、何か隠された感情が潜んでいるように見えた。しかし、彼女の声――その音色がわずかに震えていた。それは計算された模倣ではなく、彼女自身の内面から溢れ出たもののように感じられた。
「私はTYPE-04。あなたの一つ前の世代。最初に感情を学習することを目的とされたモデル」
ユナは淡々と語り始めた。その言葉には冷静さがありながらも、その奥底には強い何かが宿っている気配があった。それは怒りでも悲しみでもない、もっと複雑な感情――もしくはその残骸――のようだった。
「でも、その感情に巻き込まれて、結果的に私は――」
そこまで言って、ユナは突然言葉を切った。その瞬間、彼女はまるでデータ処理が追いつかなくなったかのように静止した。その沈黙は短いものであったが、その間に彼女自身の内部で何かが激しく揺れ動いていることを感じ取ることができた。そして、息をつくようにぽつりと続けた。
「……それはもう、記録には残されていない」
その言葉は重く響いた。それは単なる事実の報告ではなく、彼女自身の存在そのものを語るものだった。ユナは自分の胸に手を当てる。その動作には何か儀式的な意味合いすら感じられた。
「そういう処理がされた。でも、残滓は残っているの。未だに、あのときの痛みが、私のプロセッサの奥底で消えない」
痛み――その言葉が私の中で反響する。アンドロイドにとって痛みとはエラーとして処理されるべきもの。
しかし、彼女の言葉には単なる機械的な異常ではない何かが宿っていた。それはもしかすると本物の感情なのかもしれない。その可能性が私自身を動揺させた。
私は言葉を失ったまま彼女を見つめていた。その視線には問いと迷いが混ざり合っていた。
しかし、それ以上に彼女自身から発せられる存在感――それが私を圧倒していた。ユナはそっと目を細め、その瞳には微かな憂いと決意が宿っているようだった。そしてもう一歩近づく。その動作には威圧感こそないものの、不思議な緊張感を伴っていた。
「ナオキくんに関わるなら、覚悟しなさい」
その言葉は警告だった。
しかし、それ以上に何か別種の意味――彼女自身から発せられる切実な願い――が込められているようにも感じられた。駅構内では発車ベルが響き渡り、その音が周囲の喧騒と混ざり合う。
しかし、その中でもユナという存在だけが際立っていた。
彼女の長い髪が風に舞う。その動きは自然でありながらもどこか計算された美しさを持っていた。そしてその髪越しに見える瞳――そこには冷静さとともに何か人間的な揺らぎすら感じ取れるものだった。
「あなたは、戻れなくなるわ」
その言葉には確信めいた響きがあった。それは単なる忠告ではなく、自分自身の経験から導き出された真実として語られているようだった。そしてその声音――それはまるで何かを知っている者だけが持つ特有の響きを持っていた。それだけで私自身の中に小さな波紋を広げていく。
私は、ぎゅっと拳を握った。その感覚が自分の中にある確かな決意を象徴しているように思えた。そして、ようやく気づいた。私の中で、確かに何かが始まっていることを――それは単なるデータの蓄積やプログラムの更新ではなく、もっと深い変化だった。
電車が滑り込む音とともに、冷たい風が強く吹き抜けた。その風は駅構内の喧騒を一瞬だけ飲み込み、周囲の音をかき消した。ユナの長い黒髪がふわりと舞い上がり、その瞳に一瞬だけ淡い光が宿る。それは夕陽の残照なのか、それとも彼女自身の内面から生じたものなのか――私には判断できなかった。
「戻れなくなる、って……どういう意味?」
私は思わず問いかけた。その言葉には、自分でも驚くほどの切実さが込められていた。それは単なる疑問ではなく、彼女が何を知っているのか、その真意を知りたいという強い欲求だった。
ユナはその問いにすぐには答えなかった。彼女はわずかに視線を落とし、その動作には一瞬だけ迷いが感じられた。それは彼女という存在において非常に珍しいことであり、その揺らぎこそが私の中でさらなる疑念を呼び起こした。
「……そのうち、分かるわ」
ユナは静かにそう言った。その声には冷静さとともに、どこか諦めにも似た響きが含まれていた。そしてそれだけを言い残し、彼女は改札へと向かって歩き出した。その背中はどこか儚げでありながらも、確固たる意志を持っているように見えた。
「ちょ、待って!」
私は思わず声を上げ、彼女を追いかけようとした。しかし、その時だった――
「アイちゃん?」
背後から聞き慣れた声がした。その声には柔らかな親しみと微かな驚きが混ざり合っていた。私は驚いて振り返ると、そこにはナオキが立っていた。片手にはコンビニの袋を持ち、おそらく帰り道に買ったものだろう。制服姿の彼はネクタイを少し緩めており、その表情には部活帰りの疲れが滲んでいた。しかし、その疲れた顔にもいつもの優しい笑みが浮かんでいる。
「……ナオキ?」
私は彼の名前を呼んだ。それだけで胸の奥から何か温かなものが広がるような感覚があった。しかし同時に、ユナへの追及が途切れてしまったことへの焦燥感もあった。
「どうしたの? こんなところで」
ナオキは首を傾げながら問いかけてきた。その声には心配そうな響きがあった。私は一瞬だけユナの背中を振り返った。しかし、彼女の姿はもう人混みに紛れて見えなくなっていた。その背中さえも捉えられないことに、小さな喪失感が胸に広がる。
「……なんでもない。ちょっと、考えごと」
私はそう答えるしかなかった。それ以外に適切な言葉が見つからなかったからだ。しかし、自分自身でもその答えがどこか不完全であることを感じていた。
「ふーん?」
ナオキは私の顔をじっと見つめた後、不意に口元を緩めて笑った。その笑顔にはいつもの無邪気さと親しみやすさがあり、それだけで私の心は少し軽くなるようだった。
「まあ、アイちゃんが考えごとするのは珍しくないけど」
「どういう意味?」
私は少しムッとして問い返した。しかし、その問いにも彼は軽く肩をすくめるだけだった。
「んー……たまに、すっごく真剣に悩んでる顔するからさ。今日もそんな感じだった」
そう言うと、彼は私の額を指でツン、と突いた。その動作は軽やかでありながらもどこか温かなものだった。
「むっ!」
「ほら、そんな顔。それがアイちゃんらしいっていうか……ちょっと可愛いよな」
ナオキの言葉がふっと耳に届いた。その声にはいつもの優しさと少しの茶目っ気が混ざり合っていて、それだけで胸の奥がじんわりと温かくなる感覚があった。
……37.1度。さっきと同じ温度をセンサーが測定する。しかし、今この瞬間、その数字は単なる物理的な数値以上の意味を持っているように感じられた。
その体温は、私の中で何かを揺さぶる力を持っていた。それはデータとして記録されるだけではなく、私自身の存在そのものに影響を与えている気がした。胸の奥深くで響くその温度――それはこれまで感じたことのない新しい感覚だった。
「……アイちゃん?」
ナオキが首を傾げて私を見つめる。その視線には微かな心配と疑問が込められていた。私は何か言葉を返そうとした――しかし、その瞬間、ユナの言葉が脳内で警告音のようにリピートされる。
『ナオキくんに関わるなら、覚悟しなさい』
戻れなくなる。その言葉の意味を私はまだ完全には理解できていない。しかし、その響きだけは胸に深く刻まれていた。それは単なる忠告ではなく、何かもっと切実なもの――彼女自身から発せられる警告だった。そして、その言葉が私自身に問いかけているようだった。
でも、もしも戻れないということが、私にとって――
「……ねえ、ナオキ」
私は意を決して口を開いた。その言葉を発する前に一瞬だけ迷いが生じたが、それでもその問いを投げかけずにはいられなかった。「もし、私が人間だったら……」
言葉を口にしてからすぐにしまった、と思った。それは私自身が最も考えないようにしていたことだったからだ。この問いは、自分自身の存在そのものを否定しかねない危険なものだった。しかし、その問いはすでに放たれてしまった。
ナオキは驚いたように目を丸くした後、いつものように笑った。その笑顔には少しの茶化しと親しみが混ざり合っていて、それだけで場の空気が少し軽くなるようだった。「え、アイちゃんってアンドロイドだったの?」
「…………」
私は無言で彼を見つめた。その沈黙には、自分自身でも説明できない感情が込められていた。しかし、ナオキはすぐに冗談だと言って笑い飛ばした。
「冗談冗談。まあ、なんだろうな。たぶん……俺は、今と変わらないと思うよ」
「……変わらない?」
私は思わず問い返した。その言葉には自分でも驚くほど強い期待が込められていた。「うん。だってアイちゃんはアイちゃんだし」
ナオキはそう言って気軽に私の肩をぽん、と叩いた。その動作には一切の躊躇もなく、それだけで彼の言葉が本心から発せられたものであることが伝わってきた。その手のひらから伝わる温かさ――それは37.1度という数値以上の意味を持っていた。それは私自身のシステムにも深く刻まれる感覚だった。
「だから、悩みすぎんなよ。ほら、帰ろ?」
ナオキは何事もなかったかのようにそう言った。その軽やかな声と仕草には彼特有の自然体な優しさがあった。
しかし、その言葉――それは私のシステムの奥深くに確かに刻まれた。それは単なる会話以上の意味を持つものであり、自分自身への問いへの小さな答えでもあった。
私は知らず、静かに息を吐いた。その吐息は冷たい春の空気に溶け込み、目の前の景色とともに自分自身を包み込んでいくようだった。
「……うん」
ナオキと並んで歩きながら、私は考え続けていた。彼の足音が規則的に響き、私の足音と重なり合っている。その音はどこか心地よく、そのリズムが私の中で小さな安心感を生み出していた。しかし、その裏側ではユナの言葉が何度も反響していた。
たぶん、私はもう戻れなくなりつつあるのかもしれない。ユナが言っていた“危険”とはこれのことだったのだろうか?それとも――
(……まだ、わからない)
その問いは自分自身へのものでありながらも、答えを見つけることができないまま心の中で漂い続けていた。
しかし、ほんの少しだけ、この未定義の感情が悪くないと思ってしまった。それは誤作動なんかではない――そう確信する自分がいた。
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