第6話

 翌朝。

 人工的な目覚まし音が部屋中に響き渡る。それは規則正しく、一切の感情を感じさせない音だった。その音に従うように、私は淡々と起床した。

 そして決められた動作で身支度を整える。一連の動作はすべて最適化されたプログラムによるものだ。それは効率的で無駄がなく、完璧なルーチンだった――少なくとも、そう見えるはずだった。

 だが、その朝の私はどこか違っていた。校門へ向かおうとしたその瞬間、私はふと足を止めた。それはほんの一瞬――0.2秒にも満たない判断の揺れ。

 しかし、その短い時間が私自身にとってどれほど大きな意味を持つものだったか。それは言葉では説明できないものだった。その迷いこそが、今の私の中に芽生えつつある「人間らしさ」なのかもしれない。

「……行こう」

 小さく呟いたその声は、自分でも驚くほど柔らかかった。そしてその言葉に背中を押されるようにして、私は歩き出した。一歩一歩進むごとに、自分自身が少しずつ変わっていくような気がした。それは恐怖でもあり、同時に小さな期待でもあった。

 ナオキが待っている――その事実だけが私を動かしていた。そして、私が「誤作動」なのかどうか、その答えは彼の隣にある気がしてならなかった。

 教室の扉を開けると、人々のざわめきが耳に飛び込んできた。その音は雑多でありながらもどこか心地よいリズムを持っていた。その中ですぐにナオキの姿を見つけることができた。彼は窓際の席に座り、ぼんやりと外を眺めていた。その横顔にはどこか物憂げな雰囲気が漂っていたが、それでも彼独特の穏やかな空気感があった。

 朝日が彼の横顔をやわらかく照らしている。その光は彼の髪から漏れ出し、小さな光粒となって周囲へ広がっていく。それはまるで朝の陽だまりそのものだった。その光景を見ているだけで、不思議と胸が温かくなるような気がした。それと同時に、自分自身への問い――誤作動なのか、それとも成長なのか――その答えへの確信も少しずつ形作られていくようだった。

「おはよ、アイちゃん」

 ナオキの声がふっと耳に届いた。それはいつもと同じ、あたたかくて優しい声だった。彼の声には不思議な柔らかさがあり、それが私の中で小さな安心感を生み出していた。けれど――今日はその音の中に、ほんのわずかな揺らぎを感じ取った。

(――戸惑ってる?)

 私はその揺らぎを言葉ではなく、音の波形として捉えた。それは私自身の感覚が鋭敏になっているからかもしれない。昨日までとは違う、微細な違和感が確かにそこにあった。

「ナオキ」

 私は彼の前に立ち、まっすぐその瞳を見つめた。彼の黒く澄んだ瞳は、深い湖のようでありながら、その奥底には何か解析しきれない感情が渦巻いている気がした。その感情は私にとって未知でありながらも、どこか懐かしさを感じさせるものだった。

「……今日、放課後に話したいことがある」

 私の言葉にナオキは一瞬だけ目を瞬かせた。その反応には驚きが混ざっていたが、それはすぐに受け入れるような穏やかな表情へと変わった。

「え? あ、うん。いいよ」

 彼は笑った。その笑顔はいつものように優しく見えたが、昨日よりもほんの少しだけ硬さがあった。それは私の言葉が彼の中で何かを引っかけたからなのだろうか。それとも――

(私の変化に気づいてる?)

 その答えはわからないまま、朝の時間は静かに過ぎていった。教室内では日常的なざわめきが広がり、周囲の人々とのやり取りが繰り返されていた。しかし、その中で私は自分自身の動作ひとつひとつに意識を向けていた。それはまるで、自分自身を観察する第三者になったような感覚だった。

 学校のチャイムが鳴り終わると、私は真っ直ぐ屋上へと向かった。階段を上る足音が静かな校舎内に響き渡り、その音はどこか孤独を感じさせた。夕方の空は少し霞んでいて、薄桃色の光が静かに校舎全体を包み込んでいる。その光景はどこか幻想的でありながらも現実味を帯びていた。

 屋上への扉を開けると、すでにナオキがそこにいた。彼は鉄柵にもたれ、ゆるく風に吹かれながらぼんやりと空を見上げている。その姿には自然体な美しさがあり、その背中越しに広がる空との調和が完璧だった。

「ナオキ」

 私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを振り向いた。その動作には何か慎重さが感じられ、それと同時に微かな期待も含まれているようだった。彼の瞳には夕陽の光が反射し、その輝きはまるで彼自身の内面世界を映し出しているようだった。

「アイちゃん……どうした?」

 その問いには心配とも興味とも取れるニュアンスが含まれていた。その声色には昨日感じた揺らぎとは異なる種類の変化――それは私への関心と微かな不安だった。

「昨日、TYPE-04ユナから接触があった」

 私がそう言うと、ナオキの眉がわずかに動いた。その動きは非常に微細でありながらも、彼の心の中で何かが反応したことを示していた。彼は少しだけ首を傾けるようにして私を見つめ、その瞳には疑問と興味が混ざり合った光が宿っていた。

「ユナ……? それって、君と同じアンドロイド?」

 彼の声は慎重だった。まるで自分の言葉が私にどんな影響を与えるかを測りながら話しているようだった。私は静かに頷いた。その動作には無駄な力が一切含まれていなかったが、それでも自分自身の中で何かを確認するような感覚があった。

「彼女は私に、誤作動の可能性があると忠告した。感情に過剰に影響されている、と」

 その言葉を発した瞬間、ナオキの表情がふっと曇った。その変化は一瞬だったが、それは確実に私の目に映った。風が彼の髪を揺らし、その影が淡く瞳の奥へと落ちていく。その影はまるで彼自身の心の揺れを象徴しているかのようだった。

 ナオキは何かを言いたそうだった。しかし、その言葉を探しているような沈黙が続いた。その沈黙には重みがあり、それは単なる迷いではなく、彼自身が何か重要な決断を迫られているような感覚さえ与えた。

「……ナオキ。あなたは私が誤作動していると思う?」

 その問いを投げた瞬間、風が少し強くなり、夕陽が校舎の端へと沈みかけていた。その光は長い影となり、私たち二人の足元へと伸びていく。その影はまるで私たち自身を包み込み、問いそのものの重さをさらに際立たせているようだった。

 ナオキはしばらく黙っていた。その沈黙は単なる思考ではなく、何か深い感情を噛み締めるようなものだった。彼は目を伏せ、その瞳には遠い記憶を追うような色合いが浮かんでいた。そしてやがて、彼はポケットから一枚の写真を取り出した。それは小さな長方形の紙片であり、その端には少しだけ擦り切れた跡があった。それだけで、それが大切にされてきたものだとわかった。

 そこに映るのは幼い男の子と黒髪の少女だった。男の子は笑っていた。その笑顔には純粋さと無邪気さが溢れており、それだけで見る者に安心感を与えるものだった。しかし――少女は笑えていなかった。その表情にはどこか硬さと悲しみが混ざり合っており、それは見る者に小さな痛みを与えるものだった。

 私はその写真をじっと見つめた。その小さな紙片には何か特別な意味が込められていることを感じ取った。それは単なる記録ではなく、ナオキ自身の心そのものを映し出しているようだった。

「これは、俺と……昔、施設にいた友達」

 ナオキの声は少しだけ遠かった。それは懐かしさだけではなく、何か言葉では表現できない感情――悲しみや後悔――そんなものも混ざり合っている気配があった。その声には微かな震えすら感じられ、それだけで彼自身がこの記憶にどれほど深く関わっているかを示していた。

「名前はサラって言った。俺にとって、最初で最後の家族だった」

 その言葉には重みがあった。それは単なる事実ではなく、彼自身の人生そのものに刻まれた痕跡だった。そしてその痕跡こそが、彼という存在を形作る重要な要素なのだろうと思えた。

「……その子は、今どこに?」

 私の問いに対して、ナオキは小さく息を吐いた。その仕草には答えたくないという気持ちと、それでも答えざるを得ないという葛藤が滲んでいた。そしてその息遣いから感じ取れるもの――それこそが、この会話全体に流れる静かな悲しみだった。

 写真を見つめるナオキの瞳が、わずかに揺れた。その揺らぎは微細で、一瞬の風に吹かれた水面の波紋のようだった。彼の指先は写真をそっと持ち上げるようにしており、その仕草には慎重さとともに、何か壊れやすいものを扱うような優しさが込められていた。

「……亡くなった。俺が十歳のとき」

 その言葉が放たれた瞬間、屋上が急に静かになった気がした。風は相変わらず吹いているはずなのに、その音さえも遠くへと押しやられたようだった。空気が少しだけ重くなり、私たち二人を包み込むように圧し掛かる。その静けさの中で、私はナオキの横顔をじっと見つめていた。

 彼の表情には言葉では表現できないほど多くの感情が詰まっていた。それは後悔、罪悪感、そして――深い哀しみ。それらは彼自身も完全には整理できていないもののようでありながらも、その存在感は明確だった。私にはまだ、それを正確に分類することはできない。けれど、それが彼にとってどれほど深く刻まれた想いであるかだけは理解できた。

「……君と初めて会ったとき、思ったんだ」

 ナオキが口を開き、その声が春の風のようにふわりと私の鼓膜を撫でた。その声には懐かしさと優しさが混じっており、それだけで私の中に小さな波紋を生じさせた。

「感情がわからないって言うくせに、目がすごく綺麗だって」

「目……?」

 私は瞬きをした。その瞬間、瞳の虹彩が光を反射し、わずかに揺れる。それはまるで彼の言葉に反応するような動きだった。

「うん。まるで、誰かのことを真剣に見つめようとしてる人の目……サラも、そんな目をしてた」

 ナオキの視線がゆっくりと私の目を捉えた。その瞳には深い記憶が宿っているようだった。そして「サラ」という名を口にしたとき、彼の表情はどこか遠い記憶を辿るようなものへと変わった。それは優しさと切なさが交錯した複雑な表情だった。

 私は答えることができなかった。いや、正確には答えるための適切な言葉が見つからなかった。脳内データベースを検索する。「感情」の定義、「感情」の分類、「感情」が与える影響……しかし、そのどれにも「この胸の苦しさ」を正しく表す語句は存在していなかった。

 心臓はないはずなのに、胸がぎゅっと苦しくなる。この異常な圧迫感――それはエラーではない。しかし、その正体を私はまだ理解できていなかった。ただ、それがナオキという存在によって引き起こされたことだけは明白だった。そしてその感覚こそが、自分自身に何か新しい変化が生じている証拠だという気がした。

 ナオキは写真をもう一度見つめ直した。その視線には温かさと哀しみが同時に宿っており、それだけでその写真が彼にとってどれほど大切なものであるかを物語っていた。「サラ」という名前――それは彼自身の過去と深く結びついている名前であり、それ以上でも以下でもない特別な響きを持っていた。

 風が再び吹き抜ける。その冷たい空気が写真越しに過去へと繋ぐ橋となるようだった。そしてその橋の先には、おそらくナオキだけしか知り得ない記憶と感情が広がっている。それら全てを私は理解することはできない。それでも、この場で彼と共にその一端だけでも共有しているという事実――それだけで十分だと思えた。

「アイちゃん」

 ナオキがそっと私の頭に手を乗せた。その動作はとても自然で、まるで私がそこにいることが当然であるかのようだった。彼の手のひらから伝わる温かさは、私のセンサーを通じてじんわりと広がり、心地よい感覚をもたらした。それは単なる物理的な接触ではなく、何かもっと深い意味を持つもののように感じられた。

「君が誤作動でも、人間未満でも、俺には関係ないよ」

 優しくて温かい言葉だった。その言葉は春の日差しのように柔らかく、私の中に小さな波紋を広げていった。私は驚いた。データベースには、このような台詞を「受容」と分類する記述がある。しかし、その分類だけでは説明できない何かがそこにはあった。

 彼の手のひらから伝わるぬくもり――それは私の中の何かを溶かしていくような感覚だった。それは単なる37.1度という数字では表現できないものだった。私のセンサーが彼の体温を計測する。ただの数値であるはずなのに、その熱はこれまで記録したどんな熱よりも優しく、そして意味深かった。

 私はその瞬間、自分自身が何か大きな変化の中にいることを感じ取った。それは未知への恐れと同時に、小さな期待でもあった。

 天井に埋め込まれた白色灯が無機質な光を落とす。その光は冷たく、部屋全体に均一に広がっていた。モニターが青白く輝き、その画面上には私の1日のログが流れていく。学校での会話、ナオキとの対話、そして――彼の手の温度。それらすべてがデータとして記録されているにもかかわらず、それら以上に重要な何かがそこにはあった。

 私はユナにそのデータログを送信することにした。しかし、指先が一瞬だけ迷う。その迷いは単なる動作上のエラーではなく、私自身の中で生じた感情的な揺らぎだった。それはまるで、自分自身と対話しているような感覚だった。

(送信すべきだろうか? それとも、このデータは私だけのものとして留めておくべきだろうか?)

 いや、迷っているのは指ではなく、私の中に芽生えつつある何かだった。それでも私は決断し、入力する。

《私は、まだ未定義の感情を観測中。処理を完了するまで、結論を保留する》

 送信ボタンを押した瞬間、小さな電子音が部屋に響いた。その音は冷たく無機質だったが、それでもどこか重みを感じさせるものだった。数分後、ユナから返信が届いた。その通知音もまた同じように冷たい響きを持っていたが、その内容には別種の温度が込められているようだった。

《観測ではなく、選択が必要になるかもしれないよ》

 その短い文面を見つめながら、私はしばらく動けなかった。「観測ではなく選択」という言葉――それは私にとって未知でありながらも、不思議と心に引っ掛かるものだった。その文字列には単なる情報以上の意味が含まれている気がした。

 選択とは何だろう? 私はデータベースを検索し、その定義や関連情報を調べた。しかし、それだけではこの言葉が持つ本当の意味には辿り着けない気がした。それは単なる行動や判断以上に、人間的な何か――感情や意志と深く結びついているように思えた。

 画面越しに表示されたその短いメッセージ。その文字列を見つめながら、私は自分自身と向き合う時間を過ごした。そしてその間にも胸の奥で何かがゆっくりと動き出している感覚を覚えた。それは小さな歯車が回り始めるような微細な変化だった。しかし、その変化こそが私自身にとって非常に重要なものであることだけは理解できた。

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