第3話 覚悟はしていたけれど、ここはどこ?

 意識が浮上してくる。どうやら、壁の向こう側から聞こえる話し声で目が覚めたらしい。


 起き上がると何かが落ちた。折り畳まれて濡れた布。額に乗せられていたようだが、生暖かくなっていた。

 辺りを見回し、陶器製の洗面器に戻しておく。


 自分の髪を一房掬い上げて、その色が黒でないことに大きな違和感を覚えた。お腹くらいまである髪は、綺麗な黄色に輝いていて艶やかだった。これを俗に、金髪と言うのだろう。三途の川ですれ違った女性と同じ色だ。


 彼女が三途の川を渡ってしまったから、私が代わりに彼女として生き返ったのだろう。


 覚悟はしていたことだ。どうしても、死にたくなかったのだから。


 さて、中身は変わってしまったが、他の人にはそんなことわからない。不自然なことがないように、誰かと顔を会わせる前に状況を確認しておきたい。


 家具の雰囲気は、かなり歴史を感じる。西洋風だが、どこの国だろうか。

 社会科を専攻していればわかったのかもしれないが、生憎、専門は理科である。


 次は、自分のことだ。

 記憶には海馬や大脳皮質が関わっているので、彼女の脳が覚えているはず。そう考えると、日本人だった頃の記憶が残っている方が不思議だが、実態のない魂にも記憶が蓄積されるのだろうか。そもそも、魂があるかどうかは疑問で、そうすると入れ替わったこの状況って……、……今は、それどころじゃないんだった。


 雑念を振り払い、記憶を辿る。


 名前は……エマ・クラウチ……。


 あぁ……。なんとなく、わかってきたかも……。


 父が子爵ということで、貴族の令嬢らしい。


 貴族って……。いつの時代だ? いや、まずは状況確認。


 話しかけてくるとしたら、エマさんの従者の女性。ガーネさんといって、歳は20。エマさんよりは年上だ。


 そこで気づいてしまった。


 ガーネさんの髪色が、鮮血のように赤いことに。弟の従者に、モスグリーンの髪をした者がいる。染めているってこともないらしい。


 令和じゃないって問題じゃなくて、地球ではない!?


 宇宙には太陽のように光輝く恒星はたくさんあって、そのそれぞれに惑星が回っているはず。その中には地球と同じように、生命が誕生する条件が揃った星があるはずで……。


 いや、とりあえずそれはいい。


 ここは、どこだ?


 エマさんの記憶を探ってみても、ここがクラウチ家の領地にある屋敷だということしかわからない。できたら世界について知りたいのだが、国のことですらボヤッと霧がかかったように思い出せない。

 もしかしたら、エマさんは、そういったことには詳しくないのかも。


 控えめなノックが聞こえた。


 反射的に「どうぞ」と答えた。身体に染み付いた習慣というものなのかもしれない。


「エマお嬢様。お目覚めでしたか」


「ひっ」

 背筋がゾワッとした。

 31歳で「お嬢様」と呼ばれると、鳥肌が立つらしい。


「どうされました? どこか、痛いところでも?」

 ガーネさんが水差しを手に近づいてくる。記憶にあるとおり鮮やかな赤髪をポニーテールにしている。丸くて黒い瞳は、年よりも若く見せていた。


「えっと、私はどうしたのかしら?」

「覚えていらっしゃらないのですね……」


 どこか、憐れむような気配があった。


 覚えていないというより、思い出す時間がなかっただけなんだけど。

「えぇ~っと」


「覚えていらっしゃらないのでしたら、その方がよろしいかと。何か、お召し上がりになりますか?」


 ガーナさんは、サラリと話題を変える。


 川原ですれ違ったときに、エマさんは泣き腫らした顔をしていた。

 何か、悪いこと……。


「あっ、婚約破棄……」

 呟くとガーネさんの表情が曇った。視線が窓を向く。


 窓……?


 あぁ、エマさんは部屋の窓から身を投げたらしい。そのときの状況がよみがえってくる。


 っていうか、エマさん……。


 ここはエマさんの自室で二階。窓から地面までは、せいぜい4メートル。そこから身を投げても自殺できるとは思えない。しかも窓の下は花壇になっていて、怪我すらしない恐れも。


 エマさんは助かったにも関わらず、私の代わりに三途の川を渡ってしまった。それほど思い詰めていたのかもしれない。そのお陰で、私は彼女として生き返ることができたのだけれど。


「エマお嬢様……」

 ガーネさんは、そっと私と窓の間を遮るように移動する。


 いや、もう飛び下りないって……。中身、違うし……。


 そもそも死ぬ前だって、彼氏にフラれても仕事に生きようとしていたし。命を断とうとしたエマさんみたいな健気さはない。


「私って、どれだけ寝てたのかな?」


「えっ?? あの……、3日間寝ておりました。お医者様に見ていただいても、どこも悪いところはないと。しかし、このまま起きなければ、命が危ないと心配しておりました」


 彼女は目を見開いて戸惑ってから、神妙な顔つきに戻る。


「3日ねぇ~」


 お腹も減ったし、喉も乾いた。


 お腹をさすっていると、窓と私を見比べて「お食事をお持ちいたしますので……」と困惑している。


「いや、申し訳ないし、どこに行けば……?」

「いえいえ、お持ちいたしますので、どうか早まるようなことをなさりませんように」


「あぁ、大丈夫、大丈夫」


「ん? 少々、お待ちください」


 もう一度戸惑ってから、早足で部屋を出ていった。


 なんだ? 話しかけると、変な顔をする……。


 もしかしたら……話し方か。絶対に、貴族のお嬢様の話し方ではない。丁寧語で話せばいいのだろうか。


「お待たせいたしました」


 どれだけ心配だったんだろうか。ガーネさんは息を切らせて戻ってきた。手に持ったお盆には、パンとミルクをのせている。


 お盆を受け取るためにベッドから立ち上がっても、特に不調はない。


 しかし、足も腕もすごく細い。不健康なほど筋肉がない。


「エマお嬢様。大事をとって、ベッドでお召し上がりください」

 そこまで体調は悪くないと思うのだけれど。


 すぐにガーネさんにベッドに戻るように促されてしまった。パンとミルクだけの簡単な食事をすませる。


 パンは少しパサついていて固い。21世紀の日本と比べたら、そりゃ~ちょっとね。


「ごちそうさま。あの、少し身体を動かしたいんですけど」


「えぇ!?」

 ガーネさんを完全に困惑させてしまった。


「あっ、あの、3日間も寝ていたのでしたら、少しずつ身体を動かした方がいいでしょう?」

 ちゃんと話し方には気を付けた。それなのに、思いっきり首を傾げて不思議そうな顔をしている。


 何も聞いてこないでと、目で訴える。


「こほん。今日は、お部屋の中でお過ごしください」


「そうね。大人しくしているわ」

 まだよくわからない世界のことだ。少しずつ探っていこう。


「また、夕飯の頃に参ります」


 恭しく頭を下げて出ていくまで、ずっと不思議そうな顔をしていた。



 ガーネさんの足音が遠ざかっていくのを確認すると、わかっていることを頭の中で整理する。


 入れ替わってしまったのは、倉内くらうち瑛末えまとエマ・クラウチ。文字は違えども、ほとんど同じ発音。そして二人とも、男にフラれて命を落としそうになった。いや、瑛末えまの方は、たぶん落とした。

 境遇の似ているせいであの世へ向かう途中で出会ってしまい、死にたいエマさんと死にたくない私が入れ替わってしまった。


 うん。全く納得できない。


 それにしても、ガーネさんはあっさりと部屋から出ていった。飛び下りる心配はなくなったのかと思いきや、両開きの窓の取っ手部分には針金が巻き付けられていて、簡単には開けられないようになっていた。


 これで対策したつもりなの!?


 ちょっと窓を開けづらいってだけで、たいした障害にはならないと思うんだけど。


 首をかしげてしまったが、そんな暇はないんだった。


 誰もいないうちに、部屋にある引き出しを開けて中身を確認していく。装飾品がいくつかと、色とりどりのドレス。化粧品にレターセット。刺繍道具と刺繍された布。


 情報収集したくて本を探していたのだが、一冊も見当たらなかった。


 仕方がなく、部屋の中を歩き回る。筋トレも試みたのだが、筋力が無さすぎて腹筋やストレッチなど、ほんのちょっとしかできなかったのだ。


 部屋を歩くだけの運動だけれど、エマさんの身体には十分だったようでちゃんと疲れた。3日間寝込んで体力が落ちていたせいもあるかもしれない。

 お陰で夜はぐっすり眠ることができた。知らない世界に来てしまったというのに。

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