第八章:記憶の再生

記憶の海の深層で、僕と影真は最後の決断を下した。


「僕が彼女の記憶を継承する」


澪を包む光の結晶の前で、僕は影真の手を握りしめた。二人の体に刻まれた『双影の刻印』が共鳴し、青白い光を放っている。


「でも、それは君が消えることを意味する」影真が僕を見つめた。「僕たちが一つになれば、どちらかの人格が主導権を握る。君は自分を犠牲にするつもりか?」


「違う」僕は首を振った。「僕たちは両方とも残る。ただし、澪の記憶を共有して」


影真の目に驚きが浮かんだ。「まさか...『三重統合』を?」


「そうだ」僕は澪の結晶に手を当てた。「僕と君、そして澪の記憶が一つになる。三つの魂が融合するんじゃない。三つの記憶が調和するんだ」


これは鏡閾の主が想定していた記憶儀とは根本的に異なる方法だった。通常の記憶儀は一つの存在に統合することを目的とするが、僕が提案したのは複数の記憶を一つの器に共存させる、前例のない試みだった。


「危険すぎる」カノンの声が警告する。「三つの記憶が衝突すれば、すべてが崩壊する可能性がある」


「でも、他に方法はない」僕は決意を込めて言った。「澪を現実に戻すには、僕たちの記憶が受け皿になるしかない」


影真が深く息を吸い込んだ。「分かった。やってみよう」


二人は澪の結晶を挟んで向かい合い、両手を重ねた。『双影の刻印』が激しく光を放ち、周囲の記憶の海が波立ち始める。


「澪、聞こえるか?」僕は結晶に向かって語りかけた。


結晶の中で、澪がゆっくりと目を開いた。七年間の苦痛で衰弱した彼女だったが、その瞳には希望の光が宿っていた。


「緋真...影真...」彼女の声は微かだが、確かに聞こえた。「本当に来てくれたのね」


「約束したからな」影真が微笑む。「でも、これから少し痛いかもしれない」


「大丈夫」澪が結晶の内側から手を当てる。「私、ずっと待ってたの。みんなと一緒にいられるなら、どんなことでも」


僕は深呼吸し、記憶統合の呪文を唱え始めた。それは母から教わった古い言葉。当時は意味が分からなかったが、今なら理解できる。


「記憶は時を超え、心は境界を越える。三つの魂よ、一つの調べとなれ」


光が三人を包み込み、意識が混ざり合い始める。最初は混乱があった。三つの異なる視点、三つの異なる感情が一度に流れ込んでくる。


僕の記憶:七年間の孤独と探求。澪を忘れさせられた痛み。そして、真実を知った時の衝撃。


影真の記憶:ミレアスでの七年間。記憶の守護者たちとの戦い。そして、澪を守れなかった自責の念。


澪の記憶:記憶の深淵での孤独な時間。兄たちへの想い。そして、再会への希望。


三つの記憶が激流のように混ざり合い、新しい記憶として再構成されていく。それは個々の体験を失うことではなく、より豊かで深い理解を生み出すプロセスだった。


「うまくいってる」カノンの声に安堵が混じる。「三つの記憶が調和している」


しかし、その時、記憶の海が激しく揺れ始めた。統合の影響で、ミレアス全体が不安定になっているのだ。


「急いで!」カノンが叫ぶ。「このままでは記憶の海が崩壊する!」


遠くから記憶抹消者たちの叫び声が聞こえる。彼らも統合を阻止しようと最後の攻撃を仕掛けてきていた。


「緋真...信じてたよ...約束を、守ってくれると...」


澪の声が僕の心に直接響く。彼女の記憶が僕の中に流れ込み、同時に僕の記憶も彼女に伝わっていく。七年間の別れの痛み、探し続けた想い、そして今この瞬間の愛情。


崩壊するミレアスの中、澪の笑顔が光となって僕を包み込む。その光は温かく、すべての恐怖と不安を洗い流してくれた。


「ありがとう、緋真。ありがとう、影真」


澪の声が次第に僕の内側から聞こえるようになる。彼女の記憶が完全に僕の中に統合されたのだ。


影真の姿も光に包まれ、僕の中に融合していく。三つの魂が一つの器に収まり、新しい存在として生まれ変わろうとしていた。


意識が現実へと戻る直前、カノンの声が聞こえた。


「これが『鏡閾の記憶儀』。忘れられた者と、忘れた者が一つになる瞬間」


彼女の声も徐々に僕の内側に響くようになる。カノンもまた、澪の記憶の一部として僕の中に残るのだ。


光が爆発し、記憶の海が静寂に包まれる。


---


目を覚ますと、僕は鏡花神社の本殿にいた。《原初の鏡》の前に倒れている。体は一つだが、心の中に三つの声が響いている。


『緋真、大丈夫?』澪の声。


『無事に戻れたな』影真の声。


『みんな、おかえりなさい』カノンの声。


僕は立ち上がり、自分の手を見つめた。一つの体に、四つの魂が宿っている。それは混乱ではなく、完璧な調和だった。


「緋真くん!」


梨緒が駆け寄ってくる。彼女の後ろには、恒介と鏡閾の主の姿もあった。


「記憶儀は...成功したの?」梨緒が不安そうに尋ねる。


僕は微笑んだ。その笑顔には、澪の優しさと影真の強さ、そしてカノンの知恵が込められていた。


「ああ、みんな帰ってきた」


恒介が近づき、僕の顔を見つめた。「お前は...本当に緋真なのか?」


「僕は緋真だ。でも同時に、影真でもあり、澪でもあり、カノンでもある」僕は答えた。「四人が一つになったんだ」


鏡閾の主が驚きの表情を見せた。「まさか...『調和統合』が成功したのか。それは理論上は可能だが、実際に成功した例は...」


「今、目の前にいるじゃないか」僕は笑った。


周囲の空間が安定し、鏡花市の異常な現象も収まり始めていた。記憶の汚染が浄化され、街は元の姿を取り戻していく。


「世界は大丈夫なの?」梨緒が心配そうに尋ねる。


『私たちが調整してるから大丈夫よ』心の中でカノンが答える。


『記憶の流れを制御してる』影真が続ける。


『みんなで力を合わせれば、何でもできるね』澪が嬉しそうに言う。


僕は彼らの声を聞きながら、《原初の鏡》を見つめた。鏡面は穏やかに輝き、もう危険な力は感じられない。


「これからどうするんだ?」恒介が尋ねる。


「普通に生きる」僕は答えた。「ただし、四人で一緒に」


心の中で、三人の笑い声が響く。


「記憶の守護者として、君たちを見守らせてもらおう」鏡閾の主が深く頭を下げた。「君たちは新しい可能性を示してくれた」


梨緒が僕の手を取った。「これからも、よろしくお願いします」


「こちらこそ」僕は答えた。


夕陽が神社を照らし、長い一日が終わろうとしていた。しかし、これは終わりではなく、新しい始まりだった。


四つの魂が一つになった僕は、これから新しい人生を歩んでいく。


記憶と共に、希望と共に。

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