第四章:記憶の守護者たち

ミレアスから現実世界への帰還は、まるで悪夢からの覚醒のようだった。眩い光の渦、身体を引き裂かれるような感覚、そして冷たい石畳の感触。


僕たちは鏡花神社の裏手、石灯籠の前に横たわっていた。夜空には月が浮かび、境内は静寂に包まれている。カノンが最初に起き上がり、周囲を警戒した。


「大丈夫?」彼女が僕に手を差し伸べる。


「ああ...」答えながら立ち上がると、不思議なことに心臓が、以前とは違うリズムで鼓動しているのを感じた。まるで二つの心臓が同期しようとするかのように。


影真も立ち上がり、服の埃を払った。「彼らはすぐに追ってくる。ここは安全じゃない」


「白河家に行きましょう」カノンは静かに提案した。「梨緒の父親は私たちを守れる」


僕は言葉を失ったまま二人についていく。頭の中は混乱と疑問で一杯だった。双子の妹、澪。その存在が突然僕の人生に投げ込まれ、すべてを変えてしまった。なぜ僕はそんな大切な人の存在を完全に忘れてしまったのか。


「考えすぎるな」影真が僕の表情を読み取って言った。「記憶の欠落は自分を責めるようなことじゃない。それは守護者たちの仕業だ」


「守護者...?」


「そう」カノンが答えた。「『記憶の守護者』。彼らは古来より存在し、人間の記憶に干渉してきた特別な存在よ」


---


白河家は神社の奥にある立派な屋敷だった。和風建築の門をくぐると、中には不思議な調和が広がっている。伝統的な和室と、最新技術を駆使したモニター設備が混在しているのだ。


梨緒の父、白河宗継(しらかわ むねつぐ)は厳めしい表情の中年男性だった。僧侶の装束に身を包み、鋭い眼光で僕たちを見据える。


「よく戻られた」彼は静かな声で言った。「特に君、影の子よ」


「お久しぶりです、宗継様」影真は敬意を込めて頭を下げた。


「坐りなさい。話は長くなる」


僕たちは広間に導かれ、そこにはすでに梨緒が待っていた。彼女の隣には、見たことのない紋章が描かれた古い巻物が広げられていた。


「まずは理解してほしい」宗継は話し始めた。「世界には、人々の知らない『裏側』がある。記憶という人間の本質に関わる力を操る存在たちの世界だ」


彼は巻物を指さした。そこには《鏡閾》と呼ばれる境界と、それを管理する組織の歴史が記されていた。


「『記憶の守護者』は、記憶という危険な力から世界を守るために生まれた。人間の記憶の中には、現実を歪め、破壊する可能性を秘めたものがある。特に強い感情や執着を伴う記憶は、《鏡閾》を通じて現実に干渉することがある」


「だから必要な記憶は封印し、危険な記憶は消去する」梨緒が続けた。「それが代々、私たちの使命だった」


「しかし」宗継の眉間に深いしわが寄った。「七年前、『記憶の守護者』の一部が反乱を起こした」


「『記憶抹消者』」カノンが言葉を継いだ。「彼らは記憶を管理するだけでなく、利用しようとした。特に『記憶儀』の力を」


僕は混乱していた。「記憶儀って何なんだ?そして、なぜ澪が関わっているんだ?」


一瞬の沈黙。宗継は深く息を吐いてから語り始めた。


「『鏡閾の記憶儀』は、ミレアスと現実の境界を完全に溶かし、両世界を一つにする儀式だ。それが完成すれば、ミレアスに眠るすべての可能性、すべての別の時間線が現実に流れ込む」


「それは...」


「混沌だ」宗継は厳しい口調で言った。「無数の矛盾する現実が一つの世界に存在することになる。それは世界の崩壊を意味する」


「しかし『記憶抹消者』たちは、その混沌を望んでいる」梨緒が説明した。「混沌の中から新しい秩序を作り出し、自分たちがその支配者になろうとしているのよ」


「そして澪は?」僕は震える声で尋ねた。


「彼女は特別な存在だった」宗継の表情が柔らかくなる。「君の妹、継名澪は『記憶結晶』を生み出す力を持っていた。それは失われた記憶を保存し、再生する能力だ。その力があれば、記憶儀の鍵となる『原初の記憶』を復元できる」


「原初の記憶...」


「世界が生まれた瞬間の記憶」カノンが静かに言った。「すべての可能性が一つだった時の記憶。それが記憶儀の核心部分」


梨緒が続けた。「私の家系は代々、鏡花市の《鏡閾》を守護してきました。この土地には特別な力が流れていて、ミレアスとの繋がりが強い。だから『記憶抹消者』たちは、この地を狙ったのよ」


「そして七年前、彼らは動いた」宗継の声が沈んだ。「澪を捕らえ、その力を利用しようとした。しかし予想外のことが起きた」


「僕の分裂...」


「そう」影真が頷いた。「君が澪を守るために飛び込んだことで、君の存在が二つに分かれた。僕は鏡の向こうへ、君は現実に残された。そして『記憶抹消者』は、澪を『記憶の深淵』に封印した」


「でも、なぜ僕は...」


「記憶を消された」宗継が答えた。「それは君を守るためだった。君の母親の願いで」


「母さんが...?」


その時、外から物音がした。窓から見える神社の境内に、黒い装束の人影が現れ始めている。


「彼らが来た」カノンが立ち上がった。


「記憶抹消者たちね」梨緒の表情が引き締まる。「父さん、神器を」


宗継は壁に掛けられた古い鏡に手をかざした。鏡面が光り、内側から様々な武器が現れる。梨緒は長い杖のような武器を手に取り、カノンは小さな手鏡を受け取った。


「緋真、これを」影真が僕に短刀のような武器を渡す。「『記憶の刃』。ミレアスの力を込めた武器だ」


外の気配がさらに近づく。「彼らの目的は何だ?」と僕は尋ねた。


「君と影真の『再統合』を阻止すること」宗継は答えた。「そして、澪の封印を永続的なものにすること」


突然、ガラスが砕け散る音と共に、黒い霧のようなものが部屋に流れ込んできた。霧が固まり、人の形を取り始める。


「《鏡閾》を開け」低く歪んだ声が響いた。「澪を我らに引き渡せ」


「渡すものか!」影真が叫び、手の刻印が青く光る。彼の手から青白い炎のようなものが放たれ、黒い人影に向かって飛んでいく。


混乱の中、僕の視界の端で、宗継が何かを梨緒に渡しているのが見えた。彼女はそれを懐にしまい、こちらに駆け寄る。


「緋真くん、影真くん、こっち!」


しかし、逃げる前に、黒い霧が僕たちを取り囲んだ。その中から形作られた「記憶抹消者」の一人が、僕に向かって手を伸ばした。


「継名の子...お前の記憶は我らのもの」


その瞬間、カノンが僕の前に立ちはだかり、手鏡を掲げた。「触れないで!」


鏡から眩い光が放たれ、「記憶抹消者」が悲鳴を上げて後退した。


「逃げるのよ!」カノンが叫ぶ。「彼らの目的はあなたたち!」


梨緒が何かを床に投げつけると、煙が部屋中に広がった。その隙に、僕たちは裏口から逃げ出した。


神社の裏山へと続く小道を、僕たちは必死で駆け上がる。背後からは「記憶抹消者」たちの気配が迫っていた。


「ここを抜ければ、もう一つの《鏡閾》がある」梨緒が息を切らせながら言った。「そこからミレアスに逃げ込むしかないわ」


「でも彼らも追ってくる」影真が警戒する。「しかもミレアスなら、彼らの方が有利だ」


「他に選択肢はないわ」カノンが答えた。


そのとき、僕の目の前に人影が現れた。見覚えのある姿。母方の伯父、継名恒介だった。


「緋真...」彼の表情は悲しみに満ちている。「やはりここに来たか」


「伯父さん!」僕は安堵した。「危ないんだ、逃げよう!」


しかし影真とカノンは警戒の姿勢を崩さない。


「どうし...」


言葉が途切れた。伯父の背後から、黒い霧が立ち昇り、それが人の形になっていく。そして恒介自身も、ゆっくりと黒い装束に身を包み始めた。


「お前は、ここへ来るべきではなかった」伯父の声が冷たく響いた。


「まさか...」


梨緒が僕の腕を引いた。「彼も『記憶抹消者』の一人よ!」


「伯父さん...なぜ?」


「私は七年前からずっと、お前を守ってきた」恒介の目に悲しみが宿る。「記憶を封印し、普通に生きられるようにした。なぜ戻ってきた?」


「それは違う」影真が一歩前に出た。「貴様は緋真を利用してきただけだ。澪の封印を完全にするための駒として」


恒介の表情が硬くなる。「それでも彼は生きられた。しかし今...」


彼の手から黒い霧が噴き出し、僕に向かって襲いかかった。僕は反射的に「記憶の刃」を掲げたが、その前に影真が僕を押しのけ、攻撃を受け止めた。


「逃げろ!」影真が叫ぶ。彼の姿が徐々に黒い霧に飲み込まれ始める。「記憶儀の鍵を守れ!」


「でも...!」


カノンが僕の手を引いた。「行くのよ!彼は大丈夫、ミレアスなら生き延びられる!」


最後に見た影真の表情は、決意に満ちていた。「澪を...頼む...」


僕たちは山頂へと駆け上がった。振り返ると、影真と恒介の姿は黒い渦に飲み込まれ、見えなくなっていた。


「どうして...どうして伯父さんが...」


「後で説明するわ」梨緒が息を切らせながら山頂に立つ古い祠を指さした。「まずはここを抜けて!」


祠の中には小さな水盤があり、その水面が月光を反射して輝いていた。


「もう一つの鏡閾よ」梨緒が説明した。「私が先に行くわ」


彼女が水面に手を入れると、水が光を放ち、彼女の姿が徐々に透明になっていく。続いてカノンが僕の手を取り、「一緒に」と言った。


僕たちが水面に触れた瞬間、背後から恒介の声がした。


「緋真、お前は自分が何者か理解していない!記憶儀を完成させれば、すべてが終わるんだ!」


彼の言葉が何を意味するのか考える間もなく、僕たちの意識は再びミレアスの深淵へと吸い込まれていった。

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