第45話 夭折の天才
アオイ=サクラノミヤ。
それが私の名前。
かつて、先祖がまだ地上に暮らしていた時代──その家は〈桜ノ宮家〉と呼ばれていたという。血脈の誇りと共に受け継がれた名は、空へと昇った今もなお形を変えて残っている。
私の正式な名は〈桜ノ宮葵〉。サクラノミヤという音の奥には、地上に根ざした古き名残が確かに息づいていた。私は自分の名前が好きだった。そんな誇りのある一族に生まれて幸せだと──そう思っていた。
「アオイは本当に綺麗ね」
「そうかな?」
「えぇ。とっても」
お姉ちゃんが優しく私の頭を撫でる。
私には姉がいた。名前はツバキ=サクラノミヤ。ツバキお姉ちゃんは誰よりも優しくて、誰より綺麗で、そして誰よりも強かった。
「ハアッ──!」
お姉ちゃんが剣を振ると、空気が裂けてその振動が伝わってくる。
サクラノミヤ家は代々、特別な魔術を受け継いできた。それは単なる魔術ではなく──剣と共にあるための魔術。
相伝の剣術に加え、魔力を桜の花弁のような刃へと変換する独自の術式。サクラノミヤの剣士は、散りゆく桜と共に舞い、咲き誇る花のように斬る。
〈
私たちは魔術を使う。だが、それは剣をより深く極めるための手段にすぎない。
剣こそが本質であり、魂そのもの。
サクラノミヤに生まれた者は、ただひたすらにその剣を磨き、咲かせ、そして散らす宿命を背負う。
「アオイの剣は本当に美しいわ」
「ホント!?」
「えぇ。きっと将来は私を超える剣士になるわ」
「うん! お姉ちゃんみたいになれるように、頑張るね!!」
無邪気だった幼少期。その頃にはすでに、お姉ちゃんは才能を開花させていた。
サクラノミヤ家の長い歴史の中でも、群を抜く天才。彼女の周囲には常に魔力を帯びた桜が舞い、その一枚一枚が刃のように煌めいていた。
お姉ちゃんが剣を振るうたび、風が流れ、桜が舞う。その光景はまるで桜が踊っているようで、見惚れるほど幻想的だった。淡い花びらの雨の中に立つ姉は、剣士というよりも、桜そのものの化身のようだった。
──私も、あんなふうになりたい。
その背中を追いかけるように、私は小さな手で剣を握り続けた。それが、幼い私にとっての夢であり、世界のすべてだった。
「ハァ──!!」
一閃。
木が鳴り、乾いた衝撃音が道場に響いた。
息を切らしながら構えを保つ私の前で──お姉ちゃんの木刀が、わずかに弾かれている。
家の道場で何度も繰り返してきた立ち会い。いつも勝てなかった。何度挑んでも、届かなかった。でもその日、ついに私は、お姉ちゃんから一本を取った。
掌の痛みも、汗のしぶきも気にならなかった。ただ、胸の奥が熱くて仕方がなかった。
無我夢中で追いかけてきた背中が、ようやく視界に入った気がした。
「アオイはやっぱり、私よりもずっと凄い剣士になるわ」
「お姉ちゃんよりも凄い剣士……? でも今のは、お姉ちゃんも疲れていたし……」
そう。
お姉ちゃんは、いつだって朝から晩まで剣を振っていた。道場の木床には、彼女の足跡が無数に刻まれていて、それが努力の証のように思えた。
その日も、日が沈むまでお姉ちゃんは刀を振り続けていた。汗で髪が頬に張り付き、息を荒げながらも、剣先は一度たりとも鈍らなかった。私はその姿に見惚れながらも──どうしても、もう一度だけ立ち会いたいと懇願した。
きっと、お互いが万全の状態だったら、勝っていたのはお姉ちゃんだろう。
「アオイ。そのまま進みなさい。あなたの道はきっと、あなたの
「……うん! お姉ちゃん大好き!!」
そっと、優しく──お姉ちゃんの手が私の頭を撫でた。その掌は少しだけ硬く、けれど温かかった。胸の奥がいっぱいになって、気づけば私は思い切りお姉ちゃんに抱きついていた。
お姉ちゃんは驚いたように笑い、それから何も言わずに私を抱き返してくれた。あの瞬間、世界のすべてが優しさで満たされていた気がした。
仲睦まじい姉妹──誰もがそう言うだろう。私は心から信じていた。ずっとこのまま、お姉ちゃんと一緒に、この〈サクラノミヤ家〉を背負って生きていくのだと。
それが、何の疑いもない未来だと──そう思っていた。
「あれ……?」
ある日のこと。
いつものように、私は魔力を練り、桜を咲かせようとした。けれど──何も起きなかった。
何度も、何度も試してみる。
呼吸を整え、集中し、魔力を指先へと流す。
それでも、桜の花弁は一枚たりとも舞い上がらなかった。
「アオイ。どうかした?」
「う、ううん……! なんでもないよ!」
笑って誤魔化したけれど、胸の奥では冷たいものが広がっていく。
体調が悪いわけじゃない。魔力が枯れたわけでもない。けれど──自分の内側にある何かが、音もなく閉ざされた気がした。
それは扉が静かに鍵をかけられるような、そんな感覚。いつも通っていたはずの道が、突然見えなくなったような。
そして次に、私が発動した魔術は──サクラノミヤの血に受け継がれる、相伝の魔術ではなかった。
「え……? なにこれ……?」
意味が分からなかった。
私はその瞬間、全く別の魔術を発動させていた。
空気が震え、周囲にキラキラとした光が舞い上がる。けれどそれは桜の花弁ではなかった。色も、形も、揺らぎも──どこか異質で、見たことのない光。その一粒一粒がまるで意志を持つようにゆらりと漂い、私のまわりを円を描くように回り始めた。
不思議と怖くはなかった。
けれど、それは明らかにサクラノミヤの魔術ではない。自分の中の何かが変わったのだと、本能で理解した。
後になってわかった。
あの光は──精霊と呼ばれる存在だった。
私が〈桜花鮮刃流〉の系譜に連なる相伝の魔術を失い、全く異なる〈精霊魔術〉を発現させたことは、すぐに一族の中に広まっていった。
「アオイ」
「はい……お父様」
道場の空気は、凍りついたように重かった。畳の上に膝をつき、私は現当主──父の厳しい視線をただ受けるしかなかった。
前代未聞の出来事。相伝の魔術を失うなど、この家の歴史において一度もなかったのだから。
「ツバキとアオイ。次期当主をどちらにするか、これまで決めかねていたが──もはや迷う余地はない」
父の声は静かで、しかし刃のように冷たかった。
「お前は相伝の魔術を失った。サクラノミヤの名を冠する者が、その力を扱えぬなど──恥辱以外の何ものでもない」
「……はい」
「剣術も鈍り、気迫も消え失せた。もはや見る影もない。あれほど期待していたというのに……この体たらくだ」
その視線が鋭く突き刺さる。まるで存在そのものを否定するかのように。
「次期当主はツバキとする。ツバキは既に特級魔術師への昇級の話も出ている。あの子は家を背負うに足る器だ」
父は一拍の沈黙を置き、低く吐き捨てるように言った。
「いいか、アオイ。くれぐれもツバキの足を引っ張るような真似はするな。お前がこの家でこれ以上恥を晒すことは、我々一族の名を汚すことになる」
「……はい」
頭を下げることしか私には出来ない。
「お前はもう、この家の剣ではない。血筋を汚した、ただの
「……はい」
その声は、自分でも驚くほど掠れていた。
叱責というより、宣告。
あの瞬間、私は一族の中で死んだのだと思った。
悔しさでも怒りでもなく、ただ終わったという実感。才能のない人間は切り捨てられる──それがサクラノミヤ家、いや、
それから私は本家の屋敷を追われ、敷地の外れにある古びた小屋に移された。父上も母上も、他の一族も、もう私を同じ血族として見ようとはしなかった。誰もが視線を逸らし、存在しないものとして扱う。
サクラノミヤ家の面汚し
そう囁かれていることくらい、とうに知っていた。
才能を失った私は、もはや家の中で居場所を持たない。もしもう一度、あの時の輝きを取り戻せたなら──
私は何度もそう願いながら、薄暗い部屋の隅で膝を抱え、声にならない呪いを胸の中で繰り返していた。
その時。
遠慮がちに扉が叩かれた。軋む音を立てて扉が開く。そこに立っていたのは──ツバキお姉ちゃんだった。
「アオイ……大丈夫?」
「……」
「アオイ、大丈夫よ。私がいるから──」
そっと、優しくお姉ちゃんの手が私の肩に触れた。その瞬間、胸の奥で何かが弾ける音がした。
私は反射的に、その手を思い切り跳ね除けていた。
「やめてよ……!」
「……えっ」
「お姉ちゃんはいいよね! 特級魔術師になるんだってね!」
「アオイ……」
「才能がなくなった私を、お姉ちゃんも笑ってるんでしょう! 滑稽だって!」
「そんなことは──っ!」
「もう私には才能がない。お姉ちゃんと肩を並べることはできない……」
「アオイ……」
八つ当たりだって、分かっていた。
お姉ちゃんは、誰よりも私を気にかけてくれていたことも分かっていた。
それでも、今の私には──その優しさが痛かった。
特級魔術師になろうとしている姉。
才能を失った〈
そして私は、その唯一の光を失ってしまった。
天と地ほど離れた差。
どんなに手を伸ばしても、もう届かない。
その現実が、何よりも苦しかった。
「出ていって……! もう私にかまわないで……!! お姉ちゃんなんて──大嫌い……!!」
叫び終えたあと、胸の奥に残ったのは空虚だけだった。
お姉ちゃんは一瞬何かを言いかけて唇を噛み、それから、悲しそうに目を伏せた。
──もう、どんな言葉も届かないと悟ったように。
足音が遠ざかっていく。
その音を聞くたびに、胸が締めつけられた。涙が止まらず、声にならない嗚咽だけが小さな部屋に響いた。
どうしてこうなってしまったんだろう。
どうして、私の才能は失われたんだろう。
問いかけても、答えはどこにもなかった。
それから私とお姉ちゃんが言葉を交わすことは──なかった。
私はその後、家を出るよう命じられ、一人で生きていくことになった。幸い、最低限の生活に困ることはなかった。定期的に送られてくる金──それは、家の情けではなく、まるで〈金はやる。だから二度と関わるな〉と言われているようだった。
そんな人生でも、私は剣を振るうことをやめなかった。誰に褒められることも、認められることもない。
それでも、剣を握っていないと、自分が自分でなくなってしまう気がした。
やがて私は、新しく芽生えた魔術──〈
それは〈精霊〉を操る魔術。
失われた相伝の魔術に代わり、私の中に宿ったもうひとつの力だった。
私はそれを剣術と融合させ、自分だけの剣を磨いていった。
完全に勘当されたわけではない。
けれど、もはや私はサクラノミヤ家の人間ではなかった。血の縁よりも深く切り離された、孤独な剣士。
けれど、本能で分かっていた。
私には剣しかないのだと。
剣を振るうことでしか、生きている実感を得られないのだと。
「……あれは」
その人影を見た瞬間、周囲のざわめきが遠のいた。広場の中央。人々の視線を一身に集めている女性がいた。
それは、見間違えるはずがない。ツバキお姉ちゃんだった。
数年ぶりに見る姉の姿は、かつてよりもずっと美しく、どこか神聖な気配をまとっていた。
艶やかな黒髪は光を受けてゆるやかに靡いている。すっと伸びた背筋、落ち着いた立ち姿──その全てが完成された剣士であり、特級魔術師としての威厳に満ちていた。
けれど、何よりも気になったのは彼女の瞳だった。その目は閉ざされ、両目の端には細い糸が結ばれている。まるで自らの意思で、瞼を閉ざしているかのように。
目が見えなくなった……?
いや、違う。
あれは──自ら何かを封じるためのものだ。
けれど、考えたところで答えなど出ない。
もう私と姉は、生きる世界が違うのだから。
立ち止まった足を再び前に出す。
私は静かに姉に背を向け、歩みを進めた。
黒髪が風に舞うその姿は、かつて私が追いかけ続けた光そのものだった。でも私は、サクラノミヤ家の人間ではない。
あの光に触れる資格は、もうどこにもないのだから──。
†
「ま、それで一応はこの学院に入学したって感じかしら。家としては私がどうしようがどうでもいいみたいね」
「……」
アオイから語られた過去を聞き、俺は言葉を失った。家族から、才能を失っただけで見捨てられる──? それが上層の現実なのかもしれないが、俺の常識では到底理解できなかった。
下層では助け合うことで生きていた。たとえ、血の繋がりがなかったとしても。
だからこそ、血縁があっても切り捨てるという世界がどうしても信じられなかった。
でも……そうか。
アオイは才能を失い、それでも立ち上がった。ツバキさんは、そんなアオイのことを今も案じている。
あの夜。ツバキさんが俺に頭を下げた理由を、ようやく理解できた気がした。
「──アオイは、強いよ」
「え?」
「だって、今までずっと一人で頑張ってきたんでしょ?」
「……」
「下層の生活は確かに厳しかった。けど、俺には家族がいた。アオイは才能も家族も失って……それでも前に進もうとしてる。その姿が、誰よりも強いって思った。アオイの剣は、ちゃんとそれを語ってたよ」
素直に思ったことを言うとアオイは一瞬、目を大きく見開いた。
そして、静かにその瞳が潤む。
「ふ、ふんっ……! そうよ! 私は強いんだから! 大会、絶対に勝つんだから! あんたも、もっと努力しなさいよ!」
「うん。頑張るよ」
照れ隠しのように言い放ち、アオイは背を向けて歩き出した。その背中は、ほんの少しだけ軽く見えた。
俺はしばらく、彼女が消えるまで目で追っていた。
絡み合うように存在する、二つの原典。確かに片方は眠っている。けれど、それは壊れているわけではない。まるで自らの意志で、深く静かに眠り続けているように見えた。
その眠りを包むように、新たな原典〈碧霊〉が寄り添っている。もしかしたら、彼女の新しい力は、元の原典を守っているのかもしれない。
──なんとなく、そう思った。
「よし。俺も頑張ろう」
大会に対して、これまで特別な想いはなかった。けれど今は違う。アオイが積み上げてきた努力と、彼女の生き方を無駄にしたくなかった。
その想いを胸に、俺は再びノード解除の練習に向かう。何度失敗しても、何度でも立ち上がる。
彼女の剣がそうであるように、俺もまた──前へ進むために。
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