第2話
旅立って、一ヶ月ほどが経とうとしていた。
俺の心は、フローラへの淡い好意と、アルフレッドやゼノへの不信感の間で揺れ動いていた。魔王の影は近づき、王国は疲弊しているというのに、旅の仲間たちの関係は、どこかちぐはぐだった。
いつものように野営の夜。俺は、寝つけずに焚き火の番をしていた。夜風が、ざわめくように木々を揺らす。
「勇者様、わたくしは少し、水を汲んでまいります」
フローラの声がした。彼女は、静かに身を起こした。俺は、かすかに胸騒ぎを覚えた。
「ならば、我々も付き添おう」
アルフレッドが、まるで待ち構えていたかのように立ち上がった。その顔には、どこか意味深な笑みが浮かんでいる。ゼノもまた、フードの奥で不気味に目を光らせる。
「いえ、わたくし一人で大丈夫です。お気遣いなく」
フローラは、わずかに顔をこわばらせたように見えたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。しかし、アルフレッドは譲らなかった。
「何を言うか。夜道は危険だ。護衛は必要だろう」
そして、三人は、静かに闇の中へと消えていった。
俺は、ただ呆然と、その後ろ姿を見送るしかなかった。胸に、ざわめきのようなものが広がっていく。なぜだろう。どうして、こんなにも胸騒ぎがするのだろうか。
しばらく経っても、三人は戻ってこなかった。俺は心配になり、何度か声をかけたが、返事はなかった。
「まさか、魔物にでも襲われたのか……?」
不安が募る。俺はいてもたってもいられなくなり、三人が消えた方向へと足を踏み出した。
闇の中を、慎重に進む。獣の鳴き声や、風が木々を揺らす音だけが聞こえてくる。しばらく歩くと、かすかな光が見えた。焚き火の明かりではない。もっと、揺らめくような、小さな光だ。
音を立てないように、ゆっくりと近づく。そして、木々の陰から、その光景を目の当たりにした時――、俺の心は、凍りついた。
そこにいたのは、フローラと、アルフレッド、そしてゼノだった。
しかし、その光景は、俺の想像をはるかに超えていた。
フローラは、身につけていた純白のローブを剥がされ、その白い肌を月明かりに晒している。アルフレッドとゼノは、まるで獲物を貪るかのように、フローラの体に覆いかぶさっていた。
「んっ……や、だめ……」
フローラの、か細い声が聞こえる。それは、いつもの穏やかな声とはかけ離れた、ひどく苦しげな、しかしどこか甘い響きを帯びた声だった。
そして、俺は、その声に混じって、二人の男の低い笑い声を聞いた。
「どうした、聖女様? いつものように、楽しんでいるのだろう? ほら、もっと声を出せ」
「ひくっ……う、やめて……お願い……っ」
フローラは、震える声で懇願していた。しかし、その声は、絶望的なほどに弱々しかった。
そして、アルフレッドの声が、はっきりと俺の耳に届いた。
「まったく、異世界から来た勇者とやらは、ひょろくて頼りにならぬ。本当にこの世界を救えるのか、甚だ疑問だな」
ゼノの低い声がそれに続いた。
「フフ、全くですな。聖女様も、こんな間抜けな男に期待しておられたのかと思うと、滑稽でたまらぬ」
その言葉に、アルフレッドが畳みかける。
「そうだろう、聖女? お前もそう思うだろう? なあ?」
アルフレッドの言葉に、フローラは快楽に歪んだ顔のまま、震える声で答えた。
「は、はいっ……その、通りです……っ」
その言葉と、快楽に歪んだフローラの顔を見た瞬間、俺の心臓が、大きく脈打った。耳の奥で、血液が沸騰するような音がする。侮辱。裏切り。そして、俺の淡い恋心を踏みにじる、あまりにも残酷な真実。
フローラの、普段見せない快楽に溺れた表情。その姿は、俺の知っている聖女とはかけ離れた、別の生き物のようだった。
絶望が、俺の全身を覆い尽くした。その瞬間、俺の心の中に、今まで感じたことのない、黒い感情が芽生えるのをはっきりと感じた。それは、深い悲しみと、底知れない怒り、そして、世界に対する、言いようのない憎悪だった。
俺は、気づかれないように、ゆっくりと、その場を後にした。足元がおぼつかない。息が苦しい。
******
その日から、俺の夜は、闇に染まった。
毎晩のように、俺は隠れて三人の様子を伺った。彼らは、あの森の奥で、飽きることなくあの行為を繰り返していた。フローラの、苦痛と快楽が入り混じった喘ぎ声。アルフレッドとゼノの、汚らわしい笑い声。そして、フローラが、俺を馬鹿にする言葉を口走る姿。フローラは、本心からそう思っているように、俺には見えた。
その光景を見るたび、俺の心は、少しずつ、しかし確実に、死んでいった。
昼間は、普段と変わらないように振る舞った。俺は、まるで何も知らないかのように、彼らと会話を交わし、飯を食い、眠りにつく。しかし、心の奥底では、冷たい炎が燃え盛っていた。
あいつらは、俺を馬鹿にしている。そして、フローラもまた、俺を裏切っている。
旅の道中、何度か魔物と遭遇した。最初のうちは、俺はただ怯えるばかりで、剣を握ることすらできなかった。だが、俺の中に奇妙な変化が起きていた。あの夜の出来事が、俺の意識の奥底で、何かのスイッチを入れたようだった。
魔物が現れるたび、俺の心に沸き起こるのは、恐怖ではなく、苛立ちだった。早く、早く、この鬱陶しい存在を排除したい。目の前の敵が、俺の邪魔をするのが、ひどく不快だった。
ある日、巨大なオークが俺たちの前に立ちはだかった。アルフレッドは剣を構え、ゼノは魔法の詠唱を始める。フローラは、俺の隣で回復魔法を唱える準備をしていた。
俺は、無意識のうちに剣を抜いていた。鞘から抜かれた剣が、冷たい光を放つ。
「勇者様! 無茶は……!」
フローラの声が聞こえたが、俺の耳には届かない。俺は、目の前のオークに向かって、一直線に駆け出した。
オークの重い斧が振り下ろされる。俺は、それを紙一重でかわし、そのまま剣を突き刺した。狙いは、オークの心臓。しかし、剣は硬い皮膚に阻まれ、深くは刺さらなかった。
「ぐおおお!」
オークが、怒りの咆哮を上げる。俺は、その巨体に押し倒されそうになった。その時、俺の意識の奥底で、何かが弾けた。
もっと強く。もっと、もっと……!
俺の体が、熱くなる。全身に、今まで感じたことのない力が漲っていく。剣を握る手に、尋常ではない力がこもる。
俺は、もう一度剣を振り上げた。今度は、躊躇いも、迷いもない。ただ、目の前の敵を、一刀両断にするという、純粋な殺意だけがあった。
剣は、まるで吸い込まれるように、オークの胸を貫いた。硬い皮膚も、分厚い肉も、まるで紙切れのように切り裂かれる。オークは、呻き声を上げる間もなく、その場で倒れ伏した。
「な……!?」
アルフレッドが、呆然とした声を出した。ゼノもまた、目を見開いて俺を見ていた。
フローラは、俺の傍に駆け寄ってきた。その瞳には、驚きと、かすかな喜びが宿っていた。
「勇者様……! 素晴らしいです! あなた様の中に、眠れる力が覚醒したのですね!」
俺は、何も答えなかった。ただ、冷たい目で、倒れ伏したオークの死骸を見ていた。確かに、力が漲った。だが、それは、希望に満ちた力ではなかった。むしろ、俺の中の闇が、表に出てきたような感覚だった。
この力を、何に使うべきか。魔王を倒すため? それとも……。
その日から、俺は、積極的に魔物と戦うようになった。アルフレッドとゼノは、俺の変化に戸惑っているようだったが、俺が強くなることは、彼らにとっても都合がいいのだろう。口出しはしなかった。
フローラは、変わらず俺を献身的に支えてくれた。俺が怪我をすれば、すぐに治療魔法を施し、俺が疲弊すれば、労りの言葉をかけてくれる。
「勇者様、今日は無理をなさいませんでしたか? お顔色が少し優れないように見えますが……」
その優しさが、俺の心に、さらに深く食い込んだ。俺は、フローラのことを、憎いと思い始めていた。あの裏切り。そして、今もなお、俺を欺き続けていること。
しかし、それと同時に、彼女の優しさが、俺の心を揺さぶるのも事実だった。本当は、彼女は、俺に優しくしてくれる聖女なのだと、心のどこかで信じたい自分がいた。
葛藤。憎悪。そして、募る疑念。
そんな複雑な感情を抱えながら、俺たちは旅を続けた。魔王城は、刻一刻と近づいてくる。
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