7.春と福音
第45話
7.春と福音
「電車の中でジャンプしても、着地点が変わらないのは何でだろう」
──そんなことを真顔で言うのだから、やはりこいつはおかしい。
和輝は、車窓の向こうを流れる景色をじっと眺めながら、膝を揃えて座っていた。行儀のいい子どもみたいに。物憂げな横顔を、紅い夕陽が染める。後頭部の寝癖がやたら跳ねていて、どうにも締まらない。
格好の付かない男だ。
葵は溜息を零した。
「慣性の法則だよ」
等間隔に響く擦過音の中、葵は教えた。
「外部からの力が働かない時、静止している物体は静止を続け、運動している物体は等速度運動を続ける」
「真上にジャンプしているのに?」
「真上に跳んでも、周囲の空気は移動している。これと一緒に、物体には前進しようとするエネルギーが掛かっている。車が急には止まれないように、跳躍した物体も前進する」
葵としては、幼児にも解るように丁寧に答えたつもりだった。だが、和輝は、納得行かないようで眉を寄せていた。
「不思議だなあ。じゃあ、電車の上でジャンプしたらどうなるのかな」
「周囲の空気は静止しているから、空気抵抗で着地点は後方へ動くだろう」
その前に、振り落とされるのではないだろうか。
葵は言おうとして、止めた。常人離れした身体能力を持つ彼ならば、見事に着地するかも知れない。
空気抵抗を物ともせず、同じ場所に着地する可能性すらある。もしくは、無意識的に前方へ跳躍して首を傾げるのかも知れない。
和輝は、初めて科学に触れた子どものように純真に目を輝かせている。
不思議だねえ。面白いねえ。
そんなことを言って微笑む。
世界は面白い。賢者よりも、愚者である方が世界は広く見えるのかも知れない。世の中は馬鹿の方が多く、彼等の為に世界は動いている。
「良かったね」
四百年も前に提唱された物理法則を、今更知ったみたいに和輝が喜ぶので、葵はどうでも良くなってしまった。
それでも──、嬉しそうなその顔を見ていると、自分が世界の見方を間違えているような気さえしてくる。
世の中は馬鹿の方が多い。そして、馬鹿である方が世界は面白いのだ。
ただし。
「今、何処に向かっているんだっけ?」
ただし、同じ馬鹿になろうとは思わない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます