第42話

 この世界は、つまらなすぎた。

 だから、少しだけ神の真似事をしてみた。


 ジェイドと霖雨が答えに詰まっているのが滑稽で、鼻で笑いながら、葵はナイフを握り直す。形の良い、冷たい刃。何を切るために作られたか、よく知っている道具。


 次の瞬間には男の胸に突き立てていた。

 肋骨の谷間を寸分違わず突き、刃が臓器を裂く音が内側から聞こえた。血液が逆流する圧と温度が、掌にぬめりとして絡みつく。

 心臓を穿った確信。声も出させず、男は即座に沈黙した。


 霖雨が喉奥で悲鳴を噛み潰す。いい音がした。

 葵はゆっくりと笑った。楽しかったのかも知れない。




「なあ、答えろよ。何が、正しかったと思う?」




 沈黙。

 血溜まり。

 死体。

 生首。


 あの小さな青年に見せてやりたかったと、心底思う。この、正しさが通用しない世界を。


 差し出された手に縋る奴らがいる。掴めば救われると信じてる。あの甘ったれ――和輝。お前のことだ。


 全部、フィクションなんだよ。

 お前の正しさが通るのは、ステージの上だけなんだよ。


 ナイフを引き抜いた。

 鈍い音と共に肉が裂ける。塞がっては困る。死に切れなくなる。親切のつもりだ。死にたいんだろう? 世界が救ってくれないなら、俺が代わりに送ってやる。


 なあ、俺にだって、救えたじゃないか。


 口元が引き攣った。そんなことを思うたびに虚しくなる。

 返り血を浴びた頬が生温かい。


 なんで、俺ばっかり……。

 どこまで逃げても、悲劇が回り込んでくる。

 いつまでも、どこまでも……。




「葵は、」




 さっきまで腰を抜かしていた癖に、真っ青な顔色を隠せもしない癖に、霖雨が真っ直ぐに此方を見て来た。




「葵は、どうして、泣くの」




 言われて、気付く。頬に付着したそれが返り血だけではないと。

 室内は煙が充満している。熱に瞳が潤んだのだろう。生理的な反射だ。


 けれど、霖雨は問い掛ける。




「どうして、正しいと思えないの」

「何を」




 黒いはずの霖雨の瞳が、炎を映して金色に光って見えた。

 霖雨は目を伏せ、言った。




「正しいかどうか、本当は自分でも分からなかったから……だから、訊いたんだよな?」




 周囲で建物の崩壊の音がする。避難しなければならない。頭ではそう解っているのに、座り込んだままの霖雨の話を聞きたかった。




「どうして、正しいと思えないの」

「周りと、違う」

「周りが間違っているとは、思わなかったんだろ? 皆と一緒が良かったんだろ?」

「それが、正解だったんだろ」

「正解不正解じゃない。感情論だ。誰かと一緒に、いたかったんだろ」




 誰と――?

 葵は黙った。


 自分は誰かと一緒にいたかったのだろうか。両親も兄も死んだ。友人も死んだ。誰もいないじゃないか。

 誰、も。



 ガツンと、鈍い音がした。

 非常口が吹き飛ばされた。


 相変わらず、野蛮だな。そんな風に達観してしまえる自分が、葵には不思議だった。熱でひしゃげた扉が力任せに蹴破られ、炎に包まれた廊下の奥に夜空が見えた。まるで、手作りのプラネタリウムみたいに。




「助けに来たよ」




 非常口の先で、小さな青年が顔を覗かせる。煤だらけで、汗だくで、薄汚い。


 助けに来たよ、だなんて。


 霖雨が安心したように頬を綻ばせる。ジェイドが驚いたように目を見開きながらも、その美しい相貌に見蕩れる。


 重い腰を上げた霖雨が、ジェイドへ手を差し伸べる。二人は立ち上がって非常口まで駆けて行く。葵の両足は根っこでも生えたように動かなかった。


 燃え盛る廊下が、あの日、空港で見た光景と重なる。


 窓の向こう、まるで対岸の火事を眺めているようだった。


 この声も、この手も届かない。

 誰でもいいよ。誰でもいい。だから、誰か助けてくれ!


 喉がからからに乾いていた。俺はもしかしたら、叫んでいたのかも知れない。助けてくれ、誰かあいつを助けてくれ!


 飛行機の中で悶え苦しみながら、焼かれて死ぬ友人が瞼に焼き付いている。


 感謝も謝罪もしてない。次は俺が救う番だと約束したんだ。俺は誓ったんだ。もう、俺のせいで誰も死なせたくない。守りたい。


 誰か助けてくれよ!


 身動き一つ出来ない、この泥濘のような地獄から、救い上げてくれよ。好転することの有り得ない現場を、人知の及ばない乱数に支配された絶望の未来から、俺を助けてくれよ!


 もう、嫌だ。




「助ける」




 階段から真っ逆さまに落ちるような浮遊感に、意識が急激に現実に引き戻された。

 一瞬にしてどっと冷や汗を掻いていた。和輝が、目の前にいた。




「お前のせいじゃない」




 お前の両親も、兄も、友達も。お前のせいで死んだんじゃないよ。

 汗で湿った掌が、和輝の温かいそれに包まれていた。

 大きな瞳に、酷く窶れた自分の顔が映っている。




「解るよ」




 掌が、強く握られる。一回り小さな、子どもみたいな掌だ。




「周りに責められ続けると、自分が間違ってんのかって勘違いしちまうんだ。俺もそうだった」




 和輝は母国にいた高校生の頃、性質の悪いマスコミによって根も葉もないゴシップ記事で責め立てられていた。

 無実でありながらそれを口にはせず、黙って周囲からの罵詈雑言に堪え続けた。


 葵には意味の解らない行為ではあったが、見事だと思った。




「違いなんて並べたところでさ、自分らしくいられるか?」




 和輝が、不思議そうに小首を傾げて問い掛ける。まるで、周りの状況なんて欠片も見えていないみたいな普通の顔をしていた。




「人と比べんなよ。自分がどうしたいかだろ。人生なんて配られたカードでやるしかねぇんだよ。神様に文句言ったって、換えてくれるわけじゃねぇし」




 細身に不釣り合いな力強さで、葵は引っ張られた。和輝は葵を引き摺るようにしてぐんぐん廊下を突き進む。


 熱のせいだろうか。

 何故だか、涙が溢れそうだった。


 葵の胸の底で長年沈んでいた感情は、腐肉に群がる蛆虫のように蠢いていた。それを誰にも見せず、腐敗させ続けていたから、今では自分の内側はどす黒い膿の袋だ。




「どうして、もっと、」




 ――けれど、言葉が零れた瞬間、袋が裂けた。

 堰を切ったように膿が流れ出し、光に焼かれて蒸発していく。


 腐臭はまだ消えない。だが、濃縮された腐敗は形を変え、ただの痛みに、ただの渇望に変質していく。


 こんなことを言っても仕方がないのに。

 これだけは言うまいと決めていたのに。

 何の不具合なのか、口からは押し込んでいた筈の声が漏れた。




「どうして、もっと早く、俺の前に現れてくれなかったんだ……!!」




 両親が死んだあの時でもいい。

 兄が殺されたあの日でもいい。

 大学が占拠されたあの日でもいい。

 旅客機が爆破炎上したあの日でもいい。


 どうして、もっと早く助けてくれなかったんだ。


 開け放たれた非常口を飛び出し、ぼろぼろの非常階段に身を乗り出す。

 下は野次馬や消防隊が集まっていた。葵は頬の汚れを落とすと同時に目を擦った。




「気付いた時には遅過ぎる。本当に大切なものは、失くしてから気付く」




 今にも崩れ落ちそうな階段を勢いよく駆け下りながら、和輝が言った。




「本当の大切さに、気付けたんだよ。だから、前を向いて生きて行ける。夜も冬もやって来る。けど、日はまた昇るし、春は訪れるんだ」




 そんなことを言って、和輝が笑う。

 全く笑えるような状況ではないのに、意味が解らなかった。




「絶望なんかやめてさ、希望を信じようぜ。――徹底的にな!」




 どうして、こいつばかり。

 酷く憎らしいのに、殺そうとは思えない。この手を離すことすら惜しかった。


 その笑顔の後ろで、病棟が音を立てて崩れ落ちる。轟音と共に粉塵が押し寄せ、そして、吹き飛んでいく。煙の晴れた空の下に霖雨とジェイドの姿が見えた。救急隊員と野次馬の中に、大嫌いなマスコミもいる。けれど、和輝は手を繋いだままだ。振り返った顔は泣き出しそうに笑っていた。




「また、間に合わなかったな。ごめんな」




 和輝が謝る必要なんて一つもない。何の過失もない。

 けれど、其処で思い出す。彼は、自分が人を殺すことを好まないのだ。自分が人を殺すと、まるでそれが辛いみたいな顔をする。




「俺だって、全部全部救ってやりてーよ。霖雨のことも、葵のことも守ってやりたいと思ってるよ。傲慢だって解ってる。自己満足だって知ってる。でも、救ってやりたいんだよ」




 また、間に合わなかったけど。

 悔しそうに和輝が言った。

 それでも、何度でも助けに来るんだろう。不死身の勇者みたいに。無敵のヒーローみたいに。



 難しいことは解んねーけど。

 俯いた和輝が、絞り出すような情けない声で呟いた。

 そして、勢いよく顔を上げると、噛み付くみたいに言った。




「うるせえ! 生きろ!」




 それは、いつか何処かで聞いた言葉のはずなのに。


 ただの言葉の羅列だなんて、思えなかった。

 それはずっと俺が欲しかった言葉だった。

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