第40話

 日暮れを前に、珍しく講義が早く終わった。

 ゆっくりしようと帰宅してみれば、和輝がリビングテーブルに突っ伏していた。


 肩には紺色のブランケット。まさか、と思った。葵が掛けたのだろうか。それが妙に信じがたくて、どこか感動すら覚えた。あの男にも、ああいう優しさがあるのかと。


 机の上には冷めきったカフェオレが半分、グラスの底に残っている。どれほど眠っているのかはわからない。


 時刻は午後四時半。外はまだ明るいが、光はだんだんと傾き始めていた。そろそろ夕食の支度でも、とソファに鞄を置いた時、何かが引っかかった。


 このまま寝かせて置いてもいい。こんな日があってもいいとは思うが、これで夜に目が冴えてしまっては気の毒だ。霖雨はキッチンに向かう前に、成人男性とは思えない程に薄い肩を揺らした。




「おい、和輝。起きろよ」




 微動だにしない。

 嫌な予感が、背筋を這い上がってくる。

 もう一度、今度は強く肩を揺する。




「おい、和輝!」




 やっと、瞼が持ち上がる。けれど、焦点は定まらず、眠りの底から引き上げられたばかりのように、ただぼんやりと空を見つめていた。




「葵?」

「違うよ、馬鹿」




 なんだその第一声は、と呆れて、でもどこか安堵しながら霖雨は腰を下ろす。和輝はなおも目を擦っている。


 擦るな、赤くなるぞ。

 仕方なく、霖雨はその背を撫でてやった。




「あ、霖雨?」

「そうだよ」




 寝ぼけたままの和輝に再度ブランケットを掛けてやり、霖雨は立ち上がった。今晩の夕食は自分がしようと思った。




「葵はどうした」

「葵は……、薬をくれたんだ。白い、小さい錠剤……風邪予防だって……」




 和輝の声はかすれていて、どこか罪悪感を含んでいた。


 薬?

 霖雨は振り向いた。リビングでは和輝が天井を見上げ、まるで過去を辿るみたいにぶつぶつと独り言を溢していた。


 風邪が流行っているからと、予防のために白い錠剤を飲むように言われたこと。何の疑いも無く飲んでから、和輝は記憶が無いらしかった。先日の拉致事件の反省は、まるで活かされていない。


 霖雨は言葉を失っていた。

 和輝の不用心さが、社会人として信じられない。




「お前、馬鹿なの……?」

「葵もさっきそう言ってた」




 何やってんだ、こいつ等。

 怪しげな薬を渡されて、当たり前のように飲み下した和輝。自分で薬を渡した癖に、飲んだ和輝に呆れてしまう葵。そこに巻き込まれている霖雨もまた、その馬鹿の一人だった。


 和輝が眠そうな目で尋ねる。




「葵はどこに行ったんだ……?」

「部屋にいると思ってた。電話してみるよ」




 霖雨が電話を掛けると、ソファの隅で電子音が鳴った。途端、嫌な予感が積乱雲の如く膨らみ始めた。




「なんだ、あいつ。置きっぱなしかよ」




 スマートフォンに地図を映して提示すると、和輝が麻薬犬みたいに顔を寄せた。眉間に皺を寄せて、和輝が首を捻る。二人でキッチンでスマートフォンを覗きながら、同居人の不審な行動を推理する。どういう状況なんだろう。


 霖雨はゴミ箱を覗いた。見覚えのある薬局の伝票と、処方された睡眠薬。解りやすくヒントを残したのは、誰に気づいてもらうためなんだろう。


 霖雨はポケットからスマートフォンを取り出して、薬局と周辺の病院を検索した。そもそも葵の既往歴なんて知らないし、プライベートの関わりが無い。手がかりが少な過ぎる。


 薬袋は和輝に任せて、霖雨はSNSを調べる。メジャーリーグの試合の勝敗、ロックフェスの盛況、ジュラシック・パーク再放送、ハリウッド化粧品から有害成分、大学病院で銃声……。


 和輝が突然、声を出した。




「病院だ」




 その手にはスマートフォンと薬袋が握られている。

 霖雨は眉を顰めて問い掛けた。




「なんで」

「解らないけど、勘。俺を信じろ」

「信用しろって言われてもな……」




 口ではぼやきながらも、霖雨は和輝の指差す画面に目を落とした。大学病院で銃声。酷く嫌な予感がする。


 大きく溜息を一つ零し、霖雨は床に落ちたブランケットを拾い上げる。角を合わせて丁寧に畳みながら、神妙な面持ちで考え込む和輝に言った。




「葵なら心配いらないだろうけど、和輝がそうしたいって言うなら付き合ってやるよ」

「霖雨」

「今日は外食かな」




 大きく伸びをすれば、自然と欠伸が漏れた。睡眠薬を呑まされた和輝としては、葵の行動は不自然で心配なのだろう。傍観者でしかない霖雨にとっては、葵の気紛れな悪戯だ。それでも、和輝がそうしたいと言うなら、付き合ってやってもいい。


 自室からヘルメットを二つ持ち出して、一方を手渡す。ヘルメットを受け取った和輝の腕が、わずかに震えていた。


 目元は赤く、足取りは重い。まだ薬が抜けきっていないのだろう。薬の効果だろうかと思いながら、手を差し出す。


 小さな手のひらが迷いなくそれを取って、体が持ち上がる。見下ろす程の身長差だ。けれど、その存在感は相変わらず、ヒーローそのものだった。

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