第33話
「それを、俺に近付けるな」
害虫でも視界に入ったかのように、葵がレイラを睨んだ。可愛がってくれるとは思わなかったが、ここまで嫌悪する必要はないだろう。
レイラはミルクを飲み干し、和輝の背で規則正しい寝息を立てる。環境の変化に対応出来る手の掛からない子だ。
子供は未来の欠片である。彼女を寝かせる布団がないので、おんぶ紐で背負った。両手が空くと、まるで自由を手に入れたかのような開放感に包まれた。
「葵は酷い奴だねえ」
霖雨が言った。
「そりゃ、嫌われる訳さ。敵か味方かなんて、子供は本能で解るんだよ。なあ、レイラ」
眠そうなレイラに、わざとらしく霖雨が声を掛ける。
和輝は葵まで巻き込むつもりはなかったので、この状況は非常に居心地が悪かった。肩身が狭いので、霖雨の嫌味は曖昧に笑って流した。
霖雨は眦を下げ、蕩けそうに微笑む。
「こんなに可愛いのにね」
「泣き喚いている時は、まるで化物のようだった」
「それだけ、お前のことが嫌だったんだろうさ」
へらりと霖雨が笑った。
事実、葵が抱いた時のレイラは、正しく火が付いたように泣き喚いていた。本能的に何かを感じ取っていたのかもしれない。和輝は背中で寝息を立てるレイラを見遣った。先程までが嘘のように、レイラは穏やかに眠っている。
葵が吐き捨てた。
「子供の顔の造作は、保護されるために最適化された生物的兵器だ。庇護欲を掻き立てる、ただの意匠だよ」
「ひねくれ者だなあ」
霖雨が呆れたように言った。
葵は換気扇の下で壁に寄り掛かり、煙草を指先で弄んでいる。霖雨にライターを没収され、手持無沙汰らしかった。
二人の遣り取りを横に、和輝はこれからのことを考える。当然だが、いつまでもこの場所にレイラを保護することは出来ない。かといってエリザベスの元へ戻す訳にもいかないし、危険はまだ去っていない。
葵の言うように、一個人が犯罪組織を相手取ることは無理だ。ヒーローが救えるのはフィクションの中だけ。
――それでも、振り払えない。
つかの間の信頼が、火傷のように背中に残る。和輝は背中に感じる熱を、未来からの預かり物のように思った。
和輝が黙っていることに気付き、霖雨が話を振った。
「随分と子供の扱いに慣れているよな。何か経験でも?」
「PICUの手伝いへ駆り出されていたことがある。小児科にも」
「大学病院で色々と経験して来たんだな」
感心とも呆れとも付かない息を吐いて、霖雨が肩を落とす。和輝は苦笑した。貴重な経験と言えば聞こえは良いが、実際は便利に扱われていただけだ。
「レイラは手の掛からない方じゃないかな」
「そのおんぶ姿、もう育児ベテランって感じだよ。和輝も母親におんぶされて育ったんじゃないの?」
「母は俺を産んで死んだ」
「……ごめん、聞いていいことじゃなかったな」
霖雨が痛ましげに目を伏せる。やはり、彼は基本的に人が良いのだろう。他人の感情一つに丁寧に共感してくれる。
葵がちらりとこちらを見た。
「お前の父親は、男手一つで兄弟を養って来たんだな」
「そうだよ。立派な父親で、俺の誇りだ」
和輝が告げると、葵が不機嫌そうに目を細めて煙草を置いた。その瞬間、嫌な緊張感が走った。
葵は秘密主義なのか、自分の情報を殆ど開示しない。それでも僅かに感じる警戒が、和輝には声のように聞こえる。
リビングに戻った葵が、テーブルの上に分厚い紙の束を投げ出した。ファイリングされた書類――レポートの表紙には、父の名前が記されていた。
英語で書かれたタイトルは小難しいが、要はカウンセラーである父の事例集だ。レイラを起こさないように手を伸ばそうとしたところで、葵が言った。
「機会があれば、お前の父親に会ってみたいね」
「……時間さえ合えば、快く受け入れてくれるよ」
葵の言葉には棘がある。彼は仙人掌のように表皮を棘で包み、何者も内側へ招き入れない。
和輝は伸ばし掛けた手を止め、葵の講義を聞く体勢に戻った。
「父親は、お前と一緒に汚れてくれたかい?」
和輝は一瞬、言葉を探した。
汚れるとは、なんだ。何を指している?
暴力か、貧困か、犯罪か。それとも、感情の話なのか。彼の言葉は煙のようで、形を掴めない。だが、確実に何かの地雷を踏んでいる。そんな危機感が足元から立ち昇る。
霖雨が話題を変えようとするが、葵が目で制する。氷のように冷たく、針のように鋭い視線だった。
「彼の記したレポートは、二千件以上の臨床事例を、プライバシー保護法に準拠して詳細に記述している。患者との対話を重視し、薬物治療に頼らない姿勢には、彼の誠実な人間性が滲んでいる。だが、その誠実さは――プライベートにも通じるのか?」
和輝は、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。
話の真意が見えないのだ。
「……俺にとっては、自慢の父親だよ」
和輝の答えに、葵が薄く笑う。
挑発と呼ぶよりも侮蔑に近い、毒のある笑みだった。
「レポートの中で、反社会性パーソナリティ障害にも言及している」
「……?」
「サイコパスは、社会に置ける捕食者だ。人は誰もその種を内包して出生する。幼児期には発芽し、成長の過程でやがて萎える。だが、この種子を開花させる人種が存在する」
和輝は混乱した。
情報の波が一気に押し寄せて、処理する前に脳が理解を拒否する。
葵ばかりがまるで講師のように朗々と語り、室内は異様な静寂に満ちた。
「これは遺伝や環境に起因しない脳の機能障害だ。この人種を理解することは難しい。故に、我々は異なる生物であると認識する必要がある」
葵が何を言いたいのか解らない。
葵の虚ろな瞳が、鏡のように覗き込んで来る。
「こうした認識を持ちながらも、彼は対話を選び続けた。患者と、社会と、世界と。—―家族とも?」
喉奥に苦味が湧いた。
堪らず、和輝は訊き返した。
「俺がサイコパスだって言っているのか?」
「仮にそうだったとして、彼は対話を選び続けたか? お前が犯罪者だったとしても、世間から爪弾きにされていたとしても、息子だと胸を張って庇ってくれたか?」
和輝は真っ直ぐ顔を上げ、胸を張った。
「だから、俺は此処にいる」
背中のレイラが小さく身動ぐが、目を覚ますことはない。
葵は、可笑しそうに喉を鳴らして笑った。けれど、その目は相変わらず温度がなく、虚ろなままだった。
今更、腹を立てる気はないが、不快でないと言えば噓になる。
和輝が見遣ると、葵はコミカルに両手を上げる。
「批難している訳じゃないさ。ただ、興味があっただけだよ」
「悪意しか感じなかったけどな。裁判なら、もう心証を完全に失ってる」
「ここが法廷じゃなくて残念だ」
葵の口元が三日月のように釣り上がる。不快な笑みだ。
和輝は件の書類の束を見下ろした。父の名が刻まれた表紙。その文字に胸の奥が僅かに波打つ。誰も自分を知らないはずの異国の地で、家族の名を盾に詮索されるとは思ってもいなかった。
だが、後ろめたい生き方をしてきたつもりはない。だからこそ、ここで退く理由もなかった。
「葵はそれを研究レポートだと勘違いしているようだけど――、訂正させてもらうよ。これは学術研究なんかじゃない。父が日々現場で向き合った、ただの事例の記録だ」
和輝の声に、いつになく鋭さが滲む。
「父は研究者じゃなくて、現場の人間なんだ。それ以上でも、それ以下でもない」
葵の表情は変わらない。けれど、和輝は構わず続けた。
「人は誰かを鏡にして、自分を測るそうだ。こんなもの、大仰な名前を冠してはいるけど、結局のところは、ただの紙の束だ。――お前は此処に何を映したんだ?」
一瞬、葵の口元が引き攣った。
和輝も霖雨も、見逃さなかった。
その時、葵が何かを言った。
聞き間違いかと思う程に小さく、掠れるような声だった。その意味を問い返そうとした瞬間、室内の明かりがぶつりと消えた。
夜の闇の如く暗転した室内に、霖雨が声を上げる。
「何だ?! 停電か?」
「予備電源が作動するはずだ」
葵の声が何処からか聞こえる。暗闇の中、感情の温度を完全に失った声だった。
和輝は気配を探るように周囲へ手を這わせた。テーブルの硬質な輪郭が指先に触れる。背中ではレイラの小さな呼吸が、確かな命として波打っている。
そして、次の瞬間、硝子の割れる音が響いた。
「お客さんだ」
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