第23話

 神木葵は、やっぱり変な奴だ。


 大学院生のくせにほとんど家にいる。複数の奨学金を受け取る所謂、優等生。だが、家族の影はなく、倹約家でもないのに金に困らない。頭はいいのだろうが、自分とどれほど違うのかは分からない。


 週に三日は深酒して泥酔する。料理はしないが、出されたものは文句を言いながら全部平らげる。界隈のアンダーグラウンドに詳しく、普通なら知り得ないことまで把握している。痩せ型で猫背気味のくせに、身体能力は妙に高い。


 気配が薄くて透明人間のよう。厭世的で毒舌、悪戯好き。けれど、根っからの悪人ではない。


 和輝は洗い物をしながら、テレビを背に読書する葵を横目に見遣った。言葉を交わさずとも、通じ合っている気がする。人間って、不思議だ。


 ──要するに、神木葵は、変人だ。


 テレビでは、例の大学病院の汚職についてコメンテーターが騒いでいる。和輝は関係者だが、過ぎたことを掘り返すのは無意味だと思っていた。


 そういえば──爬虫類顔の男が地下の遺体安置所で発見されたと、エリザベスから報せがあった。密閉空間で窒息死。腕には注射痕、血液からは違法薬物が検出された。四肢は革ベルトで拘束され、明らかに他殺。FBIは組織犯罪の線を追っている。


 けれど、和輝は胸の奥に引っかかりを覚えていた。


 ──葵。あの日、お前はどこで、何をしていた?


 訊きたかった。でも、訊かないと決めた。どんな答えを聞いても、納得できるはずがない。


 泡立つ皿を流していると、不意に葵が立ち上がった。本を閉じて、さらりと言う。




「ちょっと行ってくる」

「どこに?」

「バイト」

「はあ?」




 思わず皿を落としかけた。




「バイトしてたのかよ」

「してるよ。金には困ってないけど、気が向いた時だけ」




 羨ましい限りだ、と和輝は内心舌打ちした。転職先も決まらない自分とは違い、葵は何でも思い通りにしている。自室に戻ったかと思えば、上着を羽織ってすぐに出てきた。蛍光色のウインドブレーカーなど誰が着るんだと思ったが、腹立たしいほど似合っている。


 それでもやはり、気配は薄い。




「じゃあ」

「変なバイトじゃないよな?」

「普通の居酒屋」

「酒、弱いくせに」

「うるせえ、チビ」




 心配しているのにこの物言い。和輝は苦笑した。


 玄関に向かう葵を見送りがてら後を追う。今朝は霖雨も早く出掛けて、家は静まり返っていた。少し前までは自分が出掛ける側で、見送られる側だった。あのとき葵も寂しさを感じたか──いや、ないな。すぐに否定する。


 今日は予定もない。掃除も洗濯も済んでいる。残されたのは退屈だけだった。


 青いスニーカーを履いた葵は、振り返らずに玄関を出た。




「俺も行きたい」

「未成年の飲酒は法律で禁じられております」




 それだけ言い残し、扉の向こうに消えた。


 なにが未成年だ。酒に弱いのはそっちだろ!


 和輝は地団駄を踏みたい気分で踵を返す。テレビだけが喧しく騒いでいる。電源くらい消してけよ、と毒づいた。葵の帰宅時間は解らない。霖雨なら夕方には戻るはずだ。


 ──早く、帰ってこないかな。


 溜息を吐きかけて、ふと思いつく。霖雨の大学院に行ってみよう。


 すぐにスマートフォンで住所を検索する。歩ける距離なら今からでも会えるかもしれない。


 財布とスマートフォンをリュックに放り込み、家を出た。大学で警備員に止められるかもしれないが、その時考えればいい。最悪、待ち伏せでも構わない。


 戸締りを済ませ、勇んで玄関を出る。


 春の町は柔らかな日差しに包まれ、風も心地よい。足取りは軽かった。


 ──学校なんて、いつ以来だろう。


 十五分ほど歩くと、目的地が見えてきた。格式ばった立派な建物から、学生らしい若者たちが出入りしている。入口の警備員に軽く会釈すると、年配の男性はにこやかに返してきた。


 簡単な手続きを済ませると、もう誰にも止められない。本物の不審者だったらどうするんだよ、この警備体制──と内心で突っ込む。


 エントランスの案内板を見上げる。霖雨の専攻は量子力学。しかし研究室の場所までは解らない。とりあえずタッチパネルに触れると、突然、大学紹介ムービーが大音量で流れ出した。


 肩が跳ね、慌てて連打する。周囲の学生や職員が振り返り、顔から火が出るほど恥ずかしい。必死で映像を止めた瞬間、背後から声がした。




「……和輝?」




 振り返ると、霖雨が立っていた。助かった。救世主だ。怪訝そうな表情だが、口元は笑っている。もしかすると最初から見られていたのかもしれない。


 霖雨は春らしいパステルカラーのシャツを着ていた。やわらかな光に包まれ、まるで絵画から抜け出したようだ。


 案内板を戻しながら、霖雨が微笑む。




「こんなところで、何してるんだよ」

「退屈だったから、霖雨に会いに来たんだ」




 素直に言うと、霖雨は目を丸くし、それから照れくさそうに笑った。




「仕方ない奴だな。葵は?」

「バイトだって。置いてかれた」

「ひどいな、それは」




 完全に子供扱い。だが、それが嫌ではなかった。──俺、つい最近まで社会人だったんだけどな。


 霖雨が腕時計を見て、困ったように眉を寄せる。




「まだ講義があるんだ。待っててくれるか?」

「うん。一緒に帰ろう。今日の夕飯、唐揚げ作るから」




 そう言うと、霖雨は眩しそうに目を細め、和輝の頭を撫でた。



 ──よしよし。

 完全に犬扱い。でも、悪くない。




「じゃあ、研究室で待ってて。迷子になると困るから」




 おいで、と霖雨が微笑む。


 霖雨が痴漢やストーカーに狙われやすい理由が、少し分かった気がする。優しくて、綺麗で、隙だらけ。きっと何をしても許してくれる。


 そういう甘さを、彼は纏っている。


 歩調を緩めた霖雨の背中を追い、和輝は小走りに並んだ。

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