第13話

 死んだのか。


 薄暗く、底冷えする密室。遺体安置所は息苦しく、出口の無い洞穴を連想させた。


 目の前に横たわる遺体――犯罪組織の下っ端だったらしい。何かヘマをして組織から報復を受け、病院へ運び込まれた。


 担架に載せられた彼は、和輝を見てヒーローだと言った。


 界隈に通り名が知れ渡っているのかも知れないし、死の間際に幻想を見たのかも知れない。もう、確かめる術はない。組織はこれからも生き続ける。





「蜂谷くん」





 探したわよ、と金髪のふくよかな看護師、エリザベスが穏やかに言った。


 和輝は深緑色のスクラブのポケットに手を入れる。冷気の為か指先は凍り付いたように冷え、感覚が無くなっていた。




「彼は亡くなったの?」

「ええ、昨夜遅くにね」

「そうか……」




 深夜に亡くなったのならば、和輝が帰宅した後だ。手術室で亡くなったのだろう。


 出血多量の症状が出ていた。輸血も間に合わなかったかも知れない。自分の越えられない境界線の向こう側で、彼は息絶えた。自分なら助けられた等と驕るつもりは毛頭無いし、医師も手を尽くしたのだろう。ただ、自分がやり切れないだけだ。


 ヒーローを求め、手を伸ばした男を、救えなかった。


 俯く和輝を、看護師が母のように抱き竦めた。境界線の向こうで生きる彼女の手は力強く、温かい。




「ここは凍えてしまうわ。さあ、行きましょう」




 人間の体温を感じながら、和輝は導かれるように遺体安置所を出た。


 廊下は眩しい程の光に満ちている。リノリウムの床は日光を白く反射させ、和輝は目眩を覚えた。


 渡米して一年目はそれこそ雑用係だったが、確実に技術を身に付け、今では看護師同等の勤務をしている。それでも、資格を持たない和輝の給料はアルバイトと同等だ。医療行為の許されない和輝は手術室へ入ることは出来ない。


 医者になりたい訳じゃない。ただ、人を救いたいと思う。高校時代、再起不能の怪我を負った時、この国のスポーツドクターが救ってくれた。恩に報いたいと思った。けれど、渡米してみれば彼は交通事故によってこの世を去っていた。


 ポケットに入れていた掌を固く握り締める。そして、其処に何かを掴んでいたことに気付く。


 取り出してみれば、あの男から受け取った金細工のロケットだった。入れたままにしていたことを思い出し、開いて見る。肌の黒い少女が映っていた。淡い青色のドレスを纏い、行儀良く膝に手を揃え、微笑んでいる。娘だろうか。


 返しそびれてしまったな、とナースステーションを目指した。彼の血縁者に渡すべきだろう。


 ナースステーションに問い合わせるが、彼の遺族は一人として訪れていないらしい。犯罪組織の尻尾きりに使われる男に、血縁関係者が顔も出すはずも無いだろう。やるせなさや虚しさと共にロケットはポケットへ押し込んだ。


 回診の時刻となり、看護師を引き連れた医師が廊下を渡っていく。和輝は廊下の隅によって会釈した。


 先頭に立っていた医師は和輝に気付くと、声を掛ける。




「やあ、和輝くん」

「こんにちは」




 何でもない遣り取りだが、この医師は和輝をファーストネームで親しげに呼ぶ。正直、好きではない。碧眼が何処か爬虫類を思わせ、自分は捕食されるのではないかと錯覚してしまう。


 他愛の無い遣り取りの中で、医師が耳へ口を寄せた。




「今夜、空いてるかい?」




 性質の悪い冗談だ。和輝は曖昧に笑った。




「申し訳ないけど、先約があるんです」

「ついてないなぁ!」




 医師が目を眇めて嗤う。




「いつでも連絡してくれて構わないからね」




 耳打ちするように、医師がそっと言った。

 和輝は微笑み、歩き出す。


 医師の群れが通り過ぎた後ろで、和輝は大きく息を吐き出した。気持ち悪い男だ。男の自分を性的対象と見做している。和輝は童顔で小柄だから、一層無防備に見えるのだろう。


 和輝は覚えている。

 忘れることなど、出来はしない。


 現場に放り込まれて一年と経たず、言葉すら理解出来ず、右も左も解らなかった頃、あの医師を主犯とした数人の男達に物置へ閉じ込められた。


 スクラブの布地が肌を滑る感触。何かが喉元にこみ上げてきたが、悲鳴はタオルに吸い込まれた。あの時、時間が止まったように感じた。すべての音が遠のき、ただ皮膚の感覚だけが、現実の証だった。


 扉が開かれたのはその時だ。目が眩むような視界の中で、エリザベスが立っていた。勢いよく捲し立てる彼女の言葉は解らなかったが、怒りに満ちていることは伝わった。


 奴等は蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。エリザベスは和輝の無事を確かめると、潤んだ目で強く抱き締めた。


 ──あの時、俺は境界線の向こうに取り残された。

 でも今、誰かが手を引いてくれている。


 和輝に母はいない。出産と同時に逝去した。だから、母の温もりを和輝は知らない。


 言葉の通じない異国で、味方のいない敵地だと思っていた――けれど、それは、間違いだったのかもしれない。

 確かな温もりを感じながら、和輝は思い出す。


 失っても、失っても、それでも希望はどこかに落ちている。

 見つけたときには、もう遅い。拾ってしまう。

 それがどんなに鋭く、痛みをもたらすとしても。

 踏みつけたほうが楽なのに、人は希望を拾ってしまう。


 絶望には、未だ早い。俺は、夜明けを知っている。

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