春を乞う人びと
宝積 佐知
1.Go straight.
第1話
1. Go straight.
息を吸うことすら躊躇われるほどの密度だった。
曇った窓が外の光を濁らせ、世界を遠ざけている。
湿った空気の中で、
NYの地下鉄――経済の心臓部で脈打つこの都市でも、通勤ラッシュは母国と何ら変わらない。霖雨は現実から目を背けるように、遠く離れた故郷へと思いを馳せた。
高校卒業を機に、周囲の反対を押し切って渡米してから五年。最初こそ不安だったが、忙しなくも充実した日々は、今では彼の一部となっている。
大学院に進み、卒業を控える今、ようやく霖雨は転居を考え始めた。NYは華やかだが、息の詰まる喧騒の中で暮らすには、少し疲れてしまったのだ。新しい候補地は、大学まで徒歩で通える郊外の一軒家。家賃は破格で、最低限の常識さえあれば誰でも歓迎――だが、あまりにも都合が良すぎて、少しばかり胡散臭い。
――その時だった。背後に、ぞわりと何かが蠢いた。
確かな意志をもって這い寄るそれは、背中から滑るように降りてきて、霖雨の臀部に触れた。
骨ばった指が、嫌悪をなぞるように肌に触れた。
這い回る五本の指から、ぬめるような悪意が染みてくる。
――またか。
すし詰めの車内に身を預けることは我慢できても、度重なる痴漢行為には、もはや耐えかねていた。ここには女性専用車両もない。自分は成人男性であり、声を上げることすら憚られる立場なのだ。喉の奥から這い上がってくる不快感を、奥歯を噛み締めて堪える。
慣れろ。諦めろ。どうせ、誰も助けてくれない。
あと少しで駅に着く。沈黙していれば、悪意も通り過ぎていくはず――そんな言い訳で自分を納得させようとした時だった。
霖雨は、ほとんど反射的に顔を上げ、車内を見渡した。縋るものなどあるはずがない、と思ったその瞬間だった。
一人の少年と、視線がぶつかった。
吸い込まれそうな大きな瞳。
艶やかに光る陶器のような肌と、ひどく整った相貌。人波に埋もれているはずなのに、彼だけが光を纏うように浮き上がっていた。
霖雨が目を逸らす前に、少年は不思議そうに首を傾げ、そして――何かを悟ったように力強く頷いた。
彼は、躊躇なく動き出した。
人混みの海を泳ぐ紡錘形の魚のように、滑らかに、迷いなく。
周囲の者たちが驚く間もなく、その美しさに目を奪われる間に、少年は霖雨の前へ辿り着いた。
そして、霖雨の臀部に触れていた腕を、見事な動きで捻り上げた。
男が呻く。車内がざわつく。
少年は、獲物を捉えた猛禽のような眼差しで告げた。
「二度と、手を出すな」
澄んだ少年の声が、なぜか残酷なほど重く響いた。日本語だった。その事実に、霖雨は場違いな驚きを覚える。
男は空気の漏れるような声を上げ、電車がスロウ・ダウンして止まると同時に、何かから逃げ出すように車外へ転がり出た。
残された少年は、天使のように微笑んだ。美しい悪戯の後のように、無邪気に。
霖雨は咄嗟に彼の手首を掴んだ。あまりの細さに、自分の力で折れてしまいそうで驚く。
少年が振り向いた瞬間、騒がしい車内が音を失ったように感じた。
「……ありがとう」
「どういたしまして?」
どこか笑えるやり取りに、霖雨も自然と口元を緩めた。
少年の目には、確かな誠実さが宿っていた。
「助けてほしそうに見えたから。余計なお世話だったら、ごめんな」
「……いや。助かったよ。ありがとう」
母国語の響きに、不思議と心がほぐれる。
霖雨が掴んでいた手を離すと、少年は困ったように頬を掻いた。
「君が抵抗してないから、そういうプレイなのかと思ってた。もっと早く助けられたかも」
「よくあるんだ、痴漢。もう諦めてた」
「でも、嫌なんだろ? だったら、抵抗しなきゃ。沈黙は、肯定と同じだよ」
小さな体に、不思議な強さが宿っていた。
霖雨が言葉を返せずにいると、少年は手を差し出した。
「俺の名前は、
「常盤霖雨だ。今日は本当に、ありがとう。いつか、お礼をさせてくれ」
握手は短く、しかし、確かなものだった。
和輝は、振り返ることなく雑踏の中に消えていった。
その小さな背中が消えても、霖雨の肌には、稲光のような衝撃が余熱として残っていた。
その熱は、ただの体温ではなかった。久しく忘れていた触れられる感覚が、まだそこにあった。
――もう、二度と会うことはないだろう。
けれど、霖雨はその寂しさを抱えたまま、新たな一歩を踏み出していた。
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