第4章 仮想と痛みと③
――やってしまった。
愛子が今日、休みだったこと。それは前にちゃんと聞いていたのに、昨日、そんな素振り一つもみせず……なんで思い出せなかったんだ……!
折角、久しぶりに会えたというのに。
彼女の休日の前夜、ほんの少しでも、暖かで穏やかな時間を一緒に過ごしてあげられたかもしれないのに。
自分のことで精いっぱいで、自分の事しか考えなくて、何一つ気づいてやれなかった。胸の奥にじわりと、自己嫌悪が広がっていく。
愛子はそんな湊に対して、変わらず明るく、優しく、ハツラツと接してくれた。どこにも、責めるような言葉も、顔もなかった。
それが、余計に胸に刺さる。こんな自分を、大切に思ってくれる愛子。そんな彼女が、湊にはもったいなくも、でも、たまらなく愛おしかった。
スマホの画面には、愛子からの、何気ない、でも温かい言葉が並んでいた。湊はもう一度深く息を吐き、そっとスマホをおでこに押し当てた。
湊は帰宅し、スーツを脱ぎ捨てるようにソファにかけた。
スマホをチラリと見ると、愛子からメッセージが届いていた。懐かしい店のカウンターに並んで笑う常連たち、坂元の相変わらずコワモテな顔をふざけて撮った写真――。
どれも楽しげで、懐かしくて、胸がちくりと痛む。湊は、愛子にさりげなく返信した。
【懐かしいな】【変わってないね】
本当は、もっと何か言いたかった。けれど、言葉にすると、自分の小ささが露呈してしまいそうで。
軽く冷蔵庫の中のものをつまんで夕食を済ませた湊は、ソファに身を沈める。
『あちらの世界』に行こうか、やめておこうか――
頭ではわかっている。
今夜くらい、休むべきだ。愛子の存在をちゃんと受け止めるべきだ。
けれど、心はうずうずしていた。あちらの世界でしか得られない「興奮」、「達成感」、「救い」のようなもの。現実では到底手に入らない力。それらが、湊の心を甘く誘った。
湊は目を閉じ、深く息を吸った。ベッドには、いつでも「行ける」ように充電器につなげたままのゴーグル。
『あちらの世界』に行きたい衝動を、なんとか抑えようとスマホを手に取る湊。けれど無意識のうちに、指はまた「NS:VO」の攻略サイトを開いていた。最新の情報、効率的なスキル上げ、裏技的な戦法。読み漁っているうちに、ふと我に返る。
「……何やってんだ俺……!」
思わずスマホをベッドに放り投げる。鈍い音がして、枕の上に落ちた。胸に重く広がる焦燥感。
このままじゃ、どこか取り返しのつかないところまで行ってしまう気がした。湊は立ち上がり、風呂を沸かすことにした。バスタブに湯がたまる音を聞きながら、汗ばんだシャツを脱ぎ捨てる。
熱めの湯に体を沈めると、ジンとした感覚が肌に刺さる。だが心は落ち着かない。
――せめて、愛子が夜勤で会えない週末だけにしよう。
そんな折り合いを自分の中でつけようとする。
だが、それだけでは満たされないと、湊はうすうす感じていた。
もっと深く、もっと長く「あちらの世界」にいたい。現実では得られない強さと自信、あの場所にしかない感覚を、もっと味わいたい。
ふと頭をよぎる。
セーフティ機能――8時間で強制ログアウトするあの制限。
「あれ、なんとかならないか……?」
プログラムを書き換える。そんなこと、無理だと思う一方で、
(案外、やろうと思えばできるんじゃないか)
そんな甘い考えが、湊の中に静かに芽生え始めていた。
湯船の湯が、やけに重く感じる。それでも湊は、目を閉じて、じっとその考えに浸り続けた。
[とびのや]では、片付けも一通り終わり、店内の時計を見ると、もう深夜1時を回っていた。
「よし!久しぶりに行くか!」
坂元が顔を輝かせて言った。もちろん、行き先はあの馴染みのラーメン屋だ。
愛子は少し笑って首を振る。
「今日はやめときます。すみません。ちょっと飲み過ぎちゃった」
やんわりと、しかしはっきりと断った。
坂本は一瞬残念そうな顔をしたが、すぐに笑いに変えた。
「そっか、しゃあねえな」
それでもタクシー代を出してやると言って財布を取り出そうとする。
「大丈夫です!」
愛子は慌てて手を振った。
「今は私だってちゃんと稼いでますから、心配しないでください」
そんな言葉に坂元はふっと目を細めた。店の外まで見送りながら、
「……なんかあったら、いつでも来いよ」
と、ふと声のトーンを落としながら言った。何かを察しているのかもしれない。坂元という人はそんな人だから。
愛子は心配をかけまいと、いつものように明るい笑顔を作る。
「はい! また絶対来ます!湊と!」
元気に答えて、タクシーに乗り込んだ。
夜の街を走る車の中で、愛子は少しだけ、目を閉じた。懐かしくて、あたたかくて、でもどこか少しだけ、切ない夜だった。
朝7時、アラームの音が耳に刺さる。
昨夜は罪悪感から『あちらの世界』へは行かなかった。
湊は重いまぶたをこじ開け、スマホを手に取った。未読のLINEが2件。
まずは、深夜1時すぎ、愛子から。
【飲みすぎた〜(笑)楽しかった!今度絶対一緒に行こうね!】
絵文字も飛び跳ねるような、いつもの明るいメッセージ。読んでいるうちに、少しだけ胸の奥が軽くなる。
次に、1時半すぎ、坂元から。
【湊、アイツ今日も笑ってたけどな、ああいうヤツほど無理すんだ。気づいてんだろ?おまえが頼りなくなったら、あいつ絶対無理するぞ。守ってやれ。できねぇなら、今すぐ別れろ。
──でもまぁ、できるって信じてっけどな!俺に殺されたくねぇだろ?(ニヤニヤ)】
湊は思わずスマホを見つめたまま固まった。最後に笑ってる顔が見えるような文面なのに、心にズンと響く。ふざけた言葉の裏に隠された、本気の優しさ。
……バレてる。全部。
苦笑いしながら、湊はスマホを額に押し当てた。不器用でもいい、情けなくてもいい。
だけど、ちゃんと向き合わなきゃいけないんだ。静かに、湊は布団から這い出して立ち上がった。
出社した湊は、タイムカードを押すと、そそくさと自席に腰を下ろした。表向きはメールチェックに忙しいふりをして、ブラウザを開き、こっそりと検索を始める。
──VRゴーグル、シンダイブ03、プログラム改変、プロテクト解除、ログアウト制限……。
いくつかキーワードを組み合わせながら、情報を探る。
似たような話題はネットの奥深くにちらほら見つかるが、決定的なものは少ない。
(……セキュリティ、意外といけるかも)
湊は指先を震わせながらスクロールを続けた。
どうやら、あのゴーグルはある程度「個人の拡張プログラム」を許容する仕様らしい。
それをうまく突けば、8時間の強制ログアウトのセーフティ機能も──いじれなくはない。
とはいえ、リスクもでかい。バレたらデータ消去、最悪、機器の利用禁止。健康上の保障はない。
そんな警告文もいくつか目に飛び込んでくる。
(……でも、やれるかもしれない)
午後の休憩時間、湊はさらに会社の設備について調べた。ログ解析装置、デバッグ用のシステムツール……
専門部署にしか出入りできないエリアもあるが、使えそうなものもいくつか心当たりがあった。
昼休みには、親しい同僚にさりげなく聞いてみる。
「なぁ、研究用のデバッグ端末って、個人プロジェクトとかで使えたりするもん?」
「バレなきゃな」同僚はニヤリと笑った。
「ただ、データ残るからな。使ったら自己責任でってやつだな」
「……だよな」湊も笑い返したが、内心はひやひやだった。自分が今考えていることを、誰にも悟られたくない。
それでも湧き上がる興奮と、罪悪感。愛子との時間を大事にしたい気持ちと、「あちらの世界」に帰りたい欲望。湊の心は、静かに、しかし確実に揺れていた。
──踏み込んではいけない。けれど、やるしかない……。
湊は手元のマウスをぎゅっと握りしめた。
勤務が終わり、スーツを羽織りながら、湊はスマホを取り出した。ずっと気になっていた愛子に、ようやくLINEを打つ。
【体調大丈夫?昨日、飲みすぎてないか心配してた。今日から夜勤だよね、無理しないで頑張って。……それと、休みのこと忘れてて本当にごめん。】
少し間をおいて、愛子から返信が届く。
【もう勤務はいってるよー。今ちょうど一息ついたとこー!ちょっとだけ二日酔いだけど大丈夫!昨日楽しかった!ありがとう!】
メッセージの最後には、いつも通りのハツラツとした愛子らしいスタンプ。
それを見た湊は、胸を撫で下ろすと同時に、やっぱりまた、じわりと罪悪感が込み上げた。
【あと、今度の土曜日、急に休日出勤することになった……。ごめん。】
愛子からの返信はすぐだった。
【そっか、でも大丈夫だよ!私もその日夜勤だから、気にしないでお仕事頑張ってね。それより、体調気をつけてね。無理しないで。】
優しい言葉が画面に並ぶ。ハツラツと明るいけど、どこか、無理して気遣ってくれているようにも感じる。
(……ごめん、愛子)
胸の奥に、ズシリと重い罪悪感が広がる。なぜなら湊は、休日出勤と偽り、その時間を使って――
『あちらの世界』の「プログラムの書き換え」に本気で手を付けようとしているからだった。
その夜もVRに入らなかった。
というより、入れなかった。
仕事を終えたあと、湊はまっすぐ自宅に戻り、パソコンの前に座り込んだ。
検索履歴には「市販VRデバイス root化」「プロプライエタリOS 解析方法」「NextSelf: Virtual Origin 構造図」といった言葉が並ぶ。
(……どうやって制御系にアクセスする?)
(ファームウェアのバージョン、そこから見直さないと)
技術職とはいえ、湊の専門は業務系のWebアプリ。
ハード寄りの解析や逆コンパイルは、学生時代に少しかじった程度だった。
それでも、何とかVR機器の深層部に手を伸ばせないかと、必死で情報を漁り続けた。
(もし、ログイン制限やセーフガードをバイパスできたら……)
(もっと長く、もっと深く、あの世界にいられるかもしれない)
気づけば日付は変わっていた。
いつの間にか、マウスを持った手がじんわりと痺れていた
翌日の金曜日。
湊は昼休み、スマホを取り出し、少し考えてから文章を作った。
【今日は夜勤明けでしょ?ごはんでも行かない?今回は俺に奢らせて。……こないだのお詫びもかねて】
指先が送信ボタンに触れる瞬間、わずかに迷った。けれど、送っていた。少しでも、気まずさを埋めたかった。少しでも、自分の罪悪感を軽くしたかった。できれば早く、直接会って謝りたかった。でもそれは、きっと自分のためだ。“あの夜”の愛子の気持ちを、早く確かめたかった。
寂しさからなのか、それとも、ただ懐かしさで[とびのや]に行っただけなのか――
今の関係が、壊れたのか、まだ繋がっているのか。ただ、それを知りたかった。
ほどなくして、愛子から返信が届いた。
【ありがとう。行きたーい!けど、、、今日はゆっくり休むね。湊も明日、休日出勤でしょ?私もこないだちょっと飲みすぎちゃって……土曜からまた夜勤だから、今はちょっと休みたいなって。今日はお互い、身体を労わる日にしよ?】
優しい、でも確かな「断り」だった。気を遣わせないように選んだ言葉のひとつひとつが、
愛子らしい、あたたかさを持っていた。湊はスマホを伏せて、そっと息を吐いた。
(……予想してなかったな)
早く謝って、少しでも気を楽にしたかった。自分の中の『罪』を、なんとか軽く出来る気がしていたのに。その期待が、静かにしぼんでいく。
でも――
その反面、ほんの少しだけ、胸の奥に抜けていくような感覚があった。
(……なんでだよ。ホッとしてる……?)
自分でも気づいていなかった感情が、にじむように浮かび上がる。どこかで、“向き合う”ことから逃げていた。愛子のまっすぐな優しさが、今の自分には、少しだけ重く感じていた。
そしてその弱さに気づいた瞬間、心の奥が、ゆっくりと冷えていった。
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