第1章 交わらないふたり②


「いらっしゃ……あ、今日からの子か」

厨房から湊が顔を出した。細身で無表情。どこか冷めたような目をしている。


愛子はその顔を見た瞬間、ふと引っかかるものを感じた。

(……この人、見たことある気がする)


大学のキャンパスで、誰の誘いにも乗らずひとりで歩いていた男子学生。名前も知らないし、話したこともない。でも、なぜか印象に残っていた。

(まあ、気のせいかも)


「制服、これ。更衣室、奥。着替えたら声かけて」それだけ言って、湊はすぐに厨房へ戻っていった。


店内には油と煙草の煙の混じった、居酒屋独特のにおいが漂っている。愛子は制服に着替え、軽く身だしなみを整えてから厨房に戻った。


「よろしくお願いします!」

「おう、じゃあホールお願い。湊、教えてやってくれ」

「……わかりました」


湊は無表情のまま、伝票の書き方、席の番号、料理の流れなどを淡々と説明していった。

愛子は真剣に「はい!」と返しながら、一つひとつ飲み込むように覚えていく。


開店してしばらくすると、店内は常連たちがちらほらと来店し始めた。


「おっ、新人さん?元気いいねえ」

「今日からなの?よろしくね」

「店長、いい子入れたねぇ」

「だろ?やっぱ華がねぇとな」


坂本が満足そうに言うと、愛子は少し照れながら笑った。けれど手は止めず、グラスを運び、皿を下げ、伝票を確認する。初日とは思えないほど、彼女の動きには迷いがなかった。

湊はその様子を、厨房からちらりと見ていた。


(……飲み込み、早いな)

「湊、おまえちゃんと教えてんのか? 一応先輩なんだからもっとハキハキ声出せよ」

「え?あ、はい、教えてます」

「本当かぁ?新人に不安与えたら殺すぞ」


愛子はそのやりとりに小さく笑って、「大丈夫です、ちゃんと教えて頂いてます」と軽くフォローを入れた。湊は少しだけ視線をそらして、「……です。」とだけ返す。


店の営業が終わりに近づいたころ。初日を終えた愛子は更衣室で制服を脱ぎながら、ぽつりとつぶやいた。

「やっぱり……大学で見たことある人だったかも。湊さん……」


でも、それだけ。特に興味があるわけでも、話しかけようと思うわけでもない。

ただの“見たことあるかもしれない人。”そんな距離感。

(まあ、明日も頑張ろ)


愛子はポニーテールを解き、髪を整えて店を後にした。



*   *   *   *



湿った季節が過ぎ、夏が近づく頃。大学のキャンパスにも少しずつ緑が濃くなり、教室にはゆるい風が流れ込んでいた。


湊は講義を受けた帰り、学内のベンチでノートパソコンを開いていた。課題のコードを打ち込んでいるのか、あるいはただ何かをぼんやり見ているだけなのか——

目の前の画面に集中しているようで、周囲には無頓着なまま。

「湊、昼食べた?」

「うん、パン食った。」

同じゼミに入った西村という男子が、コンビニの袋を手に湊の隣に腰を下ろす。

物静かだけど人懐っこい西村とは、なんとなく気が合ってよく一緒に行動していた。

「なあ、湊って彼女とかいないの?」

「いないよ」

「そっかー、俺も。でも夏までにどうにかしたいよなあ。合コンとかしたくね?」

「いや……いいや」

「だろうな」

西村は笑いながらパンにかじりついた。


一方、愛子は医学部棟のラウンジで友人たちと昼休みを過ごしていた。机の上には教科書と、アイスコーヒーと、学生同士のにぎやかな笑い声。


「てかさー、愛子、また看護の実習完璧だったんでしょ?やばいよね、ほんと優等生」

「そんなことないよ、たまたま」

「でも彼氏はいないんだよね?」

「うん、いないよー」

「え、まじ?愛子、でも彼氏いそうってよく言われるでしょ」

「そう?今は別に……って感じかな。もうちょっと落ち着いたらでいいかなって」


そう言いながら、ストローを軽くくわえてコーヒーをすすった。


湊と愛子。同じ大学、同じ春、同じようなタイミングで大学生活を始めた2人は——


いまだに、ある意味では【出会って】いなかった。


居酒屋のバイトも、湊は平日の夜に入り、愛子は土日中心。月に1度か2度、シフトがたまたま重なる日がある。その日も、挨拶を交わし、少しだけ業務の引き継ぎをして、終わる。会話は数十文字、心の距離は数キロメートル。


ふたりとも、その関係に特に疑問を持つこともなく、時間が過ぎていった。


「今日、後半は愛子か」

「はい。そうっすね。でも僕先にあがりっす」


湊はタイムカードを押しながら、店長にそう告げた。

「お前さぁ、もうちょっと話せよ、あいつ、おまえと同い年くらいだろ」

「……そうすかね?」

「確か同じ大学じゃなかったか?」


湊は特に驚きも興味もない素振りだった。

「聞いてないの?おまえ、そういうとこほんと気にしねえよな」

(いや、面接したの店長じゃん、)


湊は軽く頭を下げて、更衣室へと消えていった。


そのすぐ後、愛子が店に来た。

「おはようございま〜す……あ、今日、湊さん入ってたんですね」

「うん、ちょうど今あがって着替えてるとこ、着替えちょっと待ってて。」

坂元は、顎で奥の更衣室を指した。


「はーい。てか……湊さんて、ちょっと変わってますよね?」

「確かに死ぬほど暗いよな。でも悪いヤツじゃねーけどな。」

「確かに。」と、笑って答えた。


しばらくすると、更衣室の扉が開いた。坂元と愛子のやり取りを聞いたか聞こえずか、いつも通りのそっけない表情で出てくる。


「湊さん、お疲れ様です」

愛子が先に挨拶すると、湊は足を止めることもなく、愛子の方へとちらりと目をむけた。

「あ、……おはようございます。」


小さく、まるでなんの感情をも出さないような声だった。


愛子は軽く笑って、更衣室へと消えていった。交わらない時間。すれ違う日常。けれどふたりの間に流れているものが、少しずつ何かを積み上げていく。


土曜日の夜。まだ日が長い初夏の夕暮れ。いつもの居酒屋には、次第に人が集まり始めてた。


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