第1章 交わらないふたり①


キャンパスの桜は、風に吹かれるたびに花びらを撒き散らしながらも、まだ枝のあちこちにしがみついていた。四月の空はどこまでも高く、すべてが新しく見えた。


『青嶺大学(せいれいだいがく)』


今日、ここに新しい学生たちが集い、新しい時間がはじまる。


大野 湊(おおの みなと)は、人混みの中をそろそろと歩いていた。手には資料の詰まった紙袋、肩からかけたリュックはまだ形が硬い。黒髪に無地のパーカー、顔立ちは整っているが、どこか影のようなものをまとっている。


キャンパスの広場では、無数のサークルが新入生を囲い込もうと声を張り上げていた。


「写真サークルでーす!一眼レフ、触ってみませんかー?」

「演劇部!初心者歓迎!」

「映研!ゾンビ映画作ってまーす!」

「お兄さんお兄さん!うちのバンド、今ドラマー募集中!」


湊は一つひとつの声に戸惑いながら、なるべく目を合わせないように歩く。何かに誘われるたび、苦笑いを浮かべて軽く会釈し、静かに通り過ぎる。


一方そのころ、広場の反対側では。


「え、マジ?ボルダリング部って女の子いないんですか? じゃあ行かない!」


笑いながら話していたのは、川島 愛子(かわしま あいこ)。明るいブラウスにスカート、そしてショートヘアのよく似合う女の子。話しかけやすい雰囲気と、きっぱりした受け答えで、すでに数人の新入生とLINEを交換していた。


「へえ、フリーペーパーとか面白そう! デザインやってみたいかも!」


彼女は、何にでも興味を持ち、何にでも足を踏み入れてみようとする性格だった。あたらしいこと。あたらしい人たち。胸の奥が、ふわふわと膨らんでいく。


【その日、二人はすれ違わなかった。】


同じ時間、同じ空の下にいたにもかかわらず。まだ、その『物語』は始まっていない。


川島愛子(かわしま あいこ)は、看護師になるのが夢だった。

高校時代、身近な人の入院をきっかけに、その仕事の意味と重みを知った。そして何より、白衣をまとった人たちの凛とした姿に憧れた。

だから、迷いはなかった。志望動機の面接でも、はっきりと「誰かの生きる時間を支えたいんです」と語った。


講義の合間、彼女は看護学部の友人たちとカフェテリアでワイワイ話している。


「この前の基礎医学、ムズすぎない?」

「まだ筋肉の名前でつまずいてるんだけど〜!」


笑いながらノートを開き、ペンを走らせる。

明るく、強く、少しせっかちで、だけどどこか放っておけない存在感がある。


一方の大野湊は、総合情報学部の2号館の片隅、ひと気のないPCルームでキーボードを叩いていた。タイピングの音だけが規則正しく響く。彼の周囲には誰もいない。

興味があるわけじゃない。けれど、「できる」ことはあった。

プログラムを書いたり、映像をいじったり、ネット上の情報を掘り下げたり。そういうことには手が動く。


ただ、それをどう使って生きていくか——そんなことは、考えたことがなかった。


午後の講義は眠気との戦い。何人か同じ学科の学生と軽く話すこともあるが、誰といても少し距離がある気がしていた。


「まあ、こんなもんだろ」

そうつぶやいて、イヤホンを耳にねじ込む。


愛子は目の前の目標に向かって少しでも前に進もうとする。


湊は静かにその場から一歩引いた場所で、世界をただ眺めている。


けれど、少しずつ。

ほんの少しずつ。

時間が、その距離を詰めはじめていた。


春が終わり、梅雨の気配が近づく頃。新入生の浮き足だった空気も少し落ち着き、講義の課題や実習の予定が、本格的に学生たちの肩にのしかかりはじめていた。


川島愛子は、その日の夕食、インスタントの味噌汁と食パンの耳だけをかじりながらノートをめくっていた。


自炊はまだ不慣れ。近頃はお米の価格も上がるいっぽうでなかなか手が出せない。冷蔵庫には納豆と卵と、いつ買ったかわからない、ほとんど芯だけになったキャベツだけ。


「さすがにヤバいかも……」小さくつぶやいて、ため息をつく。


奨学金と仕送りだけでは、限界がある。参考書代、交通費、たまの外食。どこかで線引きをしないと、すぐに財布の底が見えてしまう。


「バイト、するかぁ……」


愛子はスマホを開き、【鳴神台(なるかみだい)駅 バイト】と検索しはじめた。


同じころ、湊もまた財布の中を覗いていた。小銭と千円札が2枚。コンビニで買ったカップ麺のレシートが一枚、ぐしゃっと折り込まれている。

彼は、奨学金も借りたし、

「まぁ、なんとかなるだろ」と思っていたら、なんともならなかった。

家からの仕送りも最低限。親と距離がある彼には、それ以上を頼める空気もない。

その夜、彼は自分のノートパソコンを開き、『バイト まかない 鳴神台』」とだけ検索した。


ふたりはまだ気づいてはいない。この街のどこかにある、同じ匂いのする暖簾の先が、確実に彼らを導いていた。



駅から徒歩5分、ビルの一階。看板の文字はかすれて薄く年期を感じさせる。ガラガラと開く引き戸の音が耳に残る。


煙草の煙と、油の染み込んだ木の床。客の笑い声と、店主の怒号、ホールの掛け声が入り乱れる、そんな店。

湊は、良さそうな求人をネットで見つけた。

「……居酒屋、か」


正直、接客は苦手意識があった。でも贅沢は言ってられない。『まかない』が出るのが大きい。

パソコンが得意でも、今、飯を食う事が優先だ。「とりあえず電話してみるか……」

迷いはあったが、少し緊張しながらかけた電話の向こうで、声の低い男がこう言った。

「あー、バイト希望?。じゃあ面接、明日の月曜、16時頃に来れる?」



【時給1480円 まかない付き シフト応相談 未経験者大歓迎】


貼り出された求人の貼り紙は、何度も貼り直されたようで、テープの跡がにじんでいた。

愛子は大学帰りに、その貼り紙を見つけた。


「……ここ、いいかも。」


看護学部は忙しい。だけど夕方からならなんとか働けそうだし、なにより『まかない付』という言葉が胃袋に響いた。


店先をのぞくと、金髪の店主らしき男が出てきて、タバコ片手に「バイト希望?一応面接だけ来な。履歴書持って。いつ来れる?」と軽く言った。

その適当さに逆に安心して、愛子は「えと、来週の火曜、17時でいかがでしょうか!」と即答していた。


すれ違うように、ふたりは[とびのや]へ向かう。

扉は同じ。油と煙の匂いも同じ。❘❘けれど、二人はまだ交わらない。



——居酒屋 とびのや——

駅近の雑居ビル一階。漂う油の匂い、店主のタバコの煙、客のざわめき。


「……はい、生ビールです、、、」


湊はすでに働いていた。

面接ってこんなものか?と思うほど簡単に終わり、ほぼ即決で採用が決まった。不安になりながらも翌日から始めてのアルバイト。それでも、少しずつ慣れてきていた。


厨房から飛んでくる罵声にはまだ慣れないが、、、


皿を洗い、オーダーを通し、ビールジョッキを持って小走りでホールを駆け回る。

[とびのや]でのバイトは、想像以上に『体育会系』だった。


店長の坂元 省吾(さかもと しょうご)は、見た目はまるでチンピラ。


金髪の坊主頭にヒゲ、筋肉隆々。

初日に湊は、あまりの威圧感に「この人に怒鳴られたら泣くな」と本気で思った。


だが、働いているうちに少しずつ見えてきた。この人は、筋の通っていないことが大嫌いで、誰よりも真面目に、正直に人と接する。

理不尽に怒ることはなく、ミスをしたときには一緒に理由を考えて解決方法を考えてくれる。


店主だからとさぼることなく、どの従業員よりも動き自ら手本になる。

バイトが風邪をひけば「風邪なんてこれ喰えば1発だ!」とスタミナの付く賄(まかない)を用意してくれる。


「坂元さん……やばい人だと思ってたけど、めちゃくちゃいい人かも……」


湊は、知らないうちに少しだけ背筋が伸びるようになっていた。


そんなある日の夕方。

「湊、ちょっと後たのむわ。新人の面接だ」


坂元の呼び声に、湊は厨房から顔を出す。カウンター席の端に、ひとりの女の子が座っていた。

ショートカットで、小柄で、やけにハキハキとした子。笑顔を絶やさず、真っ直ぐに坂元の目を見て話している。


「看護学部、大変なんじゃない?夜は大丈夫?うちはちょっとハードだけど」

「はい、体力はけっこうある方なんで!」

「じゃ、いけるな。うん、採用で」


え、早くね?俺の時よりさらに早くね??思わず湊は、厨房の奥から顔を覗かせた。


坂元が女の子にだけ妙に優しいのは、バイトの間ではちょっと有名だった。

けれど、あまりの即決に思わず笑ってしまいそうになる。


「とりあえず初日はなるべく暇な平日にするか。来週の月曜は来れる?湊ってやつがホール担当だから、初日はそいつに教えてもらう事になるかな。まあそいつも先週入ったばっかだけど。」

「大丈夫です!よろしくお願いします!」


そう言って、彼女が笑顔で頭を下げた瞬間——

湊は、一瞬だけ、目が合った気がした。


何も感じなかった。ただ、(随分明るいやつが入ってきたな)そんな程度の印象だった。

だけどそれは確かに、始まりだった。この日、この瞬間から、

【二人の世界はゆっくりと重なりはじめた。】

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