第2話 「里田 理恵」

第一章

「里田理恵の時間線」

1999年7の月


その年ノストラダムスは来なかった。

世界は滅亡していない。


この年僕は生れた。

おめでとう、この糞っ垂れた世界とご対面


5歳までは幸せだったと思う。


両親は虚空を見つめながら話す僕を知恵遅れと思ったかしら

存在しないイマジナリーフレンドとお話しているのね

理恵ちゃん可哀そう。


でももう少ししたら理恵ちゃんは普通にお話できると思うの

ママ信じている。


お生憎様

この頃から僕は異常だった。


人の心の声が聞こえた。


それは大半の人間に備わっていない力だった。

ママは比較的「裏と表」に差が出てこない人間だった。


しかし親父は「クズ」だった。

里田健介という名前のクズ

ホモ・サピエンスという種の最大の失敗作

この下衆の少女愛好者の娘というのが僕の最大の汚点だ。


この頃のこいつはまだ社会に適応しており

化けの皮を被っていた。


いいとこの会社にいってたのに

その給料で満足してればいいのに

会社の金をくすねていた。


僕はまだ感情の形成の途中であり

この世の知識を吸収している途中だった。


この害悪が仕事と

競馬とパチンコという浪費で家庭を顧みていないことは

少しだけ幸運だった。


そうでなければ僕はもっと混乱して

まともに人間と会話が成立することはなかっただろう。


やっとまともに喋りだした僕は

遅まきながら

保育園という拷問部屋に放り込まれた。


ママが高いお金を払ってなんで僕を苦しめるのかわからなかった。


今になって振り返ると

30人近い未成熟ガキの思考が頭の中に入ってくるのである。

四六時中頭の中で銅鑼が鳴っているようなものだ。


だからお遊戯と

お歌とお昼寝の時間は天国だった。

みんなの思考が一つになるから

幼稚園児は単純だから

同じ思考になる。

天国だから眠らざるを得なかった。

手かがかからないという事は幼稚園の先生と接触しなくてすむという事だ。

彼女らの赤裸々な性欲を理解できなかったというのも助かった。


だから僕は従順を装った。

泣いて注目を集めることなどもってのほかだ。


僕に転機が訪れたのは七五三の時だった。

僕は赤い晴れ着を着ていた。

多分に漏れずママの自己満足の結露なのだが何も言うまい。

日本の中産階級の豊かさに乾杯!


近所の割と有名な神社だった。

赤い大きな鳥居をくぐる。


柄杓で口と手を水で拭われた。


そして巨大な神木の横を折り過ぎる。


電気が走った。


脳が瞬時に覚醒する。


今まで乱暴にこねられてぐじゃぐじゃだった粘土のような頭の容器が

固まった。


回路が正しく繋がったと言ってもいい。


「神の声を聴いた」

いや陳腐だな・・・


「神の理(ことわり)を理解した」のだ!


神主がもったいぶって繰り返している「祝詞(のりとう)」が耳に心地よい。

神饌・ 幣帛 へいはく を供えて、御神徳に対する 称辞 たたえごと を奏し、新たな 恩頼 みたまのふゆ を祈願する。


おいお前、そこのお前だ。

平安時代の衣装を着ている奴

意味が分かって言っているのか?

暗記した文句を繰り返しているだけだろう。

僕は心地よいぞ。


これすなわち上位精霊を喜ばす詩なり。


僕はそれを反芻し

正しい場所にそれを伝えた。


見返りに僕が何を今しなければならないかを理解した。


家に帰ってから「絵本」をすべて吸収した。

それからガラスケースに納められている「図鑑」を見た。

なるだけ「絵」と「文」が同期していることが望ましい。


7冊みて急いで眠る。


起きた。


いそいで食事を作ってくれとママに要求する。


ここで問題だ・・・

できるだけ幼く

年相応に聞こえるように「お願い」した。


ここで下手を打たなかったことが

里田理恵最大の「僥倖」となった。


お腹がいっぱいになったことを確認して

ママの目を盗んで

残りの図鑑を読破した。


眠い・・・猛烈に眠い・・・

だが次に起きた時に世界が変わる事に

確信があった。


次の朝

大人の考えていることが完璧に理解できた。


僕をどう見ているか・・・

ママ・・・

愛しているよ・・・

無償の愛を感じた。


どれだけ僕を深く愛していてくれているのかを・・・


嬉しくて涙が出た。


しかしその喜びも・・・長くは続かなかった。


そうだ・・・

家の中に猛獣が・・・

怪物がいるのを感じた。


僕がどれだけ震えたのか・・・

恐れ慄(おののい)たのか・・・

君は理解できるかい?


「里田健介」がいるんだ。


娘を性欲の捌け口としか考えていない化け物を認識したんだ!!


そして「それを悟られちゃいけない」!!


僕はこの時から、残りの人生をナイフの上を裸足で歩いていかなければならないことを覚悟した。

ただの七歳で・・・だよ・・・


その絶望を理解できるかい?


人の心を読めるということは

恩恵じゃない。

とんでもない呪いなんだ。


まず親父との入浴は徹底的に避けた。


「りえちゃん、いっしょにお風呂に入ろうか」


「ぎゃゃゃゃゃあぁぁぁぁぁ」


声を限りに泣いた。むずかった。

このため僕は滅多なことでは泣かないのだ。

ママにそれを納得させるのは時間がかかったが成し遂げた。


「りえちゃんは絶対パパとお風呂に入りたくない」という鉄則。


これは僕の最後の砦となった。


幼稚園はキリスト教のミッション系キンダーガーデンにしてもらった。


そうして母親を入信させるために意図的に頑張った。


「ママ、わたし教会に行きたい、行きたい、行きたい!」

「そうなの、園長先生におねがいしようかしら・・・」

「うん、わたし嬉しい!」


そして日曜には付属の教会に通うようになった。

なるだけ日曜日は父親に何処かに誘われるのを避けるためだ。

僕は子供用ではないのだが新約聖書の文庫本を与えられた。

僕は親の目を盗んで食い入るように読破した。

僕がなにかと聖書の言葉を引用するのはこの頃の経験にもとずいている。


とにかく活字に飢えていた。

近くに新聞はあるのだが八歳や九歳の子が熟読する姿は、はなはだ怪しいだろう。


保母さんの部屋にお昼寝の時間にそっと抜け出して入って本を読み漁る。

教育関係の本は難しかったので後回しにした。

僕が一番好きだったのは「官能小説」だ。

初潮を迎えていない僕にとってわからない事柄が多かったが・・・

男女の恋愛の機微は興味深かった。

まさに「大人の世界を垣間見る」ことが「ため」になった。

思考が読めてもそれが何を意味するかわからなければ

経文を読んでいるのと同じだ。


この年にして人間関係の複雑さ、滑稽さにうんざりした。

とにかく表と裏の落差が激しすぎる。


表向きは平等と博愛を歌っているのだが

依怙贔屓、エゴ丸出しは当たり前だ。


可愛いい、従順でおとなしく、自分が好きな子は贔屓する。可愛がる。

不潔な子、粗暴な子、女の子をイジメる男子は影でつねる。

驚いたのはかわいらしい男の子を個室につれていき

胸を揉ませ、オッパイを吸わせて、フェラチオしている保母さんがいたことだ。

流石に自分のアソコをなめさせることはしなかったが・・・

その子は性癖が歪むだろう。


もちろんその保母さんはお気に入りの男の子四人を添い寝させて「お昼寝の時間」

を楽しんでいた。

至福の時間なんだろうな・・・


教会の讃美歌

好きだった。

人間は単純だから、この時だけは、ほぼ全員の精神が一点を向き

「同じ感情」になった。

それは心地よい。

この時だけは自分の呪われた人生に一筋の光が指す瞬間だった。


僕は三時の母親達の「習い事」の時間に興味があって、母親にくっついている状態を普通にした。それが当たり前にした。

家にかえる時間をできるだけ引き延ばす口実ではあるのだが・・・そっと抜け出して・・・


誰もいない礼拝堂でオルガンを弾くのが大好きなのだ。

鍵盤を叩けば正しい音階で音がなる。

それは方程式、限りなく素直で当然、心の赴くままに音を楽しむ。

即興で弾いていた。曲など知らない。知るものか!


パチパチパチ


まずい!知られた!!


固まった。涙が出た。この遊びを取り上げられるのが辛かった。

人生で初めて「理不尽」を感じた。


その人はいつも讃美歌の時オルガンを弾いている70歳の老婆のシスターだった。

「とってもいい音、あなた音楽が好きなの?」


「うん・・・」


僕は下を向いた。その時「心を閉ざした」

自分が他人の心の声を聴かないことができるのが不思議であった。


「もっと弾いてみたい?」

「うん、いいの・・・」

「もちろんよ、じゃあ、おばちゃんが隣に座るから

適当なところで音をちょうだい」

「うん!」

そのシスターとオルガンで「連弾」をした。


何の曲かわからないがシスターの奏でる音に適当に鍵盤を叩いた。


不協和音にならないように

和音になるように


僕はシスターの思考を読まないでやってみた。

ちゃんとできると嬉しい。


出来ないと落ち込む・・・


30分もそれを続けていただろうか・・・


「はい、おしまい」

「えーもっとやっていたいよぉ・・・」

「ごめんね、夕べのお勤めがあるの。

名前は?」

「りえ」

「じゃありえちゃん、今度の日曜日の三時から一時間

ママにことわってここに来なさい」

「え、いいの?」

「おばちゃんも楽しかったから、オルガンの調律は

りえちゃんといっしょにすることにするわ」

「う、うぁぁぁい!」

僕は歓喜した。

人生に目的ができたんだ。


それから日曜日がくることが待ち遠しくて仕方がない。

そのシスター、和田さんは優しかった。


僕は心を閉ざしても和田さんの優しさが伝わることが

鍵盤を弾くより、音楽を楽しむことよりうれしかった。


毎回毎回上達していく。

楽しい!楽しい!楽しい!

ちょっと下手を打ってしまった。

和田さんの旋律に対して

完璧な和音で曲を弾いてしまったのだ。


「りえちゃん・・・ちょっと一人で弾いてみて・・・」


隠しても仕方ない。和田さんにはできるだけ正直でいようとした。

さっきのパートを自分一人で再現してみた。


「わかった、いままで確信がなかったけど・・・

あなた音楽の才能がある!」


僕は複雑だった。

特異で変な子と思われたくなかったのだ。

その表情を読んだのか・・・


和田シスターは僕を優しく抱きしめてくれた。


「こわがることはないのよ・・・これは神様からの贈り物・・・

受け入れましょう」

「神様・・・」

そんな存在は確認したことはなかったが

その方便は都合がよかった。

変なこと、特異なことは神様が起こした「奇跡」そうすればいいのだ。

僕も和田さんをギュっと抱きしめた。


それから和田さんは方針を変えた。

自由奔放に弾かせてくれたりもしたのだが

少しずつ「楽譜」を持ってきて

自分が弾き

僕が楽譜を見て弾くことを強要しだした。


今となっては、それは仕方のないことだと思う。

モーツアルトのピアノの才能を見いだした父親がしたように

自分のもてる技術を若き天才に注ぎ込みたいという義務感

いや欲望、いいたくはないが優越感は抑えきれないのだろう。


それが人生の最後の残り火、終幕を迎えるその時に訪れたのだ。

焦りと詰め込み過ぎなのかという懸念も脇に置くことになったのだ。


僕は少し悲しくなった。

それが決定的になったのは・・・

和田さんを超えてしまった瞬間だった。


弟子が師を超える。

それはある意味当たり前のことだ。

でもそれを師が認め、受け入れるかは・・・その人の資質だ。

残念ながら和田さんにそれはなかった。


僕は幼稚園の卒業の間近には

和田さんのレパートリーを和田さんより上手く弾けてしまった。


もし楽譜を手に入れることができれば

ショパンのノクターンだって弾けるかもしれない。


そしてある計画を実行する。


僕は教会の図書室に忍び込んだ。

そもそも鍵がかかっていないし、訪れる人もいないのだろう。

目当ての本は見つかった。

それも図解つきで助かった。

それが教会の菜園の隣で咲いていたのも運命を感じた。


その頃は聖餐式にも出ていた。

幼くして洗礼も受けていたのだ。

親父は反対したがママの熱意を受けて渋々承諾したらしい。


「このパンは肉、この葡萄酒は血である」

神父様が祭事を執り行う。


僕はオルガン席の和田さんにパンと小さな紙コップのブドウジュース

を銀の皿にのせて運んだ。


「ありがとう」

それが和田さんの僕にかけてくれた最後の言葉だった。


和田さんは最後のミサの演奏を終えて・・・倒れた。


その死に顔は安らかだった。


和田さんが神に召されたのか祈るしかない。

これが僕が最初に行った「殺人」だ。

罪の意識・・・

ないね。

僕は和田さんが一番輝いた日に贈ったんだ。

あのままもっと年老いて手足がきかなくなって病院で寝たきりに

なって子供たちから疎まれる人生が続いたとしても・・・

何も嬉しいことはなかったろう。


救急車がきて和田さんが運び出されたが

解剖はされなかったらしい。

事件性はなかったし老衰と診断された。


二日後、和田さんの葬式が盛大に行われた。

歌われた讃美歌・クワイヤは今でも反芻する。

そこでピアノを弾いた女性と僕の運命は交わるのだが

それはまだ別の話。


和田さんが埋葬される棺桶に僕は花を投げ入れた。


その夜、僕は誰もいない教会に忍び込み、誰もいないことを確認して

和田さんのためだけに「レクイエム」を演奏した。


僕はもうすぐ卒園する。

この教会に行く理由もなくなる。

最後の週は教会の蔵書を読みつくした。

そして出た結論は


神はいない。

したがって最後の審判もない。

天国も地獄もないから

罪を犯すか犯さないかはその人間の気分しだいだ。


しかし超常現象、上位霊の存在は否定できない。

つまりは奢り高ぶるな・・・常に自分より上手の存在がいる事に

気をつけろだ。

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