三 白亜の洋館
白鷺院家の本拠は、
人でごった返した列車から吐き出された晞子は、深景とともに駅舎に降り立った。晞子は芸もなくいつもより格式高いくらいの桜色の訪問着だが、今日の深景は洋装姿だ。
「すごい人ね」
まだ日が翳ると肌寒い季節なのに、駅舎内は人という人でむっとした熱気が渦巻いている。
「……治癒の力を求める連中でしょうね」
深景の言うとおり、二人連れや三人連れで病人や怪我人を連れているふうの人たちの姿が目立つ。彼らの目的地は、晞子たちと同じだろう。
一昨日、清久に手紙を出した晞子は、二つ返事で快諾をもらい、今日の白鷺院家本邸での面会を取りつけた。名目は、先日贈られた結婚祝いの礼である。しかし。
「……べつに、あなたまで来る必要はなかったのに」
「つれないことをおっしゃる。いつぞやは、一緒にきて、と素直に甘えてくださったのに」
ひそやかな声とともに、前屈みになって目を覗き込まれる。晞子は顔から火が出るかと思った。
「今なら、常葉がついてきてくれるもの」
つとめて素っ気なく言って、足を速める。
その常葉は、今日は朱鷺と一緒に鴇坂邸で留守を守ってくれている。
とはいえ正直なところ、深景がついてきてくれてよかった。護衛任務は必要ないという話に口では了承していたものの、いざとなれば常葉は己のことを顧みない気がする。その点、深景ならまかり間違っても晞子を庇ったりしなさそうなので、気が楽だ。
「それにどこの世に、妻に横恋慕している男のもとへ、喜んで妻を送り出す夫がいるんです?」深景は苦もなく追いついてきて、どこか拗ねたように目を伏せる。「不安に駆られた男心を、ちっとも分かってくださらない」
彼の芝居の達者さは今に始まったことではないが、晞子は飽きずに感心した。その気もないのに、よくもまあ次から次へと軽薄な嘘を吐き出せるものだ。
「ご夫人たちに囲われていたあなたに不貞を咎められるとは、世も末ね」
晞子は呆れて停車場を出ると、あらかじめ常葉が手配してくれていた馬車のほうに向かって歩き出した。
馬車に揺られて瀟洒な邸宅の並ぶ坂道をのぼりしばらく行くと、立派な塀沿いに長蛇の列をつくる人たちが見えてきた。
不意に甘ったるい強いにおいが香った気がして、晞子は視線をそちらに走らせる。
門扉を挟んで人々の並ぶ列と反対側の塀沿いにも、数えきれないほどの人の姿があった。列に並ぶ人たちとちがうのは、その誰もが白い装束を纏っているということだ。死装束のようでぞっとしたが、なんのことはない。彼らはどうやら、白鷺院家の象徴たる白を身につけているようだった。
その手には、温室で育てられたのか季節外れの白百合の花がある。先ほどのにおいのもとはこれだろう。白百合といえば、鴇坂の桜に相当する白鷺院家の花だ。
彼らは、その場で両手を合わせて塀の向こうを拝んだり、その場に額づいてぶつぶつとなにやら祈りの言葉を唱えている。古賀が言うところの
「話には聞いていたけれど……」
晞子は呆気に取られた。
同じ
「かつては、五匣家を従える帝が神のように崇められていたという話ですが、近頃はこのとおりみたいですね」
そう言う深景の横顔に驚きはない。
どうやらこの光景をはじめて目の当たりにしたわけではなさそうだ。先日の古賀来訪時に少々強引に白鷺院の関与に話を誘導したことといい、どうも彼は前々からこの家のことを少なからず知っていた節がある。
「……あなたも来たことがあるの? 玉匣で病や怪我を治してもらったとか?」
「まさか」深景は一笑に付した。「前科者の貧民窟出がおそれおおいことですよ」
「でも、白鷺院は身分や財産で玉匣を行使する相手を選んだりはしてないって聞いたわ」
玉匣による治癒の謝礼は、額が決まっていないという。だから貧しい者であれば、ただ同然で診てもらえるという話だった。たとえもし貧民窟出が相手でも、白鷺院は取り合うだろう。だからこそ、これほどまでに民衆から支持されるようになったのだから。
「考えてもみてください。いくらほかの匣とちがって代償がなく力を使いやすいという触れ込みとはいえ、これほどの人数を捌ききれると思います?」
そう言って、深景は馬車の狭い窓からではとても端から端まで見渡せない人の列に顎を向ける。
晞子は目をまたたいた。他家の事情はよく分からないが、たしかに鴇坂のように一族の血を流さないとはいえ、
「今日玉匣の力で治癒してもらえるのは、先頭のほうのごく一部だと思いますよ。――
「……百合符?」
「白鷺院の血族がとくべつな相手に渡すという、優先して玉匣の力を享受できる、手形のようなものです。まあ、滅多にもらえないという話ですが」
「詳しいのね」
探るように深景を見やれば、彼はなんてことのない様子で肩を竦める。
「市井にいれば、おのずと耳に入ってくる話ですよ」
そういうものだろうか。世間知らずの自覚があるので判断がつかないが、それにしたって深景は鴇坂を含む五匣家の内情に精通しすぎている気がする。
門扉の前で馬車を降りて、門番に名を告げる。大勢の人々をさしおき、晞子と深景はすぐに門の向こうに通された。そのまま本邸まで馬車に乗っていっていいと言われたが、その場で馬車を降りて徒歩で進むことにする。
すぐに目に飛び込んできたのは、広大な洋風の庭園だ。
あまり馴染みのない洋風の白い花が、幾何学模様に生垣の刈り込まれた花壇に咲き誇っている。まだ咲き初めだが、鈴蘭や薔薇は晞子にも分かった。初夏になればきっと、白百合の花が辺りを埋め尽くすのだろう。
庭園を抜けると、右手になんとも厳かで立派な和風建築が見えてくる。というよりもこれはもう、ほとんど神社建築だろう。丹塗りではなく白を基調としているが、本殿までのあいだに鳥居や楼門まで聳え立っている。
「こちらが和館。治癒の儀式はこちらで行われます」
案内役の男性が、親切に説明してくれる。
「じゃあ、あの奥にあるのが……」
晞子は正面に構える、威風堂々とした白一色の洋館を仰ぐ。高さのある石造りの玄関ポーチには古代西欧の神殿建築風の列柱が並び、白タイル貼りの外壁は雪のように透きとおってうつくしい。
西洋の御伽噺の登場人物でも飛び出してきそうな玄関を眺めていると、花の香が鼻腔をくすぐった。おそらく百合だが、先ほど嗅いだものよりもずっとねっとりとして濃厚で、それでいてきよらかな香りがする。
不意に髪をやわらかな感触がかすめて、顔を上げる。ひらり、ゆらりと真白のなにかが目の前を落下していって、晞子は思わず目を瞠った。
心臓がどくん、と大きな音を立てる。
――それはまるで、姉が死んだ日に降っていた雪片のようで。
けれど視線を落とせば、地面に落ちていたのはただの百合の花びらだった。
花びらは舞うように、誘うように足元を白く染めていく。見上げると、二階のバルコニーに見知った人影があった。
「遠いところを、ようこそおいでくださいました。どうぞ応接室までお越しください」
果敢なくとけてしまいそうな甘い声で、百合の花束を抱えた清久が微笑む。
晞子がぎこちなく会釈をすれば、案内役が下がって、間もなく内側から扉がひらいた。鴇坂の家とは比べ物にならない数の使用人が出迎えてくれる。
晞子はそのまま玄関に向かおうとしたが、そっと腕を後ろに引かれてたたらを踏んだ。
「なに?」
振り向けば案の定、深景が晞子の腕を掴んでいる。
「いえ、ちょっと」
深景はそう言うと、晞子の肩の辺りを払った。
ひらり、と百合の花が地面に舞い落ちる。どうやら肩に花びらがくっついていたようだ。偶然かそれとも故意か、深景は靴先で花びらを踏みしめる。
べつに、汚いものでもあるまいに。
晞子は気を取り直すと、洋館に足を踏み入れた。
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