紅匣婚姻譚
雨谷結子
第一章 徒桜の契り
一 初花の品定め
喪が明けたその日。奇しくも、庭の桜の硬く膨れていた蕾がほころんだ。咲き初めである。その淡い紅を睨みつけて、
(――姉さま)
私は決して、あなたのようにはならない、と。
*
表座敷の下座には、ずらりと男という男が並んでいた。
「だめね」
目の前に積み上がった釣書をちらとも見ずに、晞子は冷ややかに言ってのける。
尊大に上座から見据えた先にいるのは、一回りほど年上の男。その細身で小柄な身体には、立派すぎるほど立派な黒羽二重五つ紋付を纏っている。
まあ、着こなしているというより
どこぞの商家を追い出された放蕩息子、という見立てはどうやら間違いではなかったようで、男は半泣きになって屋敷を出て行く。
「だめ」
日雇い労働者。
「あなたもだめ」
木賃宿暮らし。
「全然だめ」
饐えたにおいのする、垢まみれの男。
そうして十人の男全員に駄目出しを喰らわせると、晞子は次の間に控えた十人を入れ替えで呼び出した。
晞子と男たちのほかに、人の姿はない。
男女七歳にして席を同じゅうせず、を範とする時代。晞子はこれでも、名家中の名家で蝶よ花よと育てられたうら若き十八の乙女である。しかしそんな品位に欠けた行動を咎める者は、この場にはいない。なにせ、晞子はもはやこの無駄に広大な屋敷にひとりきり。今は婿選びの真っ最中である。
男たちの身分や職業は様々だ。確かなのは、釣り合いの取れる家格の貴人も、羽振りのよさそうな鉄成金も船成金もどこをどう見渡してもいない、ということ。本来ならば、この
数分と経たずにバツを喰らって鴨居をくぐっていく男たちの間から、実はこれは婿選びを謳った、暇を持て余したお嬢さまの貧乏人をこけにして嘲笑う遊びなのでは、という空気が漂ってくる。
そうであったなら、どれほどよかっただろう。
唇を歪めたとき、新たな十人が入ってきた。どうやら最後の組のようだ。
そのうちのひとりに目が行った。
それまで出入りしていた男たちとは、立ち居振る舞いからしてまるでちがう。
敷居や畳の縁や座布団を足裏でずかずか踏まない所作も、一朝一夕で身につけたという感じではない。彼がどこぞの華族や財閥の跡取り息子と言われたならば、一体誰がそれを疑うだろう。
要するに、彼はこの掃きだめに現れた鶴だった。
彼の前では、由緒正しいこの屋敷もどこか霞んで見える。
御一新後、新たな首都となった
「あなた、残って」
その声に、他の男たちから、結局顔かという文句とも揶揄ともつかない視線が投げられる。
記者が潜り込んでいたから、明日か明後日の小新聞にはきっと、『鴇坂家御令嬢 男漁り一部始終』などという扇情的な見出しをつけて市井にばら撒かれるにちがいない。
ざわめきが次第に遠ざかっていき、室内は静けさに包まれる。晞子は隣に置いた半端にひらいたトランクの中身にさりげなく手をやって、それからすぐ脇の漆塗りの文台に目をやった。その上には紅に妖しく艶めく化粧道具を入れておくような大きさの箱がある。中心には、金粉を蒔いて家紋である桜紋が描かれていた。
鴇坂家に代々受け継がれる、代償を払う代わりに願いを叶える家宝。より的確に言うならば、鴇坂の血を捧げる代わりに誰かを殺める力をもたらす、忌まれし呪物。
その力の行使は、ひとりにつき五度まで。五度を超えれば、紅匣は行使者のすべての血を――すなわち命を喰らう。勅命に従いこの紅匣の力を行使し、後世に守り継ぐのが鴇坂家が帝より与えられた役目だった。
それゆえに、呪われたこの家に婿に入ろうなどという奇特な輩は、少なくとも華族や成金のなかにはほとんどいない。一見どこぞの御曹司にしか見えない彼も、例外ではないはずだった。
「――あなた」
「
「ええ、そう書いてあるわね。あなたの提出してくれた釣書には」
含みのある言い方にも、自称・鮫谷千尋は完璧な微笑を崩さない。
「はは、参りましたね。ひょっとして、僕のことが気になって仕方がなくて、色々調べてくれました?」
ふざけた物言いに、晞子は眉を顰める。男は自身の胸に手をやった。
「改めまして。
「ええ、存じているわ。その歳で前科六犯。窃盗、詐欺、恐喝、傷害、文書偽造、住居侵入で警察のお世話になったとか。立件されていないものも含めれば、両手両足の指では数えきれないくらい。幼い頃には
深景はほんの少し眉を上げたが、まるで動じた様子はない。
「昔のことです。言い訳でしかありませんが――幼い頃に天涯孤独の身になり、貧民窟で生きるにはそうするしか生きるすべがなかったのです」
深景は目を伏せる。長い睫に縁どられた眸が、どこか痛みをこらえるように憂いを帯びた。
晞子は喝采を送りたくなる。大した役者だ。
「ですが、今では心を入れ替えました。こんな身の上ですが、子どもの時分に離れ離れになった家族のことをまだ忘れられずにいます。もう一度、家族を得たい。今度こそ家族を守り通したい。それがあなたのようにうつくしい方ならば天にも昇る心地だろうと、今日は恥を忍んで馳せ参じたのです」
黒玉めいた艶やかな闇色の眸に熱を込めて、深景は晞子を見つめる。
たしかにこの一、二年は警察の世話になったという話は聞かない。つまり犯罪に手を染める代わりに、なにか食い扶持を得たということだ。
「ええ。心を入れ替えた、もといやり口を変えたのも存じています。お手並みを間近で拝見できて、光栄だわ」
深景はいささか怪訝そうな顔をした。晞子は笑みを深める。
「近頃はご婦人方の若い燕として、方々を飛び回っているとか。要するに、
これにはさすがに深景もいくらか顔色を変えた。しかしすぐに、その唇には甘やかな微笑が浮かぶ。
「いいえ、お見それしました」
「そう。私のような世間知らずの小娘は、さぞやたわいなく思えたでしょうね?」
「それでも俺を残してくださった」いけしゃあしゃあと一人称を僕から俺に変えて。「あなた好みだったのは、どこでしょう。やっぱり顔かな」
もちろん晞子好みだったのは、女をたぶらかすのにお誂え向きの甘ったるいキャラメルじみた顔などではない。顔など皮一枚剥がせば皆同じだ。
紅匣に視線を落とす。
この忌まわしき呪物は、世間一般には鴇坂家の血族しか、代償を払えないと思われている。実際晞子の血族は皆、代償を払ったがために死んだが、婿や嫁はほとんどがただの自然死だ。けれど実は、やり方次第で婿や嫁にもその呪われた命運を背負わせることができる。晞子は自身の婿となる男に、その代償を払わせるつもりだった。
だから晞子は、
先ほどの商家の放蕩息子は、鴇坂の婿になって実家にせめてもの恩返しをする気だった。日雇い労働者は病気の弟のために。木賃宿暮らしの男は身体を壊して喰うに喰いかねて。垢まみれの男は、軒下で風雨を凌いでいるくせに、そのへんの死にかけた野良猫を一晩中あたためて少ない食糧を半分こにする始末だった。とても死んでいいとは思えない。
(――もっとも)
そんな本音は、この軽薄で胡散臭い大ほら吹きの女たらしなんかに話してやるつもりはなかったが。
「あなた、随分と女に従順だそうね」
「ええ、それはもう。ですが、あなたとお近づきになれるのならばもちろん、他の女性とは手を切ります」
「べつに結構よ。私が興味があるのは、あなたが私に従順であるかいなかだけ」
「どんな良妻賢母よりも、模範的な婿となってみせますよ」
その答えに鼻を鳴らして、晞子は立ち上がった。
愛想笑いのひとつもせずに、男を見下ろす。
「――だったら、結婚しましょう。家族だとか守るだとか、そんな御託は結構よ。あなたはただ、私に従う鴇坂の婿でさえあればいい。そうしたら、何不自由ない暮らしを約束してあげる」
いけ好かない、胡散臭い危険な男。ひとたび気を抜けば、その瞬間に蛇に囚われた兎のように絞め殺されるにちがいない。
それでも。
(……私は、)
この男を、婿にする。
誓いのような思いを胸に秘めれば、薄紅の花びらがひとひら舞い落ちる幻影が見えた気がした。
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