第二章:影踏み鬼ごっこ

キイの警告とほぼ同時に、屋上へと続く唯一の階段から、ぬらりとした影が伸びてきた。影は二つ。緩慢な動きで、しかし確かなプレッシャーを伴って、二人の男が姿を現す。揃いのくすんだ作業服に身を包み、顔は目深にかぶったフードで判然としない。だが、その手には、鈍い光を放つ警棒のようなものが見えた。明らかに、友好的な訪問者ではない。


「……チッ、面倒なのが湧いてきたな」

キイは舌打ちし、タブレットを腰のホルダーに素早く収めた。その動きに無駄はない。視線は男たちに固定されたまま、状況を分析している。逃走経路は、先ほどナナが鳥の骸を投げ捨てたフェンスの破れ目か、あるいは反対側の、さらに危険な足場しかない外壁か。


「あら、お客さん? こんな寂れた場所に、何の御用かしら」

ナナは、怯むどころか、むしろ面白そうに目を細めて男たちを見上げた。その声は、ハスキーでありながらどこか媚を含んだような、奇妙な響きを持っていた。 一歩前に出て、まるで舞台女優のように軽くお辞儀までする。


男たちは無言のまま、じりじりと距離を詰めてくる。その動きは訓練されている者のそれだった。獲物を追い詰める狩人のような、冷徹な効率性。


「キイ、あの人たち、あたしたちを『お持ち帰り』しに来たみたいよ。目は口ほどに物を言う、ってね」

ナナは囁くように言ったが、その声は不気味なほど屋上に響いた。 子供特有の高い声ではなく、少し嗄れた、それでいて妙に通る声だ。



「『回収屋』か……。こんな辺鄙な場所までご苦労なことだ」

キイが低い声で応じる。その言葉には、わずかな嘲りが含まれていた。


フードの男の一人が、そこで初めて口を開いた。その声は、機械を通したように無機質だった。

「対象『アルファ』及び『デルタ』。確保の指示が出ている。抵抗は無意味だ」


『アルファ』がキイで、『デルタ』がナナ。機構内部での識別コードだ。この男たちも、おそらく『機構』の息がかかっているか、あるいは同業者か、もしくはもっと厄介な敵対組織か。


「無意味かどうかは、試してみないと分からないんじゃないかしら?」

ナナが、愛くるしい笑顔を浮かべて小首を傾げる。 「ねえ、おじさんたち、鬼ごっこは好き? あたし、足、速いんだよ」


次の瞬間、ナナは猫のように身を翻し、キイが予測していたフェンスの破れ目とは逆方向、屋上の給水タンクの影へと駆け出した。その動きは、子供とは思えないほど俊敏だった。


「小賢しいガキが!」

男の一人が吐き捨て、警棒を構えて後を追おうとする。もう一人は、冷静にキイの動きを牽制していた。


「お前の相手はこっちだろ」

キイは、男の注意がナナに逸れた一瞬を見逃さなかった。足元に転がっていた錆びた鉄パイプを蹴り上げ、それを掴むと同時に男の警棒目掛けて打ち込む。甲高い金属音が響き渡り、火花が散った。キイの動きは、派手さはないが、最短距離で最大の効果を狙う、洗練されたものだった。しかし、相手もプロだ。キイの一撃を警棒で受け止め、即座に反撃を繰り出してくる。


キイは体格では不利だ。まともに打ち合えば、じきに押し切られるだろう。彼女の戦い方は、力でねじ伏せるのではなく、相手の隙を突き、状況をコントロールすることにある。


給水タンクの影から、ナナの歌うような声が聞こえてきた。

「♪ かごめかごめ、カゴの中の鳥は、いついつ出やる。夜明けの晩に、鶴と亀が滑った。うしろの正面、だぁれ? ♪」

その不気味な歌声は、男たちの集中をわずかに乱した。子供の無邪気さと狂気が混ざり合ったような歌声は、この殺伐とした状況において、異質な楔のように打ち込まれる。


キイは、その一瞬の隙を逃さなかった。男の体勢が崩れたところを狙い、足払いをかける。男はバランスを失い、地面に手をついた。


「ナナ、そっちは任せた!」

キイは叫ぶと、もう一人の男がナナを追って行った方向へと駆け出した。ナナを囮にしたわけではない。あの子は、ああ見えても、自分の身くらい自分で守れる――あるいは、そう信じるしかなかった。そして、ナナの予測不能な行動は、時にキイすら驚くような局面を作り出すことがある。


錆びたパイプや打ち捨てられたドラム缶が障害物のように転がる屋上を、キイは疾走する。背後からは、体勢を立て直した男の怒声が聞こえてくる。


「あははっ! こっちよ、お馬鹿さん!」

ナナの声が、今度は給水タンクの向こう側、屋上の縁に近い場所から聞こえた。その声は、まるで死神が手招きしているかのように、軽やかで、そして残酷な響きを帯びていた。


キイが駆けつけると、ナナはフェンスの途切れた、数メートル下まで何もない危険な場所に立っていた。片足で器用にバランスを取り、追ってきた男を挑発するように手招きしている。


「おいでよ。ここから見る景色、最高だよ? 一緒に『どっぼーん』する?」

男は、さすがにその危険な場所までは踏み込めず、苦々しげにナナを睨みつけている。


「このクソガキ……!」

「あら、口が悪いのね。そういう大人は、嫌われちゃうわよ?」

ナナは、けらけらと笑いながら、ひらりと身をかわして安全な場所へと戻った。その動きは、まるで重力を感じさせないかのようだった。


その時、キイの背後から、もう一人の男が迫っていた。

「終わりだ、『アルファ』」


キイは振り返りざま、手にしていた鉄パイプを投げつける。それは陽動だ。本命は、男が鉄パイプを避けた瞬間に懐に飛び込み、その装備の隙間、おそらく通信機か何かの制御盤があるであろう箇所を狙った一点集中攻撃。しかし、男は鉄パイプを叩き落とすのではなく、最小限の動きでそれを避け、的確にキイの肩を掴んできた。


「!」

鋭い痛みが走り、キイは顔を歪めた。男の握力は異常に強い。


「残念だったな。お前たちの『遊び』は、もうおしまいだ」

男のフードの奥で、目が冷たく光った。


その時だった。

「きゃははははははっ!」

ナナの甲高い笑い声が響き渡った。それは、楽しんでいるというよりも、何かが壊れてしまったかのような、ヒステリックな響きだった。


男たちが、思わずナナの方を見る。

ナナは、どこから取り出したのか、古びた信号拳銃を空に向けて構えていた。そして、躊躇なく引き金を引く。


パンッ! という乾いた発射音と共に、赤い光弾が空に打ち上げられ、尾を引いて消えた。それは、この廃墟ではあまりにも目立つ狼煙だった。


「……何てことを……!」

キイを捕らえていた男が、忌々しげに呟いた。あれは、ここに他の「何か」を引き寄せる合図だ。それが味方である保証はどこにもない。むしろ、この状況では、さらなる混乱と危険を招くだけの行為かもしれない。


ナナは、信号拳銃を放り投げると、満足そうに手を叩いた。

「さあ、これで役者が揃ったかな? 鬼ごっこは、人数が多い方が楽しいものね!」

その顔には、純粋な狂気と、これから始まるであろう混沌への期待がないまぜになったような、歪んだ笑みが浮かんでいた。


錆色のパノラマに、新たな影が蠢き始める気配が満ちていた。

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