デルタ・シンドローム:アルファ最後の賭け
kareakarie
第一章:錆色のパノラマ
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※本作のすべての場面は屋内で展開しています(本文中では明記されません)。
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錆びた鉄骨が空に向かって歪な幾何学模様を描き、かつて鮮やかだったであろう塗装は煤けた赤茶色と化して剥落しかけている。ここは、「パノラマ・コースト」と呼ばれていた大型複合施設の屋上だった。眼下に広がるのは、灰色と白茶けた建物がひしめく都市。その間を縫うように走る高架橋も、今は廃線となり、鳥たちの格好の休憩場所と化している。遠くには、入道雲のような、しかしそれよりもっと不吉な色の煙が、まるで空に染みを作ったかのように停滞していた。
「ねえ、キイ」
フェンスの破れ目から身を乗り出し、真下を覗き込んでいた少女――ナナが、ややハスキーな、それでいて妙に甘ったるい声で呼びかけた。 歳は七つか八つといったところだが、その声色と、時折見せる大人びた表情は、実年齢以上の何かを感じさせる。陽の光を浴びて白っぽく見える髪が、風にあそばれていた。
「何?」
キイは、壁にもたれたまま、手にしたタブレットから視線を上げずに短く応じた。彼女の声は低く、抑揚に乏しい。ナナの無邪気な(あるいは無邪気を装った)問いかけは日常茶飯事で、いちいち真面目に取り合うだけ無駄だと学習していた。
「あそこ、昔は『夢の滑り台』だったんだって。おっきなプールに、どっぼーんって。楽しそうだよねえ」
ナナは、今はもう残骸としか言いようのない、歪んだ鉄板の塊を指差す。その目は、本当に楽しそうに細められていた。
「そう」
キイの関心は、タブレットに表示された熱源反応の分布図に注がれている。この廃墟に潜む「何か」の気配。それが今日の彼女たちの「仕事」だった。
「でもさあ、あんな高いところから落ちたら、ぺっちゃんこになっちゃうよね。スイカみたいに、ぐっちゃあ、って。それはそれで、見てみたいかも」
ナナは無邪気に笑う。その言葉の残酷さと裏腹に、顔立ちは人形のように整っている。長い睫毛に縁取られた大きな瞳は、今は赤い夕陽を映してきらきらと輝いていた。
キイは僅かに眉をひそめたが、何も言わなかった。ナナのこういうところには慣れている。純粋であるが故の残酷さ、とでも言うのだろうか。 いや、もっと計算された何かかもしれない。この子供は、時折、キイの感情の境界線を試すように、わざと棘のある言葉を投げてくる。
「キイはさ、そういうの、好き?」
「何が」
「血とか、そういうの。ほら、キイの仕事って、そういうのが多いんでしょ? 『清掃』って言ってるけどさ」
ナナはくるりと振り返り、キイの足元にちょこんと座り込んだ。そして、下から覗き込むようにキイの顔を見つめる。その瞳の奥には、子供らしからぬ探るような光が宿っていた。
「感傷に浸る趣味はない」
キイは短く答えると、再びタブレットに視線を落とす。ナナの挑発に乗るつもりはなかった。
「ふうん。つまんないの」
ナナは唇を尖らせたが、すぐにまた別の興味を見つけたように立ち上がった。今度は、屋上の隅に打ち捨てられた、錆びた鳥かごに近づいていく。中には、もう何年も前に命を終えたであろう小鳥の骸が、かろうじて形を保っていた。
「ねえ、この子、寂しかったのかなあ。ずっとこんな狭いところに閉じ込められて。誰も助けに来てくれないって、わかってたのかなあ」
その声には、先程までの無邪気さとは違う、どこか冷え冷えとした響きが混じっていた。
キイはタブレットから顔を上げ、ナナの後ろ姿を見つめた。この少女は、時折、ぞっとするほど物事の本質を捉えたようなことを言う。 そして、その言葉は、なぜかキイ自身の心の奥底に眠る何かを揺さぶるのだ。それは、共感とは程遠い、もっと原始的で、名付けようのない感覚だった。
「『機構』の連中は、こういう感傷を『ノイズ』と呼ぶ」
唐突にキイが口を開いた。
ナナはゆっくりと振り返り、小首を傾げた。
「『機構』? ああ、キイがいつも難しい顔して報告書書いてる、あのヒトたちのこと?」
「彼らにとって、感情は非効率なバグでしかない。目的遂行の邪魔になるものは、全て排除すべき対象だ」
「へえ。じゃあ、キイもあたしのこと、いつか『排除』するの?」
ナナは、楽しそうに、しかしどこか挑戦的な笑みを浮かべて問いかけた。 その言葉には、微塵の恐れも感じられない。むしろ、キイの反応を試しているかのようだ。
「さあな。それは、お前が役に立つかどうか次第だ」
キイは、敢えて冷たく言い放った。それが、この奇妙な共生関係を続ける上での、暗黙のルールのようなものだった。互いに深入りせず、利用価値があるうちはそばにいる。それだけのことだ。
「そっか。じゃあ、頑張って役に立たないとね」
ナナはそう言うと、また鳥かごに視線を戻した。そして、何かを思いついたように、その小さな骸をそっと手で包み込むと、フェンスの破れ目から、夕焼けに染まる都市へと放り投げた。鳥の骸は、力なく風に乗り、やがてアスファルトの海へと消えていった。
「これで、あの子も自由になれたかな」
ナナは満足そうに呟いた。その横顔は、夕陽の逆光の中で、まるで聖母のように穏やかに見えた。しかし、キイはその笑顔の裏に潜む、底なしの空虚と、それ故の危うさを感じ取っていた。
キイは再びタブレットに目を落とす。熱源反応が、すぐ近くで動きを止めていた。
「来るぞ」
その一言で、ナナの表情から子供っぽさが消え、代わりに鋭い光が宿った。
錆びたパノラマが広がる屋上に、冷たい風が吹き抜ける。それは、これから始まる長い夜の、ほんの序章に過ぎなかった。
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