第一部 レジスタンスとメテオヘッド

第一話:捨てられた者たち

 

 ジットリとした金属の感触が、首筋にまとわりつく。

 夢うつつだった意識が、その不快感で強制的に覚醒させられた。

 また、朝が来た。

 

 いや、ここ《第零区画》に本当の朝なんてものは存在しない。あるのは、薄汚れた蛍光灯が二十四時間照らし続ける、鉄と油と埃の臭いが染みついた閉鎖空間だけだ。


 俺、日下部くさかべレンは、骨がきしむ硬い簡易ベッドから無言で身を起こす。

 

 首に嵌められた「それ」――奴隷の首輪スレイブカラー――の冷たさが、今日も俺が家畜以下の存在であることを教えてくれる。

 この首輪がある限り、俺たちはジオテック社に逆らうことも、ここから逃げ出すことも許されない。


 視線を上げれば、同じように起きだした他の労働者たちの姿が見える。皆、一様に死んだ魚のような目をしていた。俺だって、きっと同じ顔をしているのだろう。


 十五歳。世間一般なら、まだ夢や希望を語ることを許される年齢のはずだ。だが、ここにいる俺たちにはそんなもの許されていない。


 のろのろと配給口へ向かい、今日の「食事」を受け取る。チューブに入った灰色の栄養ペースト。味なんてものは存在しない。ただ、生命を維持するためだけのエネルギー源だ。

 

「またコレかよ……」

「これっぽっちじゃ、今日のノルマもきついぜ……」

 

 誰かが不満を漏らすが、看守の姿はない。この時間帯の看守は、俺たちを叩き起こした後は詰所で惰眠を貪っているのが常だ。だが、首輪がある。それだけで十分な威圧だった。


 俺は黙ってペーストを喉に流し込む。味気ないそれが食道を通っていく感覚だけが、妙にリアルだった。

 壁には、色褪せたジオテック社のプロパガンダ・ポスターが貼られている。

 

『豊かな未来を、ジオテックと共に!』

『ビッグファーザーがあなたを見ている』

 

 最新鋭の煌びやかなアイテムを身に纏ったS級ハンターが、獰猛なモンスターを一蹴している勇姿。

 

 その下には、小さな文字で


「ジオテックは、安全なダンジョン管理とアイテム供給により、市民生活の向上に貢献します」


 とある。

 

 ちゃんちゃらおかしい。

 その「豊かな未来」とやらのために、俺たちはこうして使い潰されているというのに。


「D-78番グループ、出頭準備! 本日の採掘ポイントは第7廃坑道・区画Dだ!」

 

 スピーカーから響く、抑揚のない合成音声。今日もまた、地獄の肉体労働が始まる。


 薄暗い地下通路を、同じD-78番グループの仲間たちと列をなして歩く。俺たちの両脇には、二足歩行型の警備ロボットが一定間隔で配置され、その多関節アームに装着された電磁警棒が鈍い光を放っていた。

 

 通路の壁には、時折ホログラム広告が投影されている。ネオトーキョーのきらびやかな街並み、新発売のアイテムを手に微笑む着飾った人々、そして、ジオテック・コーポレーションの若き社長にして現役最強のS級ハンターでもあるという男――戒葉ジオの精悍な顔が大写しになることもあった。


『諸君の勤勉な労働が、ネオトーキョーの輝かしい繁栄を支えている! ジオテックは、諸君の貢献に感謝する!』

 

 感謝、ね。

 俺は思わず、乾いた笑いを浮かべそうになるのを必死でこらえた。



 ◆

 

 

 一年前までの俺は、あのホログラムの向こう側にいた。

 

 父さんと二人、ネオトーキョーの企業研究区画の隅っこにある小さな社宅で、それなりに幸せに暮らしていた。ジオテックの研究員だった父さんは、いつも忙しそうだったけど、優しかった。

 

『レン、アイテムは確かに強力だ。だが、それだけが全てじゃない。人の知恵や経験、そして諦めない心が、時にアイテム以上の力を生み出すんだ』

 

 父さんの口癖だった。アイテム至上主義が支配するこの世界で、そんな父さんの研究は異端だったのかもしれない。

 アイテムに頼らずとも、人が成長できる方法――そんなものを研究していた父さんは、ある日突然、「事故死」したと会社から告げられた。

 

 そして、保護者を失った俺は、十五歳の誕生日を迎えると同時に、ジオテックの鑑定施設へと送られた――。

 

『スキル鑑定結果――エラー。適合スキル、検出限界以下。判定――無能』

 

 無機質な機械音声が、俺の運命を決定づけた。

 父さんの「異端な研究」と、俺の「無能」という判定。それがどう繋がったのか、俺にはわからない。ただ、気づけば俺は、この《第零区画》で、名前ではなく管理番号で呼ばれる存在になっていた。



 ◆

 


 ダンジョン入口前で、今日の「装備」が配られる。刃こぼれしたツルハシ、いつ壊れてもおかしくないヘッドライト、そして申し訳程度の防塵マスク。これが、反乱を恐れるジオテックが俺たちD級ハンターに与える標準装備だった。

 

「よっしゃ、レン! 今日こそ規定量の倍掘って、あのクソまずいペーストじゃなくて、売店の合成肉バーガーを買ってやろうぜ!」

 

 声をかけてきたのは、ケンタ。十七歳。俺より一年早くここに送られてきたらしいが、持ち前の明るさ(あるいはただの脳天気さ)で、この地獄でも妙に前向きな男だ。

 

「……ケンタ、お前はいつもそれだな。どうせ途中でへばるのがオチだ」

 

 ため息混じりに言ったのは、サブロウさん。四十八歳。この区画での生活が長い古株で、全てを諦めきったような目をしているが、時折こうして俺たち若造に現実的な忠告をくれる。

 

「レン、ここの岩盤は特に脆い。一昨日も別のグループの奴が落盤で大怪我したって話だ。お前も気をつけろよ。治療には、それこそ目が飛び出るほどの施設内通貨ジオンか、質のいい魔石が必要になるからな」

「…ああ。気をつける」

 

 俺は短く応える。俺たちの命は、ここで採掘される魔石よりも軽い。

 もう一人、ユミ――十五歳――は、黙って自分のツルハシの柄に何かを巻き付け、強度を補強している。俺と同時期にここに送られてきた少女で、口数は少ないが、その目はいつも冷静に周囲を観察している。俺に気づくと、小さく頷いた。

 

「…今日も、無事に終わりたいね」

「……そうだな」

 

 俺たちは、薄暗くカビ臭い「第7廃坑道・区画D」へと足を踏み入れた。

 

 ここは、かつては強力なモンスターも出現したらしいが、今ではジオテックのS級ハンターたちによって狩り尽くされ、安全が「確保された」採掘専用ダンジョンだ。

 俺たちD級ハンター落ちこぼれの仕事は、モンスターの残骸や、壁や鉱脈から、魔石を掘り出すことだけ。危険はないが、希望もない。ただ、ひたすらに単調で過酷な肉体労働が、今日も俺たちを待っているだけだった。


 ツルハシを振るう単調な音だけが、薄暗い坑道に響き渡る。


 ――カーン! カーン!

 

 ケンタは相変わらず威勢のいい掛け声だけは一人前だが、すぐに息を切らしている。サブロウさんは、長年の経験からか、効率の良い場所を見つけて淡々と作業を進めている。ユミは、小柄な体で黙々とツルハシを振るい、時折壁の亀裂などを注意深く観察していた。

 

 俺も、黙々とツルハシを振るう。

 だが、俺の意識は、ただ目の前の岩石だけに向けられているわけではなかった。

 

 幼い頃、父さんに連れられてよく森へ行った。父さんはそこで、植物や鉱石、動物の痕跡などを見つけては、俺に色々なことを教えてくれた。

 

『よく観察するんだ、レン。世界は、注意深い者にはたくさんのヒントを与えてくれる』

 

 その言葉が、今でも耳に残っている。

 こんな場所で、父さんの教えが何の役に立つというのか。そう自嘲しながらも、俺の目は無意識のうちに、周囲の壁の構造、岩の質感、微かな空気の流れ、そして、他の誰も気にも留めないような些細な変化を捉えようとしていた。


 不意に、ツルハシを振るう手が止まった。

 今、掘っていた壁の一部分。他の場所と比べて、そこだけ粉塵の積もり方が不自然に薄い気がした。そして、ツルハシで叩いた時の反響音も、ほんの僅かだが、他と違う。まるで、その奥に空洞があるかのような……。

 

「気のせいか……?」

 

 一度はそう思った。だが、無視できない違和感が胸に残る。

 俺は作業を中断し、その箇所を凝視した。ヘッドライトの光を集中させ、軍手で表面の埃を丁寧に払ってみる。

 すると、そこには、岩肌に巧妙にカモフラージュされた、ごく細い亀裂のような線が見えた。

 自然にできたものではない。明らかに、人工的な「継ぎ目」だ。

 

「……何かある」

 

 心の奥底で、何かが囁いた。

 父さんを失い、全てを奪われ、この《第零区画》に送られてからずっと蓋をしていた、好奇心。そして、このクソみたいな現状に対する、やり場のない反抗心。それらが、目の前の未知の可能性によって、鎌首をもたげ始めたのを感じた。


 周囲を見回す。看守の姿はない。近くで作業しているのは、ユミだけだった。彼女は、俺が作業を止めて壁の一点を凝視しているのに気づき、不思議そうな顔をしている。ケンタとサブロウさんは、少し離れた場所でまだ気づいていない。

 

 俺は意を決した。

 継ぎ目に沿って、慎重にツルハシの先端を差し込む。硬い手応え。だが、ただの岩盤とは違う、何か「構造物」に当たっているような感触があった。

 

 ゆっくりと力を込める。

 ゴトッ、と低い音と共に、長方形の岩盤の一部が、数センチほど内側に沈み込んだ。

 そこには、古びた金属製の取っ手のようなものが、埃を被って姿を現していた。

 

 隠し扉だ。

 

「レン……それ……」

 

 一番近くにいたユミが、息をのむのが分かった。

 

「うおっ!? なんだそれ! レン、お前、何見つけたんだよ!」

 

 ケンタの大声が響き、サブロウさんも驚いた表情でこちらへ駆け寄ってきた。

 

「馬鹿! 何をしてる! こんなところ見つかったら……ただじゃすまされないぞ……。って……それは、まさか……隠し扉だと!?」


 目の前の、明らかに人工的な扉。

 

 俺たちD級ハンターが普段立ち入ることを許されている「安全な」採掘エリアには、およそ不釣り合いな存在だった。

 

「すげえ! レン、お前どうやってこれ見つけたんだよ!?」


 ケンタが興奮した様子で俺の肩を叩く。


「なあ、これってもしかして、ジオテックも知らない秘密の通路なんじゃねえか? 奥にヤバいお宝とか、見たこともないような高純度の魔石とかあったりして! そしたら一攫千金だ! こんなクソみてえな生活ともおさらばできるぞ!」

「馬鹿を言え、ケンタ!」


 サブロウさんが厳しい声で制した。


「そんなものはありゃしねえ! ここはジオテックの管理下の領域だ。勝手なことをしているところを見つかれば、俺たちは良くて懲罰労働、悪けりゃ……『行方不明』扱いだぞ! レン、すぐに班長に報告して――」

「でも……」


 ユミが、静かだが芯のある声で口を挟んだ。


「この扉、かなり古いみたいです。本当にジオテックが把握しているんでしょうか……もし、本当に価値のあるものが見つかれば……ここから出られる可能性だって……ゼロじゃないかもしれません。手柄を立てれば、C級ハンターに昇格できるかも……」

 

 サブロウさんの言うことは正しい。危険すぎる賭けだ。ジオテックの管理下では、許可なく未踏エリアに侵入することは即刻「処分」対象となる重罪。それは骨身に染みて分かっている。

 

 だが、ケンタの言う「現状からの脱却」という言葉。そして、ユミの口にした「ゼロじゃないかもしれない可能性」。

 

 このまま、ここで家畜同然に生き、いつか魔石と共に使い潰されるのを待つだけの日々……。

 父さんの研究の真実も、俺自身の価値も、何も見いだせないまま終わるのか?

 

 目の前の、古びた隠し扉。

 

 それは、絶望的な暗闇の中に差し込んだ、ほんの一筋の、しかし強烈な光に見えた。


「……行くぞ」

 

 俺は、低いが、自分でも驚くほど揺るぎない声で言った。

 

 ケンタが、ユミが、そしてサブロウさんまでもが、息をのんで俺の顔を見る。

 首筋の奴隷の首輪が、やけに重く感じた。だが、今の俺の目には、絶望だけではない、何か別の強い光が宿っているはずだ。

 

「ここにいても、俺たちは殺されるのを待つだけだ。なら、この先に何があるか、確かめてもいいだろう? もしかしたら、なにかあるかもしれない……」

「だよな! やっぱお前は違うぜ、レン!」

 

 ケンタが歓喜の声を上げる。

 

「…お前ら、本気か……。だが……もう止めても無駄か」

 

 サブロウさんは深いため息をつき、諦めたように首を振った。だが、その目には、意外にもほんの少しだけ、何かに期待するような色が浮かんでいるように見えた。

 

 ユミは何も言わず、ただ黙って頷いた。そして、懐から何かを取り出す。施設内で手に入れた金属片を根気よく研いで作った、粗末だが鋭い光を放つ手製のナイフだった。彼女はそれを逆手に握り、静かに覚悟を決めた表情をしている。


 俺は先頭に立ち、隠し扉の冷たい金属製の取っ手に手をかけた。

 仲間たちが、固唾をのんで俺の背中を見守っている。

 

 ギギギ……。

 

 重々しい、錆び付いた蝶番が軋む音を立てて、何十年、あるいは何百年もの間閉ざされていたかもしれないその扉が、ゆっくりと開いていく。

 

 扉の向こうには、ヘッドライトの光すら容易には届かないような、深く濃い闇が、まるで巨大な獣の顎のように口を開けていた。

 

 カビ臭い空気と共に、何か得体の知れない、そして強烈な「何か」の気配が、そこから漂ってくる――。


 この一歩が、地獄の底で足掻く俺たちの運命を、そしてこのアイテム至上主義の歪んだ世界の歯車を、わずかでも狂わせ始めることになるのか。

 

 そんな大それたことは、まだ知る由もなかった。

 ただ、目の前の未知なる闇だけが、俺たちを待っていた。



 


―――――――――――

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