・13-ジャスト・ワン・イェスタデー



 都会のビルに位置していた影崕派は全有壺の件で引っ越しせざるを得なくなった為……あとそれから、トナリの強い主張もあって、現在の拠点は心機一転して海沿いのホテルになった。

 本来なら買い取るだけ買い取って営業はしない予定だったが、元々ビジネスマンだった野地がいつになくやる気を見せたため、影崕さんはアイツに全て任せた。影崕さんに任された野地はいつになくいきいきしているし、他の影崕派もほとんどは海沿いホテル暮らしを気に入っている。


 海沿いのホテルってだけあってシーフードがうまいし、影崕派の人間は元々全員ふつうの生活を送っていたふつうの人間たちだ。最初は嫌がっていたにしろ、ホテル経営に携わる生活は彼らにとってどこかしらで〝求めていた〟穏やかな生活があったおかげか、現在の影崕派の空気感はいつになく丸かった。仕事内容は野地の采配で毎回が全員代わる代わる行い、飽きるのを防いでいるようだ。これには正直器用貧乏なやつらだと感心した。

 俺からしたら全有壺の件は憎たらしくて仕方ない嫌な記憶だったが、シーフードはうまいし、ジャンクフードとかいう口にする毒を楽しむ影崕派メンバーも少なくなって、引っ越し自体は結果的に有り難い変化となっていた。


 とはいえ、ローと星狂いのチームは基本的に全員が個人主義レベル100で、他のチームとは違い全員が一ヶ所に集まっているなんてほとんどないと言っても過言ではないし、一貫して「ホテル経営?クソどうでもいいんだが?」というスタンスを崩していない。アバウト気質の快楽主義者が多い影崕派でも、その性質が特に強いやつらの寄せ集めなのだから、当然ホテル経営には関与していない。

 まあ。戦闘狂すぎてふつうの生活ができないうえ、自分よりも強い人間のことしか言うことを聞かない動物共なので、逆に彼らがホテル経営に関与していればたいへんな迷惑になっていたに違いないので野地としても願ったり叶ったりだろう。


 しかしながら本部の移転から半年が経ち、戦闘狂も、元ビジネスマンも分け隔てなく全員が既にすっかりとホテルに慣れ親しみ、全員が各々の生活を謳歌できているのは誰の目から見ても明白な事実であった。

 誰もが平等に、誰もが穏やかに。誰もが己の人生を大事にできる。かりそめの自由だが、それが自由であることに変わりはない。それを愛さない理由だってなかった。


 俺たちは適度に目的のために人とシンを殺し、ホテルを経営し、健康に飲み食いを楽しみ、明日を楽しみに眠れている。これ以上に何を求められるだろうか?――なんて謙虚なことは言わない。言えない。言いたくない。謙虚さなんて人生には不必要だ。そもそも仮に謙虚であるならこんな場所にまで来なかったはずだ、人として、個として、人類として。

 そうして成長するのだから、人とは誰しも強欲であるべきだ。より良い世界を求めて生きているべきだ。仮に命なんてものに意味があるのなら、そういうもののために生きているんだろうと思う。


 ホテルと従業員専用居住区を繋ぐ渡り廊下を早足で歩く。窓ガラスから差し込む斜陽が辺りを白く眩く照らしている。健気にもきれいに掃除がされているらしく、ワックスがけのされた廊下が光を反射する。

 こんな朝早くに、こんな眩しいものを見ると、どうにも気分が悪くなる。適当に目元を隠しながら歩く。


「ったく、誰だよ、ワックスがけなんてした奴。従業専用居住区くらい適当にしてろっての……」


 ぼやきながら居住区へ入る。幸いにも人はたかっていなかったし、人がいない今のうちに星狂いを見つけたいところだ。この件に関しては色々と時間制限があるので誰かに見つかって絡まれるのだけは避けたかった。普段ならトナリあたりが俺の隣でうろちょろしているのを許容するだろうが、今回は用事が用事なので、適当にキラの開いた試食会へ追っ払ったくらいだ。

 大切な友人であるトナリを邪魔だと評価したくはないが、今回に限って彼女は邪魔になる。一々誰かの気持ちを気遣うなんて、そもそもの話、俺の柄じゃないし。そういうのはトナリとか影崕さんが得意なことだ。


 通りすがった何人かが挨拶してくるのを無視しながら歩くペースを速め、エレベーターを無視して薄暗い階段を上っていく。ったく、話しかけてくるなとあれほどいつも言っているのに話を聞かないやつらだ。


 屋上に繋がるドアを開ける。


 ……無駄に眩い太陽が目を刺すようだ。柵の向こうに見える海と、空の境界線に一瞬ほど目を奪われる。仮に、俺が太陽とか海とかを好んでいたのならば、屋上の景色は文句なしに絶景なんだと思う。柄じゃないけど、景色というただのオブジェクトに心を動かされるとしたら、こんな景色がいいと思う。


 嫌になるくらいに澄んだ空気に混じった焼き挽いたコーヒー豆の匂いがどうにも口内で涎を生み出し、同時に、この場には千鶴が不在ではないと示した。

 匂いの元である暗い緑色の大きなテントへ足を向けて歩いて行く。筋肉質な図体に声をかけるよりも前に千鶴は振り向き、俺に緑色のマグカップを差し出した。行動の速いやつだ。緑色は嫌いだが、だからってそれに文句をつけるほど暇でもなかったので有難くマグカップを受け取り、コーヒーに口を付けた。

 じんわりと広がる苦味と、旨味。鼻腔を擽る芳香な匂いの期待を裏切らない味だ。俺好みの砂糖とミルク。準備が速い。文句なし、百点満点。


「相変わらずうまいな。喫茶でも開けば儲かるんじゃねえの。」

「興味ない。」

「だろうな。」


 とくに何かを期待したわけでもないが、宝の持ち腐れを指咥えて見てることしかできないのは何だか残念だとも思う。勿体ないな、なんて意見は星狂いにとっては虫の羽音くらいどうでもいい雑音でしかないとわかっているので、何も言わずに心の隅にでも捨てておく。


「何の用事だ?」


 御託は要らないと言わんばかりの鋭い声に尋ねられて、俺は黙々とコーヒーを味わいながら片手に持っていたファイルを掲げて揺らす。千鶴は鼻を鳴らした。


「殺しか。君が直に来るとは珍しいな、隣にトナリがいないのも珍しい。彼女に知られたくないことか?」

「ん~……半分アタリ、半分ハズレってところかな。」


 千鶴の眉が微かに上がる。予測を口にしたくせ、当たるとは思っていなかったらしい。


「個人的に殺してほしい相手がいるのはご名答、それをトナリに知られたくないのも当たってる。でもこのファイルの中身は、それじゃない。」


 冷静沈着、というよりほぼ虚無的な男である星狂い、改め、千鶴が影崕派にいるのには幾つかの理由がある。仕事が必要だとか、結局殺しが一番肌に合うのに意味のない殺しはしたくないというスタンスが影崕派の考えと合っているだとか、ほんとうに、理由は色々ある。しかしそのうちの八割を占める理由は、千鶴の視た運命が予見したことにある。

 ――影崕派に留まることによって星と出逢う。

 そんな曖昧な理由で千鶴は影崕派に滞在し、協力してくれている。無論、星に出会うことを目的としている以上千鶴にとって影崕派は手段でしかないし、変な奴過ぎて影崕派から消えてくれねえかなと昔はよくうんざりしたものだが、話を聞けば聞くほど星狂いはまったく〝正気〟だった。いっそ、恐ろしくなるほどに。


 だからこそ彼が影崕派に協力するという選択肢は信頼の証であり、影崕派もまた真摯にその信頼に応えなければならないのだ。誠実でなければ組織なんていつか崩壊する。継続と誠実さは直結するものだ。嘘や詭弁は確かに便利だけど、ばれてしまえば後の祭りだからだ。


「星が見つかったって。」


 そう言ってやれば、星狂いはゆらりと顔を上げて俺を見た。嘘であれば殺すと言いたげな鋭い目付きだった。まあ、気持ちはわかるので責める気はない。何せ星の加護を持つ命を求め続けている空虚な男だ。……いや、千鶴を空虚と評価するのは侮辱的だし、何よりひどく的外れだ。ダサい思考に行きかけたことを反省して、ここはひとつ、一途であると評価するべきだろう。


 クォータム社の森本から受け取りたてほやほやのファイルを千鶴が座るソファの目の前のローテーブルに投げてやる。千鶴は俺の目から視線を外すことなくファイルを手に取った。おっかねえの。

 瘡蓋色の視線が資料へと下る。


「向かう。」

「りょーかい。でさ、折り入って頼みがあるんだよね。ここからは俺が個人的に殺してほしい相手の話ね。」


 星狂いは彼が好んでよく着用するミリタリージャケットを着ながら顎をクイッと上げて先を促した。話が早くていいね。これであーたらこーたら言われていたら許せなかったかもしれない。


「周辺に止まってるバンがあると思うんだけど、後でも先でも同時でもいいから、とりあえず乗ってるやつを全員殺してくれ。」

「理由は?」

「う〜ん。家庭の事情ってやつ?」


 家庭だって。笑える。自分で言って吐き気がした。


「……ああ、了解した。」


 自分の言葉に口を押えて吐き気を収める俺に何を言うまでもなく、千鶴はただ静かに頷いてくれた。やっぱり理解の速いやつは楽でいい、こちらの苛立ちが軽減する。



 ※



 泥兵の肉体へ刀を突き刺して、引き抜き、斬り付ける。どさりと崩れ落ちる泥兵が、血だまりに姿を変えるのを見届けてから、息を整えて顔にへばりついた血を拭う。

 内部結界内を探索して暫く経つが、ふしぎと体に疲労がたまらないのはやはり獣のサポートによるものだろう。こういうところ、変に気が利くの、ちょっと。なんて言葉にすればいいのか分からない感情が胸に渦巻いてしまう。

 有難いけど、有難いけど!色々と彼女にしてやられたことも同時に脳裏に過って、簡単に信頼するべきではないと冷静な自分が声を上げてならない。うーん、複雑。


「ふう……」

『先生、だいじょうぶ?負けない?』

「ん。」

『ちゅってして証明して。』

「アホ。」


 本当アホ。――アホすぎる獣に本音を洩らすのは憚れたが、実際のところ人型を殺していると精神的にくるものがあった。獣のサポートによって身体的に強化されていたとしても、どうしても。

 武器を手に取った泥兵の行動はよく見ていれば先読みが可能なので、まったく未知の動きで襲い掛かって来るシンほど手間取らないにしろ、やはり根本的な部分で未だ冷静な自分が人型を殺すのを嫌悪していた。人殺しに躊躇がなくなったとしてそれ以外の生き方を忘れる事態を恐れていたが、前に思ったように僕の胸に巣食う嫌悪感はどうにも消えない。その事実に安堵もすれば、同時に苦しめられもする。こういうの、ジレンマって言うんだっけ。

 今日だけで既に両手で数え切れないほど泥兵を殺したが、まだまだ出尽くしていないらしく泥兵は延々と襲い掛かって来るし、シンの核どころか生存者もぜんぜん見つからないし、どれだけ階段を上がってもどれだけ走っても終わる気配のないこの状況はかなりストレスフルだった。苦しめられはするが、この際、そう感じることが僕にとっては大事なんだって良いように受け取るしかない。


 そもそも墓越の泥兵ストックが多すぎる。トギさんの言っていた通り、墓越は本気で僕を殺しに来ているのだと改めて痛感する。ちょっと理解できない執念だった。ほんとうに気持ち悪い男だ。趣味とかないのかな。


『あぁっ、もー!ジャミングが終わんね~っ!お、いけるか?って思ったらすぐ来る!すぐ!ムカつく!ほんとう性格悪すぎない!?ぼくのトリちゃんも……ッうぎぎ!』


 また新たな泥兵がやってくるのだと通信機から聞こえてくるカイ先輩の泣き言で分かった。泥兵が次から次へと襲い掛かるのと同時にジャミングがほとんど止まないらしく、僕は結局獣のナビゲートに従うしかなくなっているし、通信機から聞こえてくるのはさっきからずっとキレ散らかしているカイ先輩の独り言とバンバンと何かを叩く音だけだ。

 ジャミングのせいで挙動不審にしか動けなくなっている駒鳥は現在、僕のポケットに煙草型自爆武器と共に静かに重鎮している。たぶんそれも駒鳥の製作者である彼女としては気に食わないのだろう。

 カイ先輩の様子に思わず苦笑していると、獣が「んむ~……?」とじつに不可解だと言いたげな呻き声をあげた。


「どうした?」

『んとね、次の弱っちいのを倒したら教えてあげるね』

「今言えよ。」

『まだ教えてあ〜げな~いっ!』


 コイツ。と獣のにやついた声に苛立ってしまい、気持ちの赴くままに舌打ちをしたくなるのをひとまず堪え、深呼吸をして心を整える。嘆かない、イラつかない。相手にしない。うん。耐えるんだ、僕。獣相手に悶々としたところで意味がないなんてもうわかりきっている。……だからといって、気持ちをコントロールできるくらいなら感情というものを感情だとは言わないのだが。


『とりあえずここの上の階から来るから、先生、ぜったいに負けちゃだめだよ!』


 カイ先輩のサポートが万全じゃない以上、僕は(そこはかとなく不愉快だが)他ならぬ獣に促されるの甘受し、刀を構え、半壊している階段を三段飛ばしで駆け上がった。槍を構える泥兵が視界に入る。

 上と下じゃ、下にいる僕の方がより分は悪い。しかも槍と刀ではリーチの差だってある。この場を切り抜けるには――と頭が答えを探すより、体が勝手に動いていた。


 段から壁を蹴って一気に階段を飛ばし、飛び込みながら泥兵の腿を切りつける。飛び込んだ勢いのまますぐに立ち上がって回りながらもう一度刀を振るった。そうして姿勢を崩した泥兵の首元へとすかさず、狙いを定めて、一直線に刀を振り翳す。

 落ちていく泥兵の首をすこしばかり眺め、忘れていた息を吸い込み、顔に張り付いた泥兵の血飛沫を拭う。倒しても倒しても泥兵はやってくるし拭ってもキリなんてないだろうが、拭えるほどの一瞬があるのならちゃんと拭いたい。意地でも何でも、血で汚れたままなんて嫌だった。僕は獣じゃないのだ。


「それで?〝弱っちいの〟なら倒したけど。なんだよ。」

『この階に人の子がいるよ。』

「どっ……そういうのははやくに言え!で、どこ!?」

『あっち!』

「どっち!?」


 声でしか聞こえていないということをどうやら本気で忘れていたらしく、獣は恥ずかしそうに「あっやだ、わたしったら……うふ、ごめんね先生?」と――。


「いや謝る暇があるならはやく言え。」

『んもう、せっかち。右向いて、そっちまっすぐ、教室二個分向こうの教室だよ。』


 気持ちの思うままにこんな状況でせっかちじゃないお前がおかしいんだと言ってやりたくなったが、実際彼女のおかげで助かっている節は明確にあったので口を噤んでおく。とはいえ、そもそも彼女のせいでこうなっているわけで……なんて思ったところで、獣のことを考えると常に堂々巡りだと気付く。うん、こういうの〝特徴がないのが特徴的〟なアレだ、パラドックスだって言うんだっけ。

 悶々と考えながらあちらこちらで重力を無視する血だまりがゆらゆらと浮いている廊下を走る。すると通信機から、どこか躊躇い気味なカイ先輩の声が聞こえた。


『そ、その、えーと。さっきから気になってはいて、そろそろガチで気になってきたから聞くけど、シナンがなんか言ってるのかな?』

「え?はい、この先に生存者がいるらしいです。」

『マ!?最高じゃん、じゃあぜんぜん任せる!……てっきり正気値でも擦り減っておかしくなったのかと思っちゃったわ。ごめんな!』


 ……獣と話していたらいつか誰かしらにそう思われるだろうと予想していたが、やっぱりモヤモヤする。カイ先輩がド正直に言ってくれただけメンタル的なダメージは少ないにしろ、獣関連でこれ以上妙に思われたくは、正直ない。ただでさえ獣のせいで僕は初代会長と同一視されてヘイトを買っていると言うし。


 ――その獣のナビに従ってシンの内部結界によって面積が巨大化している教室二個分向こうへと走りきるが、獣の指定した教室のドアは半壊した学校の一部分の瓦礫によって塞がっていた。

 これは……地道に瓦礫を退けていくしかないか。見るからに重そうだし結構な体力を使いそうだが、覚悟を決めるしかない。意を決して刀を一旦地面に置き、瓦礫に手をかける。


『っし!戻った――ってちょい待ち鹿目!その教室、なんかふつうじゃ……アレッ、戻った。なんだ?ぼくの方のバグか?これ。いや!納得できない。ぼくのサーチがバグるわけないし、たぶん罠かもしれな』


 ブツッ、と電子機器からは聞きたくない音が鼓膜を揺らし、すぐに砂嵐の音が通信機から流れる。


「……え?」


 え?


『壊れちゃったの?ヒンジャクね。』


 なかなか無情な獣の一言コメントはさておき、カイ先輩と連絡がつかなくったというのは言わずもがな良い兆候には思えない。ただでさえ不安だというのに、サポーター役のカイ先輩がいなくなったとなればなおさら不安だし、通信が切れる前に彼女が言っていた〝罠かもしれない〟ってことも気になる。それにこんなところをひとりでうろうろと捜索しなくてはいけないと言うのは何だか気持ち的に苦しいものがある。……獣は不安要素だから論外だ。

 うん、このことについて暫く悩んでいたい。


 悩みながらもとりあえず息を深く吸い込む。つんとした冷たい空気が鼻腔を通る。埃と土煙、それから、死臭と血。意図せずとも舌に残る、息を吸い込んだことを後悔するような厭な臭いばかりだ。胸の奥底に眠るある種の使命感を呼び起こす、酸っぱいほどの惨劇の臭い。こんな状況を起こした奴を、殺してやりたいだなんて思わせてくれる臭い。肺にある空気を吐き出し、黒い手袋によって覆われた自身の掌にぼんやりと目を落とした。失ってばかりの手。


 ああ。このことについて暫く悩んでいたい。ほんとうにそう思う。だが悩むのはやめだ。カイ先輩のサポートがないにしろ、悩み続けるわけにもいかないのが今の状況で、幸いにも目的だってはっきりしているのだ。僕は進まなければならない。その進む道が正しくても、正しくなくても。


 ――瓦礫を退かすのに身を砕くこと数分。通常通りとは言わないが、教室のドアをスライド、それから行き来が可能なくらいにはなった。ま、この場ではこれで十分だろう。

 罠かもしれないと警告してくれたカイ先輩の言葉を無視するようで申し訳ないが、この際、罠でも構わなかった。もしもこの教室の先にいる人がほんとうに人で罠じゃなかったのなら、僕は間違いなく死ぬまで後悔するだろうからだ。失敗は学ぶためにある、死ぬまで後悔する選択を選ぶのは一度だけで十分だ。二度目はない。


『えへへ』


 獣の笑い声が、脳裏で聞こえた。

 うあ。理由とか、ぜったい聞きたくない。ろくでもないぞ、ぜったい。そんな予感が願うままに獣を無視してしまいたかった。でも、ああ。獣の責任は今現在僕にある。大事だったら困るのは僕なんだよなあ。


「……それで、なに笑ってるんだ?」


 心底聞きたくはなかったが何を笑っているのか知らないでいるという勇気こそ持ち合わせていなかったので恐る恐る尋ねてみる。


『めがねの言った〝罠〟って言葉を信じて、わたしを信じないかと思ってた。だから嬉しくって!』

「嬉しがってるところ悪いけど、僕がこの先に行こうとしているのはべつにお前を信じたとか、カイ先輩を信じてないから、とかじゃないよ。」

『じゃあ、何で?』

「そりゃあ……」


 言いかけて、口を噤む。言おうとした言葉の、そのうぶな、ばか正直な、考えの甘さに自分でも嫌気がさして素直に気分が悪くなった。この考えを変えるつもりはないが、なんだか、言葉にすると考えればどうにも躊躇われたのだ。


 しかしながらそこはさすが獣、空気を読まないし人の気持ちを考えない。


 彼女は自覚がないのか、或いは自覚してそうなのか、とてもうざったらしく「続きは?〝そりゃあ〟の続き。……なんで黙っちゃうの?気になっちゃうよ!続き教えて!教えて教えて教えて!」と声を上げはじめた。うん、うるせえ。

 ずっとこの声が喧しく問い続けてくると言うのはたいへん精神衛生上良くないように感じられて――、ああ。くそ。


「この先に誰かがいてくれたほうが良いからだよ」

『良い?』

「だから。結局罠で絶望しかないって話より、まだ生き残りがいるって話のほうが良いだろ。」


 我ながら呆れてしまうくらいには甘い考えだった。すこしでもまともなら鼻で笑うであろう理想論。吐き捨てるように言って地面に置いた刀を拾い上げ、教室のなかへと入る。


『……先生、なんだかすっごくナイーブだね。希望的観測に頼って生きていたりしてたら、いつか痛い目にあっちゃうよ』


 獣の言葉に賛同するのはどうも悔しいが、結局のところ自分でもそう思うことを否定できない。ほんとうに。でも僕はこれ以外の生き方なんてできないし、知らない。する気も、ない。

 面積がずいぶんと巨大化している以外は教室内におかしな点は見当たらなかった。変わらず死臭と血の臭いが空気を満たしているし、カイ先輩が警戒していたような罠らしさはない。そういう罠、だったりするとか?


『ほら、先生。あっち。』


 だからどっちだっての。姿が見えない、言葉だけという既に当たり前となった僕たちの関係にすら頭が回らないと言うのであれば、なんていうか、更なる不安が募る。主に獣が何も考えていなさすぎやしないだろうか、という不安。

 呆れてものも言えない僕に、何も考えていないであろう獣にしてはかなり珍しく違和感に気付いたらしく「あっ」とちいさく声を上げた。


『わ、わかんないだった。わたしってばうっかりしてた。えっとね、左端っこのほうだよ』


 端っこのほうに目を向ける。その端っこは遠くてよく見えないが、今の僕には獣のナビを信じて従うという道しか残されていない。とりあえず、だ。

 山積みになっていたり無作法に横に転がり落ちている机や椅子を避けながら進んでいき、端っこになんとか近付けば微かながらも確かに自分以外の荒い息遣いが聞こえた。


 何らかの衝撃で倒れたらしい、ロッカーのなかからだ。


 とくに何の変哲もないロッカーは地面に無造作に倒れているせいで、丁度ドアの側面が地面に塞がれていた。ロッカーのなかに隠れたは良いものの出られなくなった、的な話かな、これは。

 とりあえずロッカーをノックするとガタガタッとロッカー内で暴れる音が振動と共に聞こえる。


「あの、助けに――っていうのはおこがましいな。ええと、見回り的なアレソレに来た人間です。」

「……に、人間?ほんとうに?人間の真似した……化け物とかじゃなくて?」

「ええと、まあ一応は人間です。」


 くぐもった少女の不安げな声は辛うじて聞き取れたので一応は肯定しておく。獣に取り憑かれているし体だって彼女に作り変えられたワケだけど、人間の自覚がないわけじゃないのだ。なので、ハイ。たぶん。部分的にそう。


「証明してよ。」

『むう。ちょっとナマイキなんじゃないの?』


 お前が言うな。

 とはいえ。証明、証明か。僕が人間だっていう証明……。


「あー、好きな食べ物はそばです。逆に苦手な食べ物は、うん、いつ飲み込めばいいか分からないヤツ。ホルモンとか、なんかやたらと噛んでも口の中から消えない野菜とか。ガムとかも意味わからない。趣味とかはないけど、空き時間は筋トレやってます。新潟県出身で父さんは会社員、母さんは看護師。ふたりとも厳しいし慎重派、生意気言うとふつうに殴られる。」

「……夢は?」


 夢。問いかけられて頭が真っ白になり、それからすぐにまずは疑われてはいけないと判断した。それつまるところ、嘘という手段への覚悟。


「ユーチューバーです。」

「……。」


 これで信じて貰えたかな、うん。


「じゃあちょっとロッカーを動かすんで、失礼します。」

「あ、はい。」


 ロッカーを持ち上げて側面を変える。するとロッカーを開けて中から出てきた少女の姿に、僕はたまらず息を呑んだ。

 真赤の短髪にツンとした表情。即座に彼女を最後に見た瞬間を思い出す。僕が手を振り離してしまった瞬間。人生で最も愚かな選択をした瞬間。悔いに蝕まれた瞬間。己の手が果てなく憎く感じた、あの瞬間。

 いや。

 違う。あの子じゃない。あの子なわけがない。だって、あの子は――。


「……ほんとに人だ。」


 声。あの子じゃない。成長しているから。いや違う。違うんだ。あの子なわけが、ないんだ。あの子は僕が振り払って手を離したあの日からいなくなっている。帰ってきたなんて聞いてはいない。見てはいない。なんのために好きでもないニュースや興味のない新聞を読み漁っていたのか、その意味を忘れそうになる。あの子とよく似た顔立ちに怯みたくなる。

 こんな希望はもう捨てたはずなのに、それでもどこかで望んでいる自分がいること、それがたまらなく憎い。現実は既に確定されていると知っているのに望むだなんて、まるで自分が救われたくて仕方ないみたいで、自分がひどく気持ち悪かった。

 僕があの日の後悔を消し去りたいと願うのは。

 そうしてほんとうに救いたかったのは。

 あの子なのか、僕自身なのか。

 そんな考えが脳に過ってしまったのが果てなく辛くて。気持ち悪くて。変えたくて。


 ……立てなおせ。前を向け。

 いまの僕にできること、いまはそれだけがすべてだ。


「あの?助けてくれるんですよね……?」


 不安げな表情に、ああ、くそ。死にたくなる後悔が、鼓動をうるさいまでに打ち鳴らす。けれど。ぼうっとなんてしていられない。少なくとも今だけでいい、嘘でもいい、強がりでもしゃんとしろ、僕。

 彼女の問いに辛うじて頷いて、僕は地面に置いた刀を拾い上げる。情けないまでに震えている手は金輪際無視だ。無視。軽く咳払いをして声を上げる。


「僕は鹿目礼司。君の名前は?」

「羽野……羽野薫。」

「うん。羽野さん。よろしく。それじゃあとりあえず着いてきて。」


 可能な限り羽野さんの顔を視界へ入れないようにしながら来た道を戻る最中、トギさんに説明してもらったゼノとしての鉄則ルールを思い出す。

 生存者を見つけたら、まず先に生存者の保護を優先。パクスなら異質に触れた故の後遺症をなるだけ無くすため、ASXやシンについての話題には触れず、なるだけ離れないように行動する。自分の命とパクスの命が天秤にかけられた際は――。

 その瞬間、ごうう、と大きな地揺れが起きた。

 耳鳴りと共に揺れる不穏な、唐突な地震。


 そして、大きな、大きな破裂音。その音は空気を揺らした。


 身近なものに例えるのならば、風船が破裂した音の十倍くらい。次いで、空気の抜けていく風船みたいな音が百倍くらいで轟いた。鼓膜が痛むよりも、体の芯すら揺らすその不快感に異様なはやさで脈打つ心臓を無視し、僕はすぐにあの子に手を伸ばして、庇うように抱きしめた。彼女の体温が伝わる。その感覚に目を瞑る。


 ――守らなくちゃいけない。もうあの子を失うのは嫌だ。嫌なんだ。

 今となってはそれ以外、どうだってよかった。


 気付けば、ぐるぐると殻のなかに体を押し込められたかのような圧を感じていた。


「う――」


 あの子の手が僕に縋るように、僕の服を握りしめた。どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。ああ、どうしてこんなにも、さびしいのだろう。


「もう離さない、ぜったい。」


 いつか。言えたらと。

 死ぬほど願った言葉を、口にしていた。



 ※



 服を脱いで、検査台の上へ横になる。冷たく無機質な感触が肌に伝わる。視界はすっかりと元の調子に戻って、薄暗い検査室の全貌が良く見えた。大きなガラスの向こう側に何人かの検査担当のゼノ隊員が操作パネルに向かって集中しているのだって見える。こんなによく見えるのはいつぶりだろう?あの視界を奪う白いペンキがないのは想定よりもかなり気楽に感じる。

 私が思うよりも、視界が見えないこと、私はストレスに感じていたらしい。


「そのまま動かないでください。」

「儂のシグマは動かないのが下手だぞ!」

「ちょっ、マジモトさん離れてくださうわっ近い近い」


 検査担当のゼノ隊員に言われた通り、じっと動かないでおく。マジモトに動かないのが下手とか言われるのはどうもナメられているようで気に食わないし。


「あの芒本さん、足をブラブラしないでください。」

「ほーら!儂が言ったとおーり!」


 う。つい癖が。いけない、いけない。結局私はマジモトにナメられるような人間だった。ちょっと悔しい。今度こそ言われた通りに全身を硬くする。私が大人しくなったのを確認したゼノ隊員がうんざりげにため息をついたのが聞こえた。なんだろう、ストレス?


 ――零型:瘴気の再封印が無事終わり、全身の検査がはじまる。体のコンディションやら魔力の状態の確認、零型を体の中に押し込めていた故の検査だと押し切られたが正直不要でしかないので、できればこんな無駄な検査を終わらせてはやく鹿目くんの様子を見に行きたい。

 如何せん、そもそも私の体はふつうの人間の理屈とは訳が違う。たかだか零型を体に閉じ込めるくらいなら、調子が悪くなるだけで終わってくれる。違う場所に零型を移し替え終えたのなら尚更無問題だ。……とはいえ、この検査と鹿目くんの任務について墓越の意思が介入している以上、何をどう説明したって私の全身検査はあいつの意思によって無駄に長引くことになっているわけだ。むむ。もうここは無視して鹿目くんの様子でも見に行くべきかもしれない。


 ガガッ、カチカチッ。

 

 振動と、二度ほど押したボタンの軽いクリック音。

 目が動く、音の元へ。

 即座に体を起こして検査台から降りる。音の発信源はカイと千歳、私でお揃いの通信機兼キーホルダーだ。クリック音が一度だけなら千歳の元へ、二度ならカイ。三度なら鹿目くんの元へ向かう。カイとの間で決めた緊急時の連絡音だった。無機質な音しか鳴らさないから、周囲にそうと気付かれたくないときに使うもの。


「は!?あの!勝手に動かな――聞いてますか!?」

「ダハハハ!ほーら!儂が言ったとおーり!」

「分かったからちょっと黙ってくださいマジモトさん!てか貴方も少しは止めようとしろ!」


 爪先から足の裏へ、じっとりと冷たく無機質な床が皮膚に触れる感覚がどうにもこそばゆいけれど、無心で荷物を纏めた籠へと走る。ええと。

 パンツをはいて、ズボンはベルトを締めず適当に、シャツには腕を通すだけでボタンは後回し。ほんとうに忘れちゃいけないのは簡易武器庫ジャケットとパワーグローブ。それから音の元である通信機。お気に入りの赤いレインコートは緊急時なので要らない。靴下をはいている時間すら惜しいので素足のままいつもの赤い長靴へ足を突っ込む。


 止めに来たゼノ隊員を殴り倒して、すぐに〝庭〟へと通るため、世界のイメージを上書きする。ペトリコール、雨の音。灰色、緑色、青色。ざあざあと聞こえてくる、身を濡らすその雨。ごうごうと風が揺れ、重力に従い身は空から落下していく。

 空気の質感が変わる。

 冷たい雨に身が濡れる。成功だ。けれど。まだ。


「もう一度!」


 声を上げて喉を揺らす感覚に、世界を自らへ打ち慣らす。

 さらにイメージを上書きする。あの子の元へ、走らないといけない。染めた長い金髪、黒ぶちの眼鏡、きっちりと着こなす制服、カラフルな手首のシュシュと、ハートの腕時計。白色のルーズソックス。カイの柔らかな、曇り空みたいな色をした視線。きみのときたまヒステリックになっちゃうとこ。おかしな言葉。お菓子みたいな香水の香り。


 ――不完全な着地で、コンクリートが膝小僧を擦り減らす。開けた田舎道の道路に出たようだった。手をついて体勢を整えながら、目を動かしてカイを探す。彼女はすぐに私の視界へと入るのと同時に、傷だらけのカイに驚くべき速さで襲い掛かっている赤髪の男が見えた。


 あの赤髪の男。


 私は彼を知っている、イオタの記憶を通して、知っていた。星を求める正しきひと、狂わざるを得ない星のひと。

 うーん、うん。これはかなりまずい。私と彼の相性は最悪だ。肉弾言語最強の分身男と、基本的に当たれば即死の私ではあまりにも相性が良くない。それに、千鶴に私の存在を勘付かれるのはなるだけ避けたい事態だ。

 けれどカイが人間を相手にして緊急救援依頼したのだ、私なんかが勝てるわけないので、そもそもの話、私は手段を選べる立場にいない。

 一瞬でその理解に辿り着く。

 迷わず走って飛び込んでカイを抱き締め庇いながら転がっていく。コンクリートが背中を引き摺る。燃えるような熱さに怯んでいる暇なんてない。イメージの上書き。上書き。はやく離れないと。コンクリートじゃなくって、こんな世界じゃなくて。回りくどいイメージじゃなくて、もっとダイレクトに……!

 

 ――心が焼けていくような苦しみに身を任せる。悲鳴が洩れないよう歯を食いしばる。聞こえる雨の音、に、倒れ込む。


 カイを離して、雨で濡れている煉瓦道に額を押し付ける。ぐしゃりと前髪が濡れる。雨が体をじっとりと濡らしていく。荒れ狂う嵐のような記憶が胸を焦がして止まない。辛いだけで死ねるのならきっと死んでいた。

 愛してきたもの。成せなかったこと。なれなかったこと。なれたこと、知れたこと。捨てて来たもの。その何もかもをすべて捨てた、捨てたのだ。ただそれが――。


「はあッ……はあ、あが、ぐ、はあ……!」


 息が荒れる。胸を掻き毟る。生を貪る。

 どれだけ息を吸っても吸い足りない。自分に正しさがない。善がない。悪がない。天秤にかけた命が揺らがない。欠けている。満たされない。何もかも。不完全で。苦しくて。

 ――くそっ、肺に、息なぜ、いまもわたしはが、いかないっいきているのか……!


「シグ……ッシグマ!」


 不安げに名前を呼ばれる。ああ、そうだ。私……シグマ、こんな、くだらない……立って、立て。私。くだらないもののために全てを捨ててきたんだ、私がくだらなくなるのだけはいけない。二度目はないんだ。私に、二度目はない。

 立たないといけない。

 それなのに、私の体はただ寒さに震えるだけ。

 それなのに、体中が脳の言うことを聞かないで無力に震えているだけ。

 ああ、まただ。また……。


「ごめん、ごめんっ!ぼく、ぼくがんばって耐えて、鹿目を最後まで見守ろうとしたんだけど!か、鹿目が……!」


 カイが声にした、その名前に目が覚める。意識が戻るまだ死ねない


 息ができなくっても、震えているばかりでも。立て、立て。鹿目くんのためには、立ち上がんないとダメだ。彼ばかりは譲れない。自分の苦しみなんかどうだっていい。

 呻きながらでも、息ができないながらでも体を無理に動かし、上半身を起こす。雨に濡れたカイの頬に指先で触れる。不安そうな表情を浮かべる彼女の頬に幾つもの擦り傷があって、その光景に胸が痛む。カイには、いつだって無傷で笑っていてほしい。傷は、笑顔の似合う彼女には似合わないと思う。


 これ以上は待てない。待っていていいわけがない。息が整うのを待たず、世界の上書きを行う。目的地はナインナインの医務室。斜光の差し込む、消毒液の匂い。ゆらりと動く白衣。聞こえるナインナインの鋭い非難の声。


 ガクンと医務室のベッドにカイ共々落ちる。驚いた様子のナインナインは、カイを見ると即座に状況を理解してくれたようで無言で彼女の傷を観察し始めた。話が早くて助かるところだが、はやいところ進まなければならない。

 私は衣服を改めて整えながら次の一手について考える。


 もう一度〝庭〟へと通る。その覚悟を決める時間は欲しかったけど、さっきみたいな無理な移動の仕方をしなければいいだけの話なので、胸を擽った恐怖という羽は無視する。鹿目くんに危機が迫っているとなれば、自分の身なんて少しも惜しくはなかった。

 落ちていく感覚に寄せれば上書きは簡単になるけれど、先程の無茶で普段よりはずっと世界の感覚が身に馴染んでいるので今ばかりは不要だった。意識を〝庭〟に集中させる。


 雨、濡れる。香り。一面の灰色に滲む青。

 世界を染め上げて――再び服を濡らしていく感覚に頷いて、雨に濡れた灰色の煉瓦道を走る。煉瓦道へ一歩一歩踏み出す度に足裏へ響く軽やかな衝撃。風と雨に身を打たれながら、今度は鹿目くんの元へ飛ぶイメージを作り上げる。


 ぼさぼさの黒髪に、気だるげな黒目。かさついた肌。制服に、履き潰した赤いスニーカー。あたたかな体温。触れる指先に、流れる涙。きみに触れてはじめて感じた思い。あんなに優しいのにちょっと変なとこ。揺らがない意思。


 体を捻って世界の上書きを一層と促す。灰色の暗い視界を塗り潰していく。落下の重力が身に降りかかる。内部結界内を突き破り、その一瞬にしてひりついた感覚に息を呑む。その感覚を私は知っていた。

 また、前みたいに溶けているのだろう。でも今回は前回と違う、その感覚も同時にした。理由なんかちっともわかんない。ただひたすらに感覚的なそれ。ここまで私が感覚的な変化を感じるとすれば、それは十中八九、魔力関連な筈だ。


 視線を張り巡らして、振り向いた先に鹿目くんを見つけた。


 血に濡れている鋭く尖った爪と刀、赤く染まった瞳孔と目が合う。産毛が逆立つ。視界情報を切り取り彼の魂の状態を視る。すぐに前回とは違うのだと理解できた。前回と異なり、明確に彼がまだ活きている。それなのに同時に、明確に彼が溶けている。息を呑むことすら意識しなければ忘れてしまいそうな重圧感には苦笑せざるを得ないくらいだ。

 鹿目くん、道楽さんとカイの共同で作った手袋型封印機の対となる新作の煙草風・対封印機アンチ・シールドを使ったのだろう。あれだけ彼女たちが苦労して作り上げた手袋型封印機だって、ああ、なんて無念、見る影もない。


 ふと、掠れた息が彼の喉から響いたのが、聞こえた。視線は確かに合っているというのに、その目はどこかうつろで、なんだか死にかけの獣っぽい感じだ。


 異質体の神殿化。降霊、同化、混在。異質体の力を一時的に限界値まで引きずり出す道筋、異質体を祀る器。異質体がそれ用に作り替えたとしても、はじめての降霊で彼の肉体は完全には追いついていない――頭の中で幾つかの情報と予測が過る。

 総合して見たところ、彼はいま一種のトランス状態にいるようだが……その性質が異質体によって歪められたとしても彼が鹿目くんであることには変わりはない。リードは、彼が握っている。異質体ではない。


 けれど、わかる。わかってしまう。いまの彼は鹿。ほとんど生まれたての魂に退行している。自己がない状態だ。まっすぐと本能だけの、物質。それでも異質体がリードを握っていないとなれば、何かの理由があるのか?あのワガママ系破天荒そうな少女が、この状態の彼を野放しするのには理由がある?


 ていうか、フム。どうしてこの状況になっているのだろう。


 鹿目くん微動だにしていないのを良いことに改めて状況を確認する。

 まずは彼に滴る血の元。横倒れている少女の体。

 こちらの目で視たところ彼女が内部結界での核となっているようだが、血の飛び出方と傷口、それから鹿目くんに滴る血の様相から推測する限り、鹿目くんの犯行というワケでもない。他の誰か――おおかた、千鶴辺りが少女を殺そうとしたのだろう。あの男がこの少女を殺そうとしたその理由はわからないけれど、この状況とカイの証言を合わせると、それ以外の説明ができない。

 というかそもそも、カイが千鶴に狙われた理由だって、わからない。なぜ狙われた?その理由が分からない。内通者に関係はある?きっと、偶然を重ね合わせてみたら、きっと。


 鹿目くんの魂を見つめながらすこしばかりにじり寄る。するとこちらが瞬きした隙に、刀の先が私の首を撫でた。生ぬるい血が首元を伝う感覚になんとなく苦笑する。あとすこしでも近付けば殺しちゃうぞ~!っていう彼なりの予告だ。


 いや、驚いた、驚いた。退行した無の状態の魂でそこまで私に殺意を向けられること、そこまでの技術を持っていること、その両方がびっくり箱さながらの単純明快さと驚きだ。技術に関しては、彼女の面影が見当たらないにしろ異質体の降霊が一応機能としてはしっかりと働いているのだと思う。

 ほとんど無の状態で私に殺意を向けられているのは――なんとなしにちらりと横倒れている少女に目を向けると、さらに刀が首元に食い込んだ。服を濡らしていくその感覚に苦笑する。

 ほう。なるほど、つまり番犬だ!


 でも考えれば考えるほどこの状況は、まずい。びっくりなんかしている場合じゃないくらい、とても、かなり、すごくひどく。


 例えば。私の推測通り内通者がいて、鹿目くんの地位をかなり悪いところまで引き下げたいと言うのであれば、この状況はかなりバツグンだ。こちらの打つ手がなくなるくらいに。


 ――犯人不明の少女の死体に、異質体を完全降霊させた初代会長の転生体と謳われる、血だらけの鹿目くん。しかもこちらが近付けば殺意丸出しときた。このまま放っておけば少女殺しの犯人は鹿目くんだと判断され、危険視された彼は異質体のメリットデメリット無視して異質体ごと封印箱にぶち込まれるだろう。

 さて。どうやるべきかな。

 うーん。二節のと三節のは論外だとして、一節のを使うにしろ、鹿目くんが正気を失くしているのがどうしてもネックだ。下手な動きを見せて余計に警戒されるのは避けたい。となると私のできることなんてすっごく限られている。


「フム。じゃあ、こんにちは!鹿目くん。私は雨が好きなので今日はいい天気ですね。」


 でもやっぱりこういう際は基礎の基礎!まずは対話からはじめてみるべきだ。そうと決めて、くい、と首を傾ける。


「ちなみにそこの女の子はまだ死んでいなくって、私なら助けられると言えば、きみはどう動く?」


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