第12話 君という明日
「
今、運行の全責任を負っている機長として、ケンジはそう簡単にワタルの言葉を鵜呑みにはできなかった。音速を遥かに越えるスピードで上昇するエレベーターを途中で停止させることは、想像を絶する危険を伴う。そしてこれまでに前例のないことでもあった。
軌道エレベーターの安全性はほぼ百パーセントに近いことが研究により証明されている。そんな乗り物を、子供一人の戯言で停める訳にはいかなかった。停めるには確固たる理由が必要だったが、ワタルには自らの言動を裏付けるものはなさそうに見える。
ケンジはやれやれと肩を大きく竦め、必死な表情のワタルを見やった。意思の強い眼差しと頑固そうな面差しは、ワタルの母ルリによく似ている。自分の意見を決して曲げない所も良く似ているとケンジは思った。
「それでも、今停まらなきゃならないんだ。今すぐブレーキをかけ始めなければ、間に合わない!」
ワタルが叫ぶように声を張り上げたその瞬間、操縦室の半分を占めている巨大なモニターの一部が非常事態を知らせる赤い「警報」の文字を映し出した。何度も点滅を繰り返し、アラート音が部屋に鳴り響く。
ワタルはけたたましく鳴り響く異常音に、体をびくりと揺らした。
その音に動じることなく、ケンジは瞬時にモニターに目を写し、画面をくまなく注視する。中央のモニターには、進行方向がリアルタイムに映し出されていたが、特に異常はないように見えた。だが、ワタルが別の画面を指差し、「父さん!」と鋭い悲鳴のような声をあげたことでようやく異常事態の原因を知る。
「あれは、隕石? いや……お前が言ったとおり、スペースデブリか! なぜ今まで気がつかなかった!」
それに……、とケンジは続ける。
「なぜ、このことを予見できたんだ……? ワタル、お前一体……」
「機長! 減速開始します! このままだと確実にデブリと衝突します!」
モニター上では、AIがスペースデブリの進行角度を計算し終え、予測進路が表示されていた。さらにぱっと画面が切り替わると、異物と昇降機がぶつかるまでの距離とそれまでの残り時間が映し出される。
――残り、2分58秒。
「くそ! これじゃ間に合わない! アドレー! 段階的減速体制を取る。頼んだぞ」
「了解」
アドレーは椅子から立ち上がると、画面のほど近くへとふわりと移動した。ケンジは画面を睨み付けながら、緊急機内放送専用の受話器を取り、ごく落ち着いた声で警告を始める。
「緊急機内放送。緊急機内放送。当機は緊急減速を開始する。繰り返す。当機は緊急減速を開始する。全員速やかにシートベルトを着用し、衝撃に備えよ。頭を低くし、安全姿勢を保て」
何度か同じ台詞を繰り返してからケンジは勢いよく立ち上がり、アドレーの隣へ移動した。その時、心ここに在らずといった様子で呆然と佇むワタルを振り返り、鋭い声で叱咤する。
「何をしてる! 早くお前もシートベルトを着用しないか!」
父に檄を飛ばされ、ワタルはようやく我に返った。よろけながら近くの椅子に慌てて座り、シートベルトをしっかりと着用する。急激な減速に、体が悲鳴をあげていた。
「減速、間に合いません!」
「最後まで諦めるな!」
ワタルの体は知らず知らずのうちに震え出し、それはどんどん大きくなっていく。えもいわれぬ不安で胸がぐっと締め付けられるようだ。神様なんていないと思っていたけれど、ワタルは思わず両手を組んで、いるはずのない神と、大切な少女に祈っていた。
(……ミライ……、僕らを、守って)
――守るわ。絶対に。
その時、絶対に有り得ないことだが、耳元で囁くような少女の声が聞こえ、ふわっと風が吹き抜けたような気がした。そのあたたかく懐かしい香りのする風は、ワタルの頬を掠めて操縦室の大きな画面を突き抜けていく。いや、実際は何も見えないし風も起きなかったが、ワタルは確かに何かの存在を感じ取っていた。
モニターが、再びアラート音を発する。「今度はなんだ!」とケンジが顔を上げて再びモニターを確認すると、そこには何かの新しい熱源が表示されていた。それは一定の速度でデブリに近づいていく。
「機長! 何か別の質量がデブリに近づいています!」
「なんだって? 画像、大きくできるか」
「やってみます」
二人がそう早口でやり取りをしているのを遠くで見つめながら、ワタルは画面に拡大して映し出された映像に釘付けになっていた。スペースデブリに向かっていくのは、白い何かの物体だった。デブリはその何かとほぼ同じ大きさをしている。やがて画像はさらに鮮明になっていった。
「き、機長……。あれは……」
「なぜ、人間が真空にいる……。いや、あれは人型アンドロイド?」
ワタルは大きく目を見開いて、その映像を穴が空くほど見つめ続ける。映されていたのは、白い女性の形をしたマネキンのようなものだった。違和感を感じるほどに、白く継ぎ目のないつるりとした人型の何か。ワタルはその瞬間、何か大切なことが頭から抜け落ちてしまったような、ぽっかりと穴が空いたような、大きな喪失感を感じ、嗚咽を漏らした。
「――ぶつかるぞ!!」
白いマネキンは、かなりの速度で一気にデブリに向かっていた。ケンジがそう鋭く叫んだ時、周辺を鮮明に写していた画面が、カッと激しい光に包まれる。時間差で、大きな爆発による振動が機内にまで響いてきた。
「っく! どうなった……!?」
画面が大爆発の様子を捉えている。だが、あまりの光でデブリの様子を直視することができない。しばらくしてようやく静寂が戻ると、アラートは消え、モニターには細かな屑が宇宙空間に散りじりに飛散している様子が映し出された。
「……回避。回避完了」
アドレーが漏らした小さな呟きに、ケンジは小さくガッツポーズをする。減速解除を言い渡しながら、ケンジは硬直したワタルに近づき、頭の上にぽんと大きな手を置いた。
「ワタル、大丈夫だったか」
気遣わしげにワタルを覗き込んだケンジは、その顔を見て驚きのあまり息をのむ。
「……お前、泣いているのか?」
ワタルは勝手に流れ落ちていく涙を止める方法が分からず、ただ何もなくなった虚空の宇宙を、画面越しに無言で見つめ続けていた。
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