第2話 地下シェルタの危機

 一人の男がフォロに捕らえられた。シェルタからの脱出を試みたのだ。

 その日は珍しく、ポラリスはステージには立たなかった。いや、立てなかったのだ。彼女がダンスホールに立ち入ったときには、既にフォロが登壇していたのだから。

「オウ、おはようさん」カウンタにいた正雄が、ポラリスを手招いた。「マア座れよ。ちょっと面倒なことになってンぜ」

 ポラリスが正雄の左隣に座る。慎太郎の姿はない。まだ眠っているのだろう。どのみち彼も来るはずだ。ポラリスはソーダを注文しておいた。もちろん、機械人形の彼女が飲むわけではない。

 ステージには、茶髪の女と、手錠をかけられた男。彼を監視するためか、隣には屈強な男が立っている。手錠の男以外は真っ白な服を着ていた。

 茶髪の女は、一度ダンスホールを見渡してから、ゆっくりと口を開く。

「不審な動きをする男を拘束しました。JR南口改札付近にて彼を発見しましたが、我々が拘束を試みたところ、都営新宿線方面へ逃亡しました」

「拘束しようとしたから、逃げただけだ。正当な行為だ」手錠の男が声を荒げる。「俺はシェルタから出たかっただけだよ。死こそ救済だと声高らかに叫ぶアンタらと、不味い空気を共有したくなかったモンでね」

「虚偽は、聖典に刻まれた第一の原罪です」

 同調の言葉がダンスホールに飛び交う。

「問いましょう、各位」茶髪の女が声量を上げる。「新宿駅から都営新宿線へと逃亡。すなわち、その目的とは?」

「イーハトーヴへの逃亡です」屈強な男が答えた。

「左様。この男は、たった一人でイーハトーヴへ向かおうとしたのです」

「暴論だ。ふざけるな」

 男が喚いた。両手を激しく揺さぶった。

「それに、電車は停まっているはずじゃないか。そもそも、イーハトーヴってなんだよ。サッパリ意味が分からない。教えろよ。誰か、誰でもいいから、教えてくれ」

 誰からの返答もない。電車は停まっているはず、という問いかけにも。

「ただ一人で逃げ出そうという傲慢さ。イーハトーヴに助けを求めようとする非情な態度。そして、虚偽を吐くなどという穢れそのもの……。到底許されるべき行為ではありません」

「救済が必要です」屈強な男が叫ぶ。

「是非もなし。承認します」

 そう告げられるや否や、手錠の男は複数のフォロに腕を掴まれる。もがくように粗暴な言葉を叫んだが、全く以て効果がない。しまいには、ダンスホールの外に連行されてしまう。他のフォロたちもぞろぞろと後を追えば、白い服の者は誰一人いなくなった。

 残った人々が考えたのは、やはりイーハトーヴのことだった。ある者が明治神宮を指し示すと、いやいや東京大神宮だとか、そもそも神社ではなく浅草寺だとか、それでは奴らの信仰が破綻するとか、そういった議論が展開された。

 また、フォロに賛同しない人々の中でも、更に派閥ができた。フォロに抵抗して、本来のシェルタを取り戻そうと躍起になる推進派。表面上はフォロを受け入れながらも、由々しき事態が起こる前に救助が来ることを願う穏健派の二つだ。

 両者はステージの上で議論を重ねた。だが、能動的な推進派が、受動的な穏健派と分かり合えるはずもない。議論は罵倒へと成り代わり、結局は暴力に頼らざるを得なかった。

 皮肉なことに、人々の騒ぎを鎮めたのは、ダンスホールに戻ってきたフォロだった。茶髪の女が「鎮まれ」と叫ぶと、皆従った。手錠の男のような目に遭いたくなかったのだ。

 シェルタの最大派閥はフォロであり、逆らうことは不可能に近いのだと、人々の心の深いところに刻まれた。

 それから幾ばくかの時間が経つと、フォロもシェルタの住民も疎らになって、ダンスホールは閑散とした。正雄たちはというと、まだカウンタに座ったままだった。どうせホールから出ても、居場所などなかったのだ。

「イーハドーヴは皇居だと思うけどなア」正雄はあごひげを弄った。「だって、都営新宿線だろ。そンなら九段下駅がある」

「九段下駅」ポラリスが復唱する。

「そう、皇居の最寄り駅な。フォロの連中が何を信仰してンのかは、別に興味も関心もないけど、マア、そこに近付いたら面倒だってのは肝に銘じておこうぜ」

 ダンスホールのドアが開いた。慎太郎だ。ポラリスは左隣の椅子をぽんと叩いた。その席にはソーダが置かれていた。炭酸はとっくに抜けていたが、それでも構わなかった。

「ゴメンよ。フォロの勧誘を断るのに時間食っちゃってさ」慎太郎が椅子に腰かける。「珍しいね。ダンスホールが静かだなんて」

 正雄は、ダンスホールでの出来事をかいつまんで説明した。よほど話に夢中だったのか、慎太郎は呼吸を忘れそうになるほどだった。

「それじゃあ、シェルタから出るのさえ大変なんだね」

「そういうこった。もっとも、お前さんが脱出を企てているかは知らないがね」

「昨日、ポラリスから聞いたんだけどさ」慎太郎はソーダに手を伸ばした。「中性子物質はゲンスイしているから、雨さえ凌げば、一応外には出られるんだって」

 正雄は目を見張った。何度も瞬きをしてから、ポラリスの方に視線を遣った。

「事実です」機械人形の彼女は、一つ頷いてみせる。「中性子物質は、大気中に含まれる物質よりも極めて軽量です。現在、そのほとんどが生活圏外にまで放出したと考えられます」

 途端に、正雄の目つきが変わった。鋭い双眸は光を湛える。加齢によって垂れ下がった目尻は、若返ったかのように、ピクリと上がる。

 なんだか正雄の様子がおかしい。ポラリスは奇異そうに眉をひそめながら、正雄の顔を覗き込む。だが、照明の逆光が鬱陶しくて、充分に表情を捉えることができない。

 結局、彼女は口頭で尋ねることにした。「どうしたのですか?」

 正雄はにやりと口角を上げる。

「一発逆転のアイデアが浮かんだのさ」

「本当かい」慎太郎が身を乗り出した。カウンタがかすかに振動して、ソーダが揺れた。

 バーテンダがバックヤードに戻った。ダンスホールは三人だけのものになる。

「簡単に言えばな、脱出計画だよ」正雄が声を弾ませた。「東京? 首都圏? そんな規模じゃねエさ。もっと遠くまで行ってやるんだ」

「不可能に思える」打って変わって訝しげな慎太郎。「首都圏から外には行けない。中性子物質の伝染を止めるためだって、地方政府が受け入れを拒否している。一昔前のコロナの事例があるから、伝染には結構敏感なんだぜ、あいつら」

 正雄は人差し指を立てて、左右に振ってみせた。

「衛星都市に逃げるんだよ」

 衛星都市。慎太郎にはさっぱりだった。そもそも都市の存在すら知らなかった。膨大な知識量を誇るポラリスでも、想像するには時間がかかったほどだ。もっとも、数コンマ程度の誤差でしかなかったのだが。

「知らなくとも、無理はない」正雄が続ける。「なんせ、衛星都市の存在はデカい口じゃ言えないからな。こんな緊急事態に陥らなければ、お前さんにも話さなかっただろう」

「あんたの正体って、一体――」

 慎太郎の唇に、正雄の人差し指が当てられる。

「今日捕まった男は、JR南口改札付近にて発見された。そして都営新宿線方面に逃げ込んだ。そうだよな、ポラリス」

 ポラリスが頷く。「訂正はありません」

「おれが思うに……」正雄が顎に手を当てた。「大事なのは、イーハトーヴ――都営新宿線方面に逃げたことじゃない。JR南口改札の近くにいたことなんだ」

「どういうことだい」慎太郎が首をかしげる。

「新宿駅は巨大迷路と言い表せるほど入り組んでいる。都民でも迷っちまうほどにな。それには、様々な路線が乗り入れるターミナル駅だから、という背景がある」

 正雄は、ズボンのポケットをまさぐって、古びた革財布を取り出した。

「たとえば、JR山手線、埼京線、湘南新宿ライン。東京メトロに、京王線。そして、忘れちゃアならんのが……」

 革財布のカード入れから、運転免許証が出てくる。

「新宿と湘南を繋ぐ、小田急線だ」

 免許証は、慎太郎たちにも見えるようにカウンタへと置かれた。

「前に言ったろ」正雄は歯を見せて笑った。「おれは運転手なんだよ。小田急のな」

 慎太郎は当惑した。これは確かに運転免許証だ。偽造には見えない。

 しかし、タクシイやバスじゃなくて、電車の運転免許証だった。それはずるいじゃないか。よく喋る仕事と言われて、「出発進行」を連想できるわけがない。心の中で憤慨する。

 一方、ポラリスは電気の供給について危惧していた。電車の運転免許証を見せたのは、逃走に電車を使うという意思表示に他ならないだろう。だが、鉄道に電気が通っている保障はない。正雄は運転手だから、自分たちよりもあらゆる可能性を考慮しているだろうが、やはり不安は拭い切れなかった。

 慎太郎たちの懸念はつゆ知らず。正雄は更に続ける。

「JR南口改札を出ると、小田急線に乗り換えられる。捕まった男も、きっと小田急線を探していたに違いないな。ところが、入り組んだ新宿駅や、フォロの追跡に翻弄されて、間違った道――都営新宿線方面に向かってしまった。そしてフォロの怒りを買った。真相はきっとこうだ」

「あのさ」慎太郎が、おずおずと尋ねる。「どうして、その人は小田急線を探していたんだろう。それほどまで、湘南に行く理由があるのかい」

「もちろん」

 正雄は白い歯を覗かせた。

「江ノ島があるだろ」

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