北極星自由落下
阿部狐
第1話 登場、ロボットアイドル
歌ったことがないけど、その歌詞を知っている。
演奏したこともないけど、その旋律を覚えている。
誰が教えてくれたのかも、どんな状況だったのかも、全部が記憶に新しい。
だけど、その曲の名前だけが、どうしても思い出せない。
◇
今宵のダンスホールも、大勢の観客で賑わっている。
「ゴキゲンヨウ、みなさん」
ステージに現れたポラリスは、金属製の両腕を大きく振ってみせた。明瞭な機械音声と、滑らかな動作。屈託のない笑顔を浮かべて、観客を惹きつける。
限りなく人間に近い彼女は、しかし血の一滴も流れない機械人形。
「シェルタでの生活も、もうすぐ一ヶ月が経過します」ゆっくりと歩き回るポラリス。「同じものを食べ続ける日々にも、とっくに飽きていることでしょう」
一部の観客たちが同調するように頷く。「もううんざりだよ」
「人間は贅沢な生き物ですねエ。一ヶ月飲まず食わずの私を前にして、そんなことが言えるなんて」
小さな笑いが起こる。観客の一人が「ポラリスと比べりゃマシか」と洩らした。
「さてさて。それでは、最初の曲に入りましょう」
それまでふらついていたポラリスは、途端に静止する。足を肩幅に開き、観客に向き直る。おもむろに目を伏せる。すっと腕を下ろす。
観客の目線が、ステージの中央に集まる。ステージの暗転が静寂を誘い、徐々に空気が張り詰める。
誰かが唾を呑む。
ポラリスが顔を上げる。
――一曲目は、『海と太陽の煌めき』です。
アップテンポなイントロ。反響する音源と、こだまする歓声。観客は誰ともなしに肩を組む。ポラリスが囃し立てると、人々は獣のように咆哮する。共鳴、同調、もしくは酔狂。喧騒を交えて、次第に混沌へ。共通点は、笑顔。現実から目を背けるために、誰もが道化に成り下がろうとした。
加賀慎太郎は、ステージから離れたカウンタで、気の抜けたソーダを喉に流し込んだ。観客には混じらず、孤高こそが当然かのように振る舞おうとした。
「オウ、慎太郎」
しゃがれた声が響く。慎太郎が目を向けると、正雄の姿があった。
「まあたソーダ飲んでンのか」慎太郎の右隣に、正雄がどすんと座る。「酒を飲め、酒を」
「ぼくは一二歳だぜ」
正雄はおどけるように笑った。「ポラリスの応援、しなくていいのか?」
「いいんだ。どうせライブが終われば、ぼくのところに帰ってくるし」
「ははあ」正雄が口角を上げる。「嫉妬でもしているのか」
「そんなことないよ。多分違う、多分」
正雄は白いあごひげを掻きながら、ポラリスの胴体に目を遣った。彼女の腹部には、黒電話によく似た、回すタイプのダイヤルが取り付けられている。
「ダイヤルの番号、今日こそ当てられるかもしれないぜ」
「まさか」慎太郎は苦笑した。「そもそも、誰も当てる気なんかないさ」
やがて、ステージに明かりが灯る。鳴り響く喝采。一曲目が終わったようだ。慎太郎はコップに口を当てながら、それとなくポラリスの様子を窺う。
「それでは、今日のダイヤルタイムに入りましょう」ポラリスが声色を弾ませた。「ダイヤルは四桁です。毎度のことながら、ヒントは『あなたの大事な人の日付』。サア、我こそはと名乗りを上げる紳士淑女、その右手を高く掲げてくださいな」
すぐに志願者が現れた。七・八人程度の男女だ。それから、競うように次々と手が上がる。ポラリスのダイヤルは、常に大盛況の余興だった。
彼女が指名したのは、貧相な体つきの男だった。観客が男に目を向ける。ステージに上がる男の足取りは、たいそう重く、表情も固い。
心なしか、空気が重くなる。それを咎める観客はいない。
慎太郎がため息をついた。「ぼくの言った通りだね」
「そうだなア」正雄は苦笑いを浮かべる。「人間って、自分の話がしたい生物だからな」
貧相な体つきの男は、震える指を動かして、ダイヤルが〇三一六になるように回した。
「認証失敗です」ポラリスが無機質な声で告げる。
観客は、わざとらしく落胆の声を上げた。大袈裟な動作で失望を表現する者もいる。まるでこれが、最初から予定されたセオリイだと言わんばかりに。
「ちなみに……」機械らしからぬ、ポラリスの優しい声。「〇三一六は、どういった意味合いを持つ数字なのですか?」
その言葉を皮切りにして、男は自身の半生を訥々と語り出した。声を荒げるたびに、ポラリスが男の背中をさする。観客から観客へと、すすり泣きが伝染する。
要するに、彼女のダイヤルは、男による身の上話の引き金だったわけだ。
「子供の誕生日が三月一六日だったのです」
ポラリスにだけ注目していた慎太郎は、意識を再びソーダに戻した。
彼には理解できないことがあった。なぜ見ず知らずの人々に不幸自慢ができるのか、ということだ。
慰めてほしい気持ちや、自分自身の努力を認めてほしい気持ちがあるのは、きっと仕方のないことなのだろう。だけど、同情を赤の他人にまで求めるのは、たいそう傲慢なことに感じるのだ。
ここまで考えて、慎太郎は、自分が苛立っているのかもしれないと思い始めた。自分が不満や不幸といった心情を吐露できる相手は、今ではポラリスだけだ。それなのに、当のポラリスは、名前も顔も知らない男の身の上話に耳を傾けている。
かといって、正雄に愚痴を吐くのも違う。シェルタに来る前、彼は運転手をしていたのだという。よく喋る仕事だったもんでな、と話していたのを覚えている。だから、他のシェルタの住民よりは話しやすい。そもそも、正雄以外の人間とは滅多に言葉を交わさないのだが。
でも、正雄とポラリスは似ても似つかない。ポラリスの代わりはいないのだ。いくら運転手だとはいえ、何から何まで話せるわけではない。慎太郎が一番信頼しているのはポラリスだった。
――そのポラリスが、自分以外の人間に寄りそうだなんて。
正雄の言う通り、自分は本当に嫉妬しているのかもしれない。
「こんなシェルタにいたら、憂鬱にもなるよな」
項垂れる慎太郎の顔を、正雄はじいっと覗き込んだ。「旅をするといい。シェルタの外に出てさ」
「ひどい冗談だ」慎太郎が顎を掻く。「毒の雨が降ってンだぜ。それに、空気汚染だってある。天国への旅に行けってことかい」
「乗り物を使うんだよ」正雄が身振り手振りを交える。「車はもちろん、屋根つき自転車、反重力セグウェイだってある。それに、シェルタの上がどこか、忘れたわけじゃアないよな」
「JR新宿駅だろ。流石に忘れないさ、正雄さん」
慎太郎は、シェルタに逃げ込んだときのことを思い返した。
青い空に瞬く飛行物体、不協和音を喚き散らす携帯。三次元街頭ビジョンが明滅し、中性子爆弾の到来を告げ知らせる。
次の瞬間、まるで雲が出血したかのように、赤色の雨が激しく降り注いだ。
「忘れたくとも、忘れらンないよ。まったく!」
瞳の潤いを誤魔化すように、慎太郎は声を張り上げた。観客の一部が振り返ったが、すぐにステージの方へ視線を戻した。
一息ついてから、慎太郎は続ける。「そう、ここは新宿駅。だけど電車移動は現実的じゃない。電気の供給はどうするつもり? シェルタ内の電源だけじゃ足りないだろう」
「電気。ウン、電気は供給できないな」
素直な物言いに、慎太郎は失笑を漏らした。
とんだ夢想家だ、この老人は。電車の電は電気の電に決まっている。ならば、電気のない電車は電車ではない。移動手段として成立しない。電車なんて使えないだろう。
ところが、正雄の表情は真剣そのもの。慎太郎もそれを見て、何か裏があるのだと悟る。この老人の頭には、きっと浮かんでいるのだ。電気を供給せずに電車を走らせる方法が。
「冗談だと思うなら、それでもいい。年寄りの気まぐれだからな」
慎太郎は首を横に振った。「冗談でも聞かせてほしいよ。気になるんだ」
辺りが騒がしくなる。身の上話が終わり、二曲目が始まったのだ。頭を震わせるような重低音に辟易しながらも、話の続きを聞くために、慎太郎は正雄の目を見据えた。
「慎太郎。廻力球を知っているか?」
「サア……」肩をすくめる。「初耳だなあ。聞いたこともないよ」
「廻力球はな、外部からのエネルギがなくとも、半永久的に動作するモータのことで……そうだな、つまり永久機関ってことだな」
「なるほどねエ、なるほど」
実際はほとんど理解していなかったが、話の腰を折るのにも躊躇した慎太郎は、ひとまず頷くことにした。
「廻力球」聞き慣れない言葉を復唱する。「その廻力球が、一体どうしたって言うのさ?」
言い終えると同時に、ドアを開ける乱暴な音が鳴った。ダンスホールは廊下の光に照らされる。正雄の興味もそちらに移ってしまった。
あまりに激しい音だったものだから、ポラリスの二曲目も中断された。
慎太郎が目を細めながら、光のある方向を窺った。数秒も経てば、目が慣れて、次第に光の正体が掴めるようになった。
全身を白いワンピースで覆った、男女二、三〇人の集団。荒々しく足音を立てて、「静粛に」「鎮まれ」と声を張り上げる。
慎太郎は、小さく舌打ちをした。「来やがった。フォロだ」
フォロの集団は、慎太郎、観客、果てにはポラリスまで押し退けた。ステージに上るフォロたち。観客の苦情や罵声にも、全く動じる様子がない。
「受け入れましょうっ」
フォロの一人が、声高らかに叫んだ。
「人類による愚かなる茶番。神は嘆き悲しみ、遂には赤色の涙をお流しになられた」
「終焉の日は、すぐそこまで迫っています。抗う術はありません」
「それならば、受け入れましょう。両手を合わせて、神よ神よと唱えるのです」
「貧しき心ゆえに引き起こされた戦争。許されざる罪です。されど、か弱き羊たる我々には、すべからく慈悲を与えてくださるでしょう」
ダンスホールは、瞬く間にフォロで埋め尽くされた。彼ら彼女らの全員が、両手を合わせて独り言を呟いている。
観客の一人が、ため息混じりに言う。「今日はもう終わりだな。撤収撤収」
撤収の言葉をきっかけに、人々は呪詛を吐くように罵詈雑言を並べて、廊下に出ていく。あまりに乱暴な歩き方だから、慎太郎と正雄にもぶつかった。謝罪は一言もなかった。
「おれもベッドホールに戻るか」正雄が背中を掻きながら立ち上がる。「悪いな、慎太郎。続きは今度話すからよ」
正雄はゆったりと歩き、廊下に出た。ダンスホールは、もはや祈祷所になってしまっている。子供ながらに居心地の悪さを感じた慎太郎は、一旦その場を去ることにした。
廊下にはポラリスが立っていた。「みなさん、寝てしまいました」
「そうみたい」慎太郎が欠伸をする。「一ヶ月間続いたライブも、今やフォロの集会場。ここらが潮時なのかもね」
「しかし――」ポラリスが遠くを見遣る。「アヤシイ終末思想が溢れかえるシェルタは、精神衛生の悪化を招き、瓦解する恐れがあります」
「肉体衛生的には良さそうなのが、とっても皮肉だよ」
フォロが掲げるのは、穢れのない精神。ゆえに、衣装は純白で統一されている。掃除や洗濯も徹底して行なっているため、シェルタは蠅や蛆の一匹も湧き出ていない。
しかし、穢れを払い落とすという名目で、一日の食事を減らすべきだとも働きかけている。フォロだけでなく、シェルタの住民全員で、だ。
最終目標は衰弱による自然死だと噂されている。シェルタの生活に疲弊しきった人々にとって、死は魅惑な快楽。日を経るにつれて、フォロの勢力は増す一方だ。
「私の歌と踊りでは、力不足だったのでしょうか」
「それはない。絶対にない」慎太郎が勢いよく喋り出す。「娯楽のないシェルタでライブをしたんだ。それは誰かの心の支えになったはずだよ。そりゃあさ、現実から逃げたくなってフォロの道を選んだ人もいるよ。いるけど、でも全員が全員じゃない。現に、ぼくはフォロじゃない。だからポラリスが力不足だなんて、そんなコトないって」
ダンスホールで喋れなかった分だけ、慎太郎はまくし立てた。
「シンタロウは優しいですねエ」
ポラリスは、慈愛を注ぐように微笑んだ。慎太郎には、彼女の柔和な表情が、どうにも母親のそれに見えて仕方がなかった。なんとなく顔を背けて、感情を堪えようとした。
どちらからともなく、二人は歩き出した。足音がコンクリートに反響する。四方八方から「慈悲を」の言葉が聞こえる。予定調和の不協和音。慎太郎は瞼を痙攣させた。
ベッドホールまでの道のりは遠い。廊下はただひたすらに長く、子供の慎太郎には退屈以外のなにものでもない。
一方、廊下の長さは設備の多さを指し示す。たとえば食堂、電気室、診察室に手術室。簡素とはいえ、発電室まである。
今しがた、ポラリスたちが入った談話室も、その設備の一つだった。
「誰もいないなあ」適当な椅子に腰かける慎太郎。「正雄さんも寝ちゃったし」
時刻は午後八時。太陽の届かないシェルタの中とはいえ、起床と就寝のリズムは、彼の体内時計が正確に覚えていた。要するに、まだ眠たくないのだ。
彼が正雄の名前を口に出したとき、ふと思い出した。廻力球ってなんだろう。永久機関――半永久的に動作するモータ。小学校では教わらなかった。では中学校では教わるのだろうか。そもそも、自分は進学するまでに生きられるのだろうか。
「廻力球って、なんだろう」
独り言を呟くように、ポラリスに問うた。
「廻力球。データをインストールします」無機質な声が響いた。
彼女はいつだって、慎太郎の意を汲んで行動した。都合の良い存在といえばそれまでだが、召使いというよりかは、姉弟、もしくは親子と言い表した方が的確だ。
ポラリスが黙っている間、慎太郎はソーダの味を反芻していた。大人の集まるダンスホール、そしてカウンタ。ソーダは、そこで提供される唯一の清涼飲料水であった。なんでも、本来はお酒と割って飲むために用意されたのだとか。そのことを正雄から聞いたとき、道理で味が薄かったのだと納得した。
この一ヶ月間、水を除けばソーダだけを飲んできた。バーテンダ曰く、あと二・三ヶ月分はあるのだという。慎太郎は、ソーダが尽きたあとのことは考えないようにしていた。そもそも、二・三ヶ月も経てば外に出られるだろうと楽観視していた。いや、楽観視しようとしていたのだ。
ソーダの味に飽きても、ソーダが尽きても、まだ外に出られないのだとしたら。娯楽や嗜好品どころか、生活すらままならなくなったとしたら。
沈黙の包む談話室で、慎太郎は将来についてようやく考え始めた。だが、すぐにやめた。むしろ何も考えないようにした。
慎太郎は、ほんの一瞬だけ「終わり」を悟ってしまった。それすなわち、フォロの思想に賛同することに変わりない。
慎太郎は頭を抱えた。心なしか、頭がズキズキと痛んできた。
――ぼくがぼくでなければ、ポラリスは誰のために踊るというのか?
「インストールに失敗しました」
時間にして二〇秒前後。慎太郎の永遠は、機械音声によって終わりを告げた。
「サーバにアクセスできません」ポラリスが喋る。「簡易座標を取得します……。こちら海抜マイナス八〇メートル。距離に問題はありません。となると、原因は――」
「シェルタの中だから、電波が入らないんだよ」
機械人形の彼女は、素っ頓狂な声で「そうでした」と、おどけてみせた。
再び静寂に戻った談話室は、すぐに「救済を」という外部の声で包まれた。ダンスホールの祈りがここまで聞こえるのだろうか。いや違う。ダンスホールは遮音壁で覆われており、正雄も「全然音漏れしないよなア」と話していた。
つまり、ダンスホールの外にもフォロがいるということだ。
日数を重ねるにつれて、蔓延る終末思想。思想とは、教育か洗脳か。今の慎太郎には言い知れない。
「あとどれだけ待ったら、外に出られンのかね」
今度こそ独り言のつもりで、慎太郎はこぼした。
「演算します」ポラリスが、また抑揚のない声で喋る。「東京都市圏全域に中性子爆弾が投下されて、およそ三〇日。爆弾に内包される亜原子粒子――中性子物質は、七日で半分に減衰すると仮定されます。計算式の要望、及び数値の訂正は?」
「オーキードーキイ。全部任せた」
覚えたての言葉を使って、慎太郎は目の前の机に肘をついた。何も考えないようにする方法を考えるのに、彼は必死だった。
「出力します」機械人形が言った。
慎太郎は頷きもしなければ、一切の反応を示さない。
「結論から申し上げますと、今すぐにでも外出が可能です」
その知らせは、紛うことなき朗報だった。人々に知れ渡れば、たちまちシェルタはもぬけの殻となるに違いない。食糧や将来への不安はひとまず解消されて、束の間の幸福が訪れることだろう。
「中性子物質は、七日後の段階で致死量以下にまで減衰。二四日後には九七パーセントがオゾン層に到達。三〇日目の今、地上の汚染は極めて軽度といえます。懸念すべきは、中性子物質を含有した水分――鳥類の糞や、赤く変色した雨でしょう」
「雨さえ凌げば、もう出られるんだね」慎太郎は、さも興味なさげに呟いた。
ポラリスは頭をひねった。自分は慎太郎の疑問に答えたまでだ。それなのに、どうして彼は、釈然としないとでも言いたげに振る舞っているのか。
「何か、気に障ることでもありましたか?」
ポラリスの電子回路は、時間幅の狭い矩形波を――人間の心臓がそうであるように――ひどく脈動させた。誰かの顔色を窺うのは、機械人形の得意分野ではない。されど、人間に創造された無機物として、自らの主たる人間を苛立たせるのは憚られた。そういった遠慮すらも、「感情」として定められたプログラムの一部なのかもしれない。
「ああ、ゴメンよ」
ポラリスの憂慮とは裏腹に、慎太郎は声を和らげた。その声色に失望や諦念は混じっておらず、むしろ相手に気を遣わせてしまった自分自身を戒めるものだった。
慎太郎はおもむろに天井を仰いだ。薄暗い照明にさえ目を細めて、静かに息を吐いた。
「外に出たって、逃げる場所も、帰る場所もないからさ。母さんはいないし、また爆弾が落ちてくる可能性だってある」
「中性子爆弾は、人体の破壊を最優先に造られたものです。一度その場に投下された以上、同じ場所に落ちる確率は……。エエ、著しく低いものかと」
確率が低いのは本当だ。しかし、ポラリスは良心の呵責に襲われた。
「それなら普通の爆弾が飛んでくる」慎太郎が苦笑した。「途中で放置された積み木を完成させるより、全部ぶっ壊しちゃって、最初から積み上げる方が簡単なんだぜ」
「シンタロウは、東京都に未来はないと主張するつもりですか?」
パッチワークのように繋ぎ合わせた「シンタロウ」の発音は、彼に孤独を植え付けた。
「私、知っていますよ」ポラリスが続ける。「シンタロウにはお父さんがいます」
「前に話したね。ウン、確かにそうだ。ぼくには父さんがいる」
「お父さんは、江ノ島で研究者として働いています。もしかしたら、トンデモでワンダーな発明品で、シンタロウを助けてくれるかもしれません。だから諦めないで」
慎太郎は乾いた笑いを浮かべた。機械人形らしからぬ気休めだと思った。
それでも自分を励まそうとしてくれる、ポラリスの姿勢と言動。頼りなく、でも確かに提示された希望。それを頭ごなしに否定することは、どうにもできなかった。
その代わりに、慎太郎は事実を述べることにする。
「ぼくはね、もうずっと父さんに会っていない。少なくとも、物心ついたときからね」
父親は江ノ島の研究者。慎太郎は、その情報を母親から聞いただけだった。本当は研究者じゃないのかもしれない。江ノ島にいないかもしれない。そもそも、存在しないかもしれない。人工授精だって、今では珍しい話ではないのだ。
「江ノ島に行ったことは?」ポラリスは控えめな顔になる。
「一度たりともないね」慎太郎が鼻を掻く。「そもそも、江ノ島は軍事要塞じゃないか。入島にも手続きが面倒だって聞くよ。ぼくみたいな一般人にゃ遠い存在だ」
「そうでしょうかねエ。湘南は有名な観光地ですが」
「小田急と湘南新宿ラインの乗客を知っているかい。大体は迷彩か白衣の大人だぜ」
部屋の外から、イーハトーブを称える声が聞こえる。救済を願うフォロの叫び声が響く。シェルタが再び静けさを取り戻す頃には、三分が経過していた。
一呼吸置いたからか、慎太郎は冷静になる。同時に眠気も襲ってきた。瞼を擦りながら、椅子から立ち上がった。
雨さえ凌げばシェルタから出られる。身を削る終末思想とも、窮屈な集団生活ともおさらばだ。だけど、それからどこに向かえばいいのだろうか。家に帰ったって、母親は帰ってこない。父親は存在すら不明だ。
逃げ出したい。しかし、どこに逃げ出すべきかが分からない。
「大丈夫ですか、シンタロウ」怪訝そうな表情のポラリス。「家族の話をすると、悲しい気持ちになってしまいますか?」
「ウウン、大丈夫だよ。ありがとう」
それでも不安に思ったのか、機械人形の彼女は、矩形波と三角波の混じり合う子守唄――希望の歌を口ずさんだ。慎太郎と二人きりのときだけ唄う歌だ。その曲を耳にすると、彼は無性に心地良くなって、つい眠ってしまいそうになるのだった。
慎太郎は、ふと、ポラリスの腹に目を遣った。一から九までのダイヤルが刻まれた、金属製で、女性的な上半身。
家族の話をしたからか、彼はダイヤルを回したくなっていた。
ポラリスの腹に人差し指を当てた。ダイヤルは四桁で、ヒントは「あなたの大事な人の日付」。日付とは、すなわち生年月日のことだろう。
〇八〇二。母親の誕生日だ。これまでも試してきた数字だったが、慎太郎は四回目の〇八〇二に挑もうとしていた。なぜなら、母親以上に大事な人だなんて思いつかないから。
ダイヤルを回し終えて、少しの間が空いた。ポラリスの希望の歌は、フェードアウトするように中断された。
五秒ほど経つ。おずおずと口を開いた彼女は、遠慮がちに言った。
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