月と魔術師とわたし
ぽんぽん
第1話
飲みかけのミードに落ちた月を見て、ふと彼らのことを思い出した。
春のことだった。夜はアトリウムで風を楽しむには、まだほんのりと冷たく、手に持ったミードを、やはり持て余すように揺らしていると、月がすとん、とカップの中に落ちて、表面に反射した。それで、彼らのことを思い出した。
そういえば、あの日の夜も、こんな風に二つ月が綺麗に並んでいたのだった。頭に浮かんだとたん、人生で最初で最後の旅の思い出が、堰を切ったように溢れ出してきた。長い指先で腕輪を回す癖、笑う時遠くを見る目、首筋から香る白檀の香り。そして深き森の湿度と、燃える街の眩さ。
当時の私はまだ若く、今思えば下らないことでも怒り、大いに笑い、何度も泣いていたように思う。父への反抗を示すために行った、ささやかな家出は、気が付けば私を辺境の地、アクレイアにまで運んでいた。これほど長い間、家を出ることができるのなら、私はもう誰のことを頼らずとも一人で生きていける。少なくとも、そう錯覚してしまうほどには、傲慢で世間知らずな小娘であったことは、間違いないだろう。
若さゆえの幻想はいつか打ち砕かれるとしても、幸か不幸か、私の背後には常に父の威光があった。どこへ向かおうと、誰かが豪華な食事と宿を提供し、どこを歩こうと、お付の護衛が剣の柄に手をのせていた。彼らに会ったのはそんなおり。辺境の地アクレイアで、帝国の存続を揺るがす大事件が勃発した夜のことだった。
その日、私はモリアイという街で、徴税官の歓待を受けていた。昼過ぎから始まった宴は日が落ちる頃まで続き、第1夜警時が終わるころには、屋敷に滞在するほとんどの者が泥のように眠りこけていた。
「テリア、起きろ」
そう言って私の肩を揺らしたのは、家を出た時から、頼んでもないのに勝手についてきている護衛の男だった。
「これを着ろ、明かりは点けないから、おれの手を握って、しっかり付いてこい」
男は、まだ寝ぼけ眼の私に、ローブを数枚羽織らせると、ぶっきらぼうに手を引っ張った。
「もう、どうしたのよ、急に、トイレなら一人で行ってちょうだい」
「いいから黙ってろ、今回のはマジだぞ」
戦争捕虜という身を弁えず、私やあまつさえ父にすら、軽口を叩く男だったが、根は真面目で義理堅い者だということは、当時の私もなんとなく分かっていた。だからこれも、何か意味があってのことなのだと、私は導かれるままに、暗い屋敷の廊下を歩いた。
時おり窓から見える街が、やけに明るい気がした。二つ月の夜だからかな? 私は特に深くは考えなかった。それよりも、男の手が、歩みをいくつか進める度に、確かめるように私の手を強く握り返す行為に、胸が張り裂けそうなくらい高鳴っていた。何かいけないことをしようとしているのではないか、これからされるのではないか、逃避行の中で恋に落ちる身分違いの男女なんて、まるで流行りの演劇や小説の主人公みたい! そんな馬鹿なことを考えている間に、いつのまにか裏手の庭園についていた。
屋敷はモリアイの丘の上に建っていたため、裏庭からは街が一望できた。今夜は二つ月のおかげで、青白いエーテルの輝きが、街全体を淡く潤わせているのが、私にも見て取れる。もちろん庭園も、左右の生垣の間から、真っ直ぐ覗く噴水が、滴らせる水の一滴すら美しく飾っている。ほんとに綺麗、魔術師たちは、いつもこんな綺麗な風景を見てるのに、どうしてすぐ、被害者面して世界を嘆くのだろう。
「呆けてないで、こっちにこい」
男がぼうっと立っていた私を、生垣の方まで引っ張った。
「痛いってば、いったい何の真似なのよ、ロドリック」
「今すぐこの街から出るぞ」
「どうして急に、明日の朝食後でいいじゃない」
「このままここに居たら、二度と朝食は食えないぞ」
「それって――」
それ以上しゃべろうとする私の口を、男は指先を当てて塞いだ。
彼に唇を触れられるのは、これで3度目だった。耳をすませば、風に乗って、丘の下から微かに悲鳴と怒号が聞こえていたはずだったが、そのとき私の心を支配していたのは、恐怖ではなく、確かにときめきだった。
しばらく続いた沈黙の間、男は警戒した様子で、生垣の隙間から庭園の奥を見つめ
「行くぞ」と私の手を引いて、歩みを再開した。
「この庭園の奥から、街の裏手に抜ける道がある」
「美容液、持ってくるの忘れちゃった」
「そんなもの必要ないだろ」
「あるもん」
ちょっと駄々をこねて、男を困らせてやろうかな、そう思って手を振り払おうとしたとき、男が立ち止まった。ちょうど、中央の噴水を通り過ぎた頃だった。
最初は私の態度に困り果て、いつもみたいに優しい言葉で喜ばせてくれるのかと思った。しかし、いつまでたっても、振り返らない彼の態度に、私の心に少しだけ、不安の影が差してきた。
「ねえ、ロドリック……」
「テリア、少しだけ、離れてろ」
男が私の手を離し、同じくらい優しい力で剣の柄を握ると、私たちの前に、一人の老人が現れた。文字通り、今まで何も居なかった場所に、まるで煙のように、すっと地面から湧いてきたのだ。たぶん、この老人は魔術師だ。直感的に、私はそう感じた。
「じいさん、季節柄まだ夜は短い、おれらのことはほっといてくれると、ありがたいんだけど」
「それは君次第だ」
白髪で、同じくらい白くて長い髭を蓄えた老人だった。しかし、深く刻まれた顔の皺や、髪色からは連想できないほど、体躯はがっしりとし、ピンと立った背丈は、私をかばい立つ彼よりも一回りほど大きく見えた。
「金ならある、それにおれたちは帝国人じゃない、今日のことは何も見なかった事にできる」
「確かに、君は帝国人ではないようだが」
しかし、老人は私をじろりと見た「その娘は違うようだ」
私は咄嗟に男の背に身を隠した。
嘘? なんで私? 何か気に食わないことでもしたのかな、それとも、まさか……。私は男の外套を強く握った。
「おいおい、まだ十そこらの小娘だぞ、趣味が悪いんじゃないか? 帝国人なんて今じゃそこら中にいるんだ。まさか今さら目に見える蟻を全部潰して回る決意を固めたわけじゃないだろ」
「面白い小僧だ」
老人は口角だけを上げて笑った。
「確かに、目に見える蟻を全部潰して歩くには、私に残された時間は短すぎる。だが、その娘を通してやるわけにはいかないな」
「そうかい、テリア悪いな、ちょっと向こうへ行ってろ」
そう言うと、男は剣の柄に手を当てたまま、少しだけ身を低くした。
旅の途中で何度か見た光景だった。彼が剣を振るうと、見えない刃がどんな障害でも切り裂いてくれた。だが、離れていろと言われたのは、これが初めてだった。
私は怖くなって、震える脚で後ずさりし、生垣の後ろに身を潜めた。しかし、そうやって居ると、街中から聞こえてくる悲鳴や叫び声が嫌でも耳に入ってきた。私はこの時初めて、自分の置かれたとんでもない状況に気付いたのだった。そんな暗い思考から逃げるように、私は両手で耳を塞ぎ、座り込んだ。ううん、大丈夫、彼なら絶対に大丈夫、誰にも負けない、今までだってずっと、そうだったもの。
この2か月ほどの旅の道のりで、何の危機も無かったと言えば嘘になる。街でならず者に絡まれたこともあれば、同行した隊商が野盗に襲われそうになったこともある。でもその度に、彼がなんとかしてくれた。だから、今回だってそうなる。
しかし、座り込んでいた私の目に飛び込んできたのは、顔から血を流しながら、転がって這いつくばる彼の姿だった。耳だけではなく、目も塞いでおくべきだった!
「ロドリック!」
生垣から飛び出して、咄嗟に彼に近づくと、ゆっくりと歩み寄る老人と目が合ってしまった。二つ月のせいで、老人の魔術の一端が私にも見える。老人を支えるように両側に憑りついた、黒い靄のような生物。それには顔があって、確かにそのとき、私たちを見ていた。
倒れたまま中々立ち上がらない男と、恐怖ですくみ動けない私。ロドリック、お願い起きて、早く起き上がって、なんとかしてよ!
「おい、もしかしてこれ、やばい状況か?」
「いやいやもしかしなくても分かるっしょ、昨日君をぼこぼこにした相手が、今日でかい爺さんにぼこぼこにされてんだぞ」
彼らに出会ったのは、そんな絶対絶命のときだった。
屋敷の中から出てきたその若い二人の男は、両腕にこれでもかという程、じゃらじゃらと装飾品をつけ、首にもうんざりするほど、豪奢なネックレスをかけ、このシリアスな場面には、とてもじゃないけど似つかわしくない、緊張感のない表情で、私たちの後ろに立っていた。
彼らの名前はガルヴァンディウス、そしてフィリントゥス。
今回は彼らの物語を語ろうと思う。
今ではもう彼らの名を耳にすることも少なくなったが、彼らが一つの時代を開いた魔術師であり、帝国の未来を救った英雄であり――
そして、私の友人でもあったことは、紛れもない事実なのだから。
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