第5話 本の森へ行こう!

土曜日の朝、ハルはいつもより少し早く目を覚ました。

窓の外は、やわらかな曇り空。雨の予報はなかったけれど、空気は少しひんやりしていて、上着を着て出かけた方がよさそうだった。


ハルは静かに階段を降りて、台所の母に言った。


「……今日、町の本屋さんに行ってきてもいい?」


母はちょっと驚いたように目を見開いたが、すぐににこりと笑ってうなずいた。


「もちろん。いってらっしゃい。」


それだけのやりとりだったけれど、ハルの胸の中はふわっとあたたかくなった。


部屋に戻ると、デスクの端にちょこんと置かれていた白い球体――ピピが光を灯した。


「お出かけ? 本屋さんだって?」


「うん。久しぶりに……行ってみようかなって。」


「やった! “本の森”ってやつだね!」


ピピはぴょんと軽くジャンプするように転がり、ハルのリュックの中に自分からすぽんと入り込んだ。


「準備OK!」


「……あんまりしゃべらないでね。店員さんに変な目で見られたくないから。」


「りょーかい、ミュートモードにします。」


ピピの目がちかちかと光ってから、小さな“ピッ”という音が鳴った。

いつもより静かな朝だった。けれど、ハルの心の中は、どこかそわそわしていた。


町の大きな書店に着くと、ハルは思わず息をのんだ。

入口のガラス扉の向こう、何列も並ぶ本棚のあいだに、色とりどりの背表紙が立ち並び、まるで大きな森の木々のように感じられた。


足を一歩、踏み入れる。

ふわりとインクと紙の香りが漂ってきた。

ハルは無意識に深呼吸した。


店内には、親子連れ、小学生のグループ、中高生らしき子どもたち。

でも不思議と騒がしさはなくて、それぞれが自分の“目的の本”を探して静かに歩いていた。


ハルは児童書コーナーの棚の前に立った。

並ぶ本の表紙が、次々と目に飛び込んでくる。

笑っている動物たち、剣を構えた少年、空に浮かぶ不思議な島、やさしい色合いのイラスト――

どれもが、「ぼくを読んで!」と語りかけてくるみたいだった。


(どれを手に取ろう……)


ハルは迷いながら、ふと一冊の本を見つけた。

それは、以前ピピが話していた物語に少し似た雰囲気だった。

丘の上の風景を描いた表紙に、どこか惹かれるものを感じた。


そっと手に取り、ページをめくる。

最初の数行を読んだだけで、ハルの心に波が立った。


「君にしか見えない扉が、どこかにあるんだ」

そう言ったのは、誰だったろうか。


文字は、絵じゃないのに、頭の中で情景がふわりと立ち上がる。

読みながら、自分の中の空想と、新しい物語の世界が重なっていく感覚があった。


「……これにしよう。」


ハルは静かに本を閉じ、レジに向かった。

少しだけ手が震えたけど、それは“緊張”というよりも、“特別な宝物を手に入れたときのような興奮”だった。


家に帰ると、ピピがすぐにリュックから飛び出してきた。


「どうだった!? 本の森は!」


「うん……すごかった。」


「ねえ、その本、ちょっと見せてよ!」


ハルは買ってきたばかりの本を机の上に置いて、そっと表紙をなでた。


「……この本の中に、“まだ誰も知らない扉”がある気がする。」


「それって……“わくわく”ってやつ?」


「うん。たぶん、そう。」


ふたりは顔を見合わせて、小さく笑った。


ピピは言った。


「ねえ、ハル。きみにとって“物語”って、どんな存在なの?」


ハルはしばらく考えて、それからこう答えた。


「うーん……息を吸うみたいなもの、かな。」


「え? 空気?」


「そう。何気なく読んで、でも、読み終わったとき、心が少しだけ変わってる。昨日のぼくと、今日のぼくが、ちょっと違うんだ。」


ピピはそれを聞いて、光の目をまんまるにした。


「それって、すごいことだよ。じゃあさ、ぼくももっとたくさん吸いたい。物語の空気、ハルと一緒に。」


「ふふっ。だったら、次の休みにまた行こうか。“本の森”に。」


ハルはそう言って、ゆっくりページをめくった。

読み始めたばかりの新しい物語が、彼をまた遠い世界へと連れて行く。


部屋の中、そよ風のような静けさの中で、ハルとピピの心は同じ方向を向いていた。


次回予告:

第6話「動く物語を見た日」

紙の中で読んできた物語が、動き、しゃべり、色をまとって“アニメ”になるとき。

ピピは初めて見る「動く物語」の魔法に目を輝かせ、ハルもまた、自分の想像が形になることの不思議に気づく。

物語は、本の中だけじゃない――そんな新たな発見がふたりを待っていた。


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