第2話 諮問探偵ハーデット

「エヴァンスさん!」


 ぼんやりと怪奇かいきを振り返っていた私は、男の低い声で現実に引き戻された。

 石畳をうっすらと照らすガス灯に激突する寸前だったようで、かすかに鉄のにおいがするほど鉄柱が眼前に迫っていた。


「大丈夫ですか」

 声の主であるボウマン刑事は呆れた様子でこちらを見ていた。


 歳は四十ぐらいかと思われるが、警察特有のボビーヘルメットからのぞく青い瞳、日焼けした肌、短く刈り揃えられた口ヒゲ、濃紺のうこんのグレートコートが若々しくも見せるし、年齢以上の威厳も見せた。


「……ええ、失礼しました。つい……」

「すぐに済むと思いますから、もう少しだけお付き合い願いますよ」

「わかりました」私は恥ずかしさを感じながら言った。


 いけない、気をしっかり保たなければ。


 今日は朝から働き詰めで、夕暮れ時に発生した劇場火災の挿絵を明日の朝刊に載せるため大急ぎで仕上げ、帰宅中にあの怪事件に遭遇したのだった。身体は休みたがっているのに神経が昂ってしまっている。少し意識が遠のくような感覚を覚えたが、事件に協力することは私の使命だろうと思われた。


 私はあの、遺体の空中浮遊という怪事件を目撃したあと、このボウマン刑事に声をかけられた。私のほうからいくつか話をしたがボウマン刑事からの質問はなく、ただ彼に付いてくるよう言われたのだった。私に会わせたいひとがいるそうだ。


「着きました。ここです」

 辿り着いたのは、一見すると普通の下宿だった。近隣の建物と同じくレンガ造りになっていて、目立った装飾品はなく、玄関前の小さな花壇に咲いた名前のわからない青い花だけが彩だった。


 黒い扉につけられた真鍮しんちゅうのドアノッカーをボウマン刑事が鳴らすと、しばらくして戸が開いた。

「夜分にすまん、ハーデット」


 部屋の中から、私と同じ二十代半ばと見られる人間が出てくると、樫材かしざいかマホガニーの木材家具の香りとワックスの甘い香りがかすかに外に漏れた。


「君ならいつでも歓迎するよ、ボウマン君」


 すらりと背が高く、つややかな金髪と中性的な顔立ちから女性かと思ったが、発せられた柔らかく低い声がそれを否定した。


「初めまして。私はアレクシス・ハーデットと申します。エヴァンスさん」

 見知らぬ男に突然、自分の名前を呼ばれた私は差し出された手を握る直前で固まった。


 私は、アレクシス・ハーデットと名乗った男の顔をもう一度よく見た。


 あごの下まで伸ばされた金髪、小紫こむらさき色の瞳、綺麗に通った鼻筋や端正な輪郭が彼の顔立ちの良さを引き立たせている。男の私でも注意をひかれるほどの風貌ふうぼうをしているので、面識があれば忘れるはずはないのだが、やはり思い出すことはできなかった。


 じっと見つめているうちに、彼の視線がまっすぐこちらに向けられていることに気づいた。その目に自分がどう映っているのかを想像して、わずかに身じろぎした。きっと疲れの色が濃く出ているに違いない。目元には薄い隈があり、くせのある焦げ茶色の髪はこの湿気でいっそう乱れているはずだ。


 自分と目の前の男との対比が妙に恥ずかしかったが、宙ぶらりんになった握手を放置するわけにもいかなかった為、気まずさを感じつつ握った。


「ああ、ええと……」

「ずいぶんとダイエットを頑張られているようですが、トレーニングも追い込みすぎはよくありませんよ。学生時代から増えた体重は五キロ程度でしょうか?」


「えっ」

 一瞬、時間が止まったように感じた。ただ顔見知りというだけでなく、学生時代の私のことも知っているとは思いもしなかった。ただ、このような男と交流した記憶がまったくない私に、これ以上取り繕うことは不可能と思われた。


「やはりどこかでお会いしたことがあるんですね。すみません、失礼ですが私は人の顔を覚えるのが不得手ふえてでして……」

「いいえ、エヴァンスさん。我々に面識はありませんよ。ほら、先ほども初めましてと申したじゃないですか」ハーデットは気にした様子もなく、むしろどこか誇らしげに微笑みながら言った。


 事件を目の当たりにしたことでいまだ頭が混乱しているのだろうか。それとも疲労のせいだろうか、私はこの男の言っていることがうまく理解できなかった。


「あ、あの、では一体……」


「さぁ、ここは寒いですから、中へお入りください。誠実で友情に熱いが、少し臆病なところのある画家のエヴァンスさん」


「……」


 ふらっと目まいがした私の体をボウマン刑事が支えてくれた。

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