第3話 敗者再戦(下)

子供が何を考えているのか分からないことに悩む親は少なくないだろう。

世代の差だったり、見ている世界が違ったりと、要因は様々あるかもしれない。

私自身も例に漏れず、今日も息子は、小さく帰りを告げたかと思うと、そのまま自室に引っ込んでしまった。


別に無視されることに憤りはない。

寂寥感は否めないが自分の子供が憎いと思ったことはない

ただ、理解してやれないというのが、親としては無性に辛い。


落ちるばかりの成績、染め上げられた金髪に、耳元で揺れているピアス。

私が学生の時には厳しく禁止され、あるいは叱責されたものばかりだ。


時代が変わったといえば、それまでなのだろう。

しかし、息子がどうしてああなってしまったのだろうと考えずにはいられない。


私のせいなのだろうか?


8年前、妻が病でなくなった。

あと数か月、発見が早ければ、助かっていたはずだった。

私がもう少し妻を気にかけていれば、息子から母を奪わなくて済んだのかもしれない。

そんな慚愧の念に囚われて、私は仕事に没頭した。

社会的地位が高まるにつれて、息子との会話は減っていった。



そこまで考えたところで、ぼんやりと眺めていた時計が18時を示したことに気が付く。

もうじき夕飯を作らなければならない。

妻が亡くなってから、家事はすっかり板についてしまった。

今日の献立はどうしようか?

冷蔵庫を覗き込むと、野菜はまだあるし、米も週末にまとめて炊き、冷凍してある。

肉魚は少し少なく、豚肉が一パックあるだけだ。


適当に肉野菜炒めでも、と立ち上がり、エプロンを手に取ろうとしたとき、棚に置いたままのレシピ集が目に留まった。


生前の妻が書き残したものだ。

妻は料理が大好きで、自身でもレシピを書き留めていた。

妻が亡くなって、直後の1年は、このレシピ集に随分と世話になったものだ。


郷愁からパラパラと読み返してみれば、最後のページにはカレーが書かれていた。


「そうだな。今日はカレーにしよう」


棚を探ると、カレーのルーが見当たらない。

これではカレーは作れない。やはり適当な炒め物にしてしまおうか?

そこまで考えてチラリとレシピ集を見ると、ページの端が汚れていることに気づいた。


そうだ。妻にどうして料理が好きなのか尋ねたことがある。

まだ息子が生まれる前の事だ。

私の問いに、妻は、試行錯誤が好きだからと答えた。

どうして料理なのかと重ねて尋ねると、妻は小さく笑って、食べている時はみんな料理に夢中で、顔がよく見えると言った。




思い返してみれば最後に息子の顔を面と向かって見たのはいつだろう?

いつまでも向き合わないばかりで、顔を見ない理由ばかり探していた気がする。


気の迷いかもしれない。しかし私は、気づけば息子の部屋の前に立っていた。少しだけ迷い、小さく深呼吸をして、扉をたたいた。


「今日は、カレーにしようと思ったんだが、カレーのルーがなくてな。

父さんは買い物に行こうと思うが…一緒に行かないか?」


少しの沈黙の後、扉が開いた。

どうやら息子も驚いているらしく、少しうかがうような視線で見つめてくる。


「買い物?」

「そうだ。スーパーまで、カレーのルーを」

「今から行くの?」

「そうだ。…一緒に行かないか?」


重い沈黙が流れる。戸惑いにも似た妙な空気が漂う。


「わかった…」


少し間をおいたものの、息子は扉を開けた。

一瞬、部屋の奥の机のライトが付いていたことに小さく驚いた自分がいた。


特に会話もないまま、私たちは並んでスーパーへの道を歩く。

「カレーの辛さは何がいい?」

「中辛、父さんは?」

「私もだ」


言葉が続かない。どちらが悪いというわけではない。ただ、会話のやり方を互いに忘れてしまったのだろう。

8年の空白は、そのまま私たちの言葉まで、白く消し去ってしまったようだ。

何を話せばいいのか、何を話してはいけないのか、そんなことばかりが先に立つ。



スーパーの明かりが見え始めた時、不意に息子が口を開いた。


「父さん、俺、もう一回勉強してみるよ」


唐突だった。けれど、それ以上に、自分でも気づかぬうちに見失っていた何かを、もう一度見つけたような感覚だった。


そうだったな。私が目を背けていただけで、今、その息子は戦っているのだ。


私自身、妻の死と共に目を背けていたのかもしれない。

この子は、私だけじゃなく、芯の強くて優しかった妻の血も、ちゃんと引いている。


「そうか…いいことだ」


その言葉だけを返して、少しだけ軽くなった空気のままにカレーを買い終え、来た道を引き返す。


「父さん、カレー、俺も手伝っていい?」


そうか…いつの間にか、作られるばかりではないのだな。

私が見ていないところで、息子も成長していたのだ。自分で努力して、手伝いを申し入れるほどに。


「ああ」


歪でぎこちなく、そして、生ぬるい関係なのだろう。

夫としても、父親としても、私は多くを失敗した。

だが、たとえやり直しがきかなくても、もう一度、再開することはできるのかもしれない。


「勉強、頑張れよ」


今はただ、信じよう。何よりも、私たちの子供なのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る