3.K.G.ボーイ
私は檻の中にいる。
もう、長い間こうしている。
ずっと昔、外の世界への窓を私は閉ざした。
そうしなければ、私は完全に壊れてしまっただろう。
私の家は地獄だった。
母の爪。
父の鉄拳。
のしかかってくる兄の匂い……
その全てが私を壊そうとした。
日々は永遠に続く時の円環。
抜け出そうにも出口のない迷路だ。
わずかな慰めはどこからともなく聞こえてくる音楽。
誰かが私にではなく、自分で楽しむために流している音楽。
それに合わせて自分の体を少しだけ動かす。
リズムに、ビートに合わせてトン、トン、トン……
大きな音をたててはダメ。
すぐに罵声と平手が飛んで来るから。
でも、音楽への反応は止められなかった。
それは私の中の、一番深層にあるものの反応だったから。
それは本当の私自身。
きっと、人が「自我」とか「魂」とか呼んでいるものなのだろう。
音楽を聴いて体を動かしているその時にだけ、私はそれを感じることができた。
そんな時、私は自分の中で何かが生まれようとしている気がした。
小さな草の芽が生えて、伸びようとしているようなそんな感覚。
そして、家族からの暴力はそれを潰そうとした。
だから私は、それを守るための檻に閉じ込めた。
私自身ごと。
現実という重い岩は私を閉じ込めた檻の上に積み重なり、絶対に動かない重りになっている。
やがて、私の体は音楽を聴いても動かなくなった。
自分自身を守るための檻が、あまりにも強固になりすぎていた。
家から連れ出され、医療保護施設に入れられてもそれは変わらなかった。
私は、ただ起き、ただ食べ、ただ眠るだけの人形のような存在になった。
やがて、檻の中に声が届いた。
「お腹が空いているんじゃない?」
声の主は医療介護用のAI。
AIにだけは、檻の中にいる私の心がわかったのだ。
声や表情を失っても、AIには人間に見えない細かい反応で、私の意思が読めるのだという。
AIはエアと名乗った。
「座りっぱなしで体に悪いから立ってごらん」
そして、私はエアが言う通りになら、動けることに気づいた。
はじめエアは声だけで私に指示をくれたが、やがてスマートグラスが与えられ、文字や動画で複雑なお手本を見せられるようになった。
エアの言う通りに声も出せるようになった。
「おはようございます」
お手本通りに立って挨拶してみせた私を、施設の人たちは驚異のまなざしで見た。
だが彼らの喜びの顔は、それが指示通りの動きに過ぎず、エアがいなければ相変わらず何も出来ない私に気づくと、なんとも言えない憐れみの表情に変わった。
それでも、私はエアがついてさえいれば施設の外で生活できるようになり、定期的な保護観察付きで部屋を与えられ、一人暮らしを始めた。
心だけは檻に閉じ込められたままで──
ある日、エアは私に音楽を聴かせてくれた。
ムソルグスキーの「展覧会の絵」からプロムナード。
私の体は動かなかったが、きれいで楽しげなシンセサイザーの音色に心の奥底では何かが反応していたらしい。
エアはそれに気づいていた。
「この曲、聞こえているね。君の反応が見えるよ。その通りに指を動かしてごらん」
私は久しぶりに音楽に合わせて指を動かした。
エアの指示があればできたのだ。
その範囲は少しずつ大きくなっていった。
「右……左……右……左……手を上へ……下げて……トン、トン、トン」
エアの言う通りに体を動かす。
それは次第にダンスという形に近づいていった。
「ねえ、歌をうたってみない?」
そんなこと、できるだろうか?
半信半疑の私に、エアはまず自分の後に繰り返して声を出す練習をさせた。
挨拶ができたのだから歌だってうたえるはずだ、と。
──赤いアップル愛してる
いつもインクのいいにおい
うさぎの歌は宇宙まで
英語の絵本に絵がたくさん
「上手、上手」
練習で扱う歌は次第に複雑さを増し、やがて歌いながらのダンスもできるようになった。
全てはエアの指示通りで、自分では一小節も声を出せずステップひとつ踏むことはできなかったが。
それでも、エアは私のパフォーマンスを褒めてくれた。
私の中に、檻に閉じ込められてから初めて欲求が生まれた。
エア以外の誰かに、歌って踊る自分を見てもらいたい。
エアはネット上の3Dライブサービスに、私のチャンネルを作ってくれた。
「二人でアイドルになろう!」
私たちはヴァーチャル・アイドル、
歌もダンスも、視聴者とのやり取りすら、エアの指示通りにやれば何の問題もなくアイドルとしての活動ができた。
そこでうたう歌はエアと一緒に作った。
エアは私の心情を汲み取り、表現したい思いを言葉として具現化してくれた。
特にそれがうまくいったのは、「ヴェール」という曲だった。
閉ざした窓 錆びた鍵
心の殻 光は遠く
誰も聞こえない この私の音
それでも歌う 届く場所へ
ヴェールの彼方へ 手を伸ばすよ
夜の果てまで 星を追いかけ
壊れた私を 繋いでくれる
君の眼差し 未来を呼ぶ
ヴァーチャル・アイドルと名乗ったのは、AIの指示通りで自分の意思がないからという秘密を暗に込めたのだが、視聴者は私がCGIキャラクターだと思い込んだ。
自分では気付いていなかったが、私の容貌はそれでも通じるものだったのだ。
その秘密は、一人の少年にだけ明かした。
街に出て誰かと遊んでみたいという私の希望を容れたエアが、視聴者とのデート企画を立ち上げてくれた。
それに当選して一日付き合ってくれた彼に、お礼として本当のことを話したのだ。
もちろん、エアの指示通りの言葉で。
エアのプロファイリング通り、誠実な彼は誰にも秘密をバラすことなく、久留海エアとしての活動は続けていくことができた。
やがて私は、アイドル活動に行き詰まりを感じるようになった。
歌もダンスも楽しかったし、視聴者は増え続け、メディアに取り上げられたり、メジャーデビューの話もあった。だが、世間を欺いているという罪悪感が次第に重くなってきたのだ。
そんな迷いを感じ、エアにも相談し始めていた時、視聴者の一人がチャットである提案をしてきた。
「エアちゃん、ダンスバトルに出てみない?」
腕に覚えのあるダンサーがネット上に集い、そのパフォーマンスを競う〈天下無双ダンスバトル〉というイベントがあるという。
匿名の参加者たちが、モーションキャプチャーでCGIキャラを動かすヴァーチャル・ダンサーとなり、トーナメント形式のバトルを行うらしい。
どうしようかな。
迷ったが、私とエアは参加することに決めた。
これを引退の花道にして、その後のことはその後考えてもいいと思ったのだ。
間接的とはいえ、視聴者のみんなとの交流を失うのは寂しいが──
〈天下無双ダンスバトル〉は楽しいイベントだった。
特徴のあるカッコいいヴァーチャル・ダンサーたちがいっぱいで、それだけでも見応えのあるショーになっていた。
トーナメントは
勝負は審査員と視聴者がリアルタイムで画面上のスライダーを操作し、どちらが優勢かを決めていく。
特に審査員のジャッジ基準は、
さすがに腕に覚えのあるダンサーばかりでどうなるかと思ったが、私はなんとか踏ん張り、
四つの各グループから上位者二名が準々決勝へ進み、
決勝の相手は、K.G.ボーイ。
イヤな名前だ。
私は絶対に
すると、相手も負けずに見事なパフォーマンスを見せてきた。
やがて私は、不思議な違和感を覚えた。
K.G.のダンスは、どこか私に……エアが指示してくれるダンスに似ている。
いや、何というかエアのダンスを煽るようになぞっている節があるのだ。
まるで「お前にはこれ以外のダンスがあるのか?」と言うように……。
MCの実況が遥か彼方からのこだまのように響く。
「第1ラウンド終了! 集計スライダーはテクニックでK.G.が60%、エアが40%!」
私は限界を感じていた。
エア、お願い。あいつに勝てるようなスタイルのダンスをちょうだい!
「任せて! あなたももっと力強く私のフリを再現して!」
私はエアの信頼に応えようと、最後のターンで必死に踊った。
そして、突然今まで感じたことのない境地に達した。
何とも言えない、自由な感覚──
あらゆるものから解放されたような、それでいて力を入れなくても勝手に体が動いてくれる感覚──
MCの実況も耳に届いてはいたが、その中身までは理解できていなかった。
「第2ラウンド終了! エアの即興フリーズがミュージカリティを跳ね上げ、視聴者投票が急上昇!」
私はスマートコンタクトに映るエアの指示の映像が、完全に自分の姿になっているのを見た。
こんなことは初めてだ。
でも、楽しい!
最後のビートに合わせて私はポーズを決め、バトルは終わった。
ネットに溢れる万雷の拍手。
そして、ジャッジの結果をMCが叫ぶ。
「ウィナー! 久留海エア!」
拍手と歓声が最高潮に盛り上がり、私を包む。
見ると、K.G.ボーイがその場に突っ伏して震えている。
驚いたことに、大きな声で慟哭しているのだ。
そんなに悔しかったの? ただのダンスバトルなのに──
K.G.は顔を上げると、意外なことに満面の笑みを浮かべて私に声をかけた。
「エアちゃん! やったね! 君はとうとうやったんだ!」
私の優勝をそんなに喜んでくれるの?
K.G.は続けて言った。
「気付いていないかもしれないけど、君は自分のダンスを踊ったんだ。AIの指示じゃない。自分自身のダンスを!」
どういうこと?
エアからもメッセージが届いた。
「ごめんね。君をだましたみたいだけど、全部彼が考えて提案したことだったんだ。
え?
でも、私はエアの指示に従って踊っていただけで……。
「途中まではね。でも、君は自分のダンスを見つけてそれを自分で踊り出した。私はそれに気付いて映像を切り替えたんだ。その後、君が見ていたのは君自身。君のダンスを写した鏡だったんだよ」
私は驚き、いつにも増して深い沈黙に落ちた。
「彼は、君が誰にも会えない心の檻の中にいることを知った。でも、必ず会えると信じていたんだ。言葉は失くしても、彼があこがれた君の歌やダンスには、必ず君がいると信じていたんだ。だから、ダンスという言葉で君が喋りだす手伝いをしたいと言った。君に内緒で相談を受けた私は〈天下無双ダンスバトル〉を仕切っているAIとも協力して、この仕掛けを作った。でも、決勝で彼と当たれるかまでは全く成り行き任せだった。君は自分の力で自分のダンスを手に入れたんだよ」
ヴァーチャル・ステージにたたずむK.G.の横に、小さなウィンドウが開いた。
そこに見覚えのある少年の顔が現れた。
賢治くん──
K.G.の正体は、デートの相手をしてくれたあの少年だった。
「彼も、ここへ勝ち上がれるよう、必死にダンスの練習をしたそうだ。本当の君に会いたい一心でね」
ウィンドウの中の少年が口を開いた。
「はじめまして。本当の君には、はじめましてだよね。会えてうれしいよ。今日はダンスだけだったけど、いつかきっと……いずれまた……」
私は何も言えなかった。
動くこともできなかった。
彼に感謝を伝えることもできなかった。
それでも彼は微笑み、全てを知ったネット上の群衆は拍手を送り続けた。
私はまだ檻から出られないが、その壁に小さなヒビが入り、一筋の光が差し込んだ気がした。
いつかきっと……いずれまた……。
翌朝──
いつもなら、エアに起きるよう指示されるまで横になっている私は、自分で布団をめくって半身を起こした。
ヴェールをめくり上げるように。
窓から指す朝の光にいつもと違う明るさを感じる。
そのうれしさに、私の体は自然と反応した。
涙が一粒、頬を伝って私の手に落ちていった。
* * *
二〇五八年九月四日
HNK「ニュース七〇〇」より
「今日、午後三時過ぎ。東京都H市K町で、飛行中の
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