第八章 差し出される未来
玉座の間に、重い沈黙が支配していた。聖剣は床に転がり、勇者は崩れ落ちたまま、自らの内なる「偽善」という名の怪物と対峙していた。
魔王は、その姿を静かに見つめていた。しばらくの時が流れ、やがて仮面の下から、深い息遣いと共に言葉が紡がれた。その声は、厳しさの中にも、どこか労わるような響きを帯びていた。
「……ようやく、己の心の奥底にある影と、そしてこの世界の歪みと、真に向き合う準備ができたようだな、勇者よ。その痛みこそが、真実を見つめた者の証だ。お前が『何も見えていなかった』と感じたのなら、それはこれまでお前を覆っていた厚い欺瞞のヴェールが、ようやく剥がれ落ちたということだ」
その言葉は、打ちのめされた勇者の心に、意外なほど静かに染み込んだ。
「もう一度、問おう。我のものとなれ」
魔王の声は、以前の勧誘とは明らかに異なっていた。それは支配者の命令ではなく、共に茨の道を行く者への、魂からの呼びかけのように聞こえた。
「お前の真の敵は、我ではない。お前をここに送り込んだ者たち……彼らは、お前に都合の良い『正義』という名の目隠しをし、真実の半分も教えずに、ただ盲目的な刃として振るわせようとしたのだ。変化を恐れ、己の安寧と既得権益のみを願う者たちの、なんと卑小なことか。そして勇者よ、お前自身が、その欺瞞と無知の犠牲者であったのだ。お前が『何も見えていなかった』と感じたのなら、それは彼らがそう仕向けた結果でもある」
魔王はゆっくりと立ち上がり、勇者の前へと歩みを進めた。コツ、コツと足音が響く。
「お前には、我の剣となってほしい。世界を征服するためではない。人々を欺き、縛り付ける見えざる鎖を断ち切るための、真実の剣に。そして、誰もが自らの意志で、自らの人生を選択できる社会を築くための、希望の剣に」
その仮面の下の表情は窺い知れないが、声には抑えきれない熱がこもっていた。その言葉は、勇者の心に新たな、しかし戸惑いを伴う灯をともした。
「しかし、なんの対価もなく、我のものとなれ、と言っても説得力がないな」魔王はふと、遠い目をする。「対価、か……。古の物語では、魔王は勇者に世界の半分を差し出すというな。だが、生憎と我はこの世界を力で支配し、我が物とすることに何の興味もない。ゆえに、世界の半分をお前にやることはできん。それに、世界の半分では、我の示す道への覚悟は測れまい」
魔王はそこで言葉を切り、勇者の目の前で立ち止まった。その距離は、もはや敵対する者同士のものではなかった。
「だが、我がこの身命を賭して成し遂げんとする理想……その茨の道を、お前が真の理解者として共に歩むというのなら、我は我が魂の全てを、お前の剣の柄に預けよう。それは単なる力や地位ではない。我が背負ってきたもの、目指す未来、そしてその過程にある苦悩と喜びの全てを分かち合う『同志』としての誓いだ。お前が打ち砕かれた『守るべきもの』の代わりに、新たな『共に創り上げるべき理想』を、我という存在そのものを担保として、お前に託す」
想像だにしなかった申し出に、勇者は呆然とした。魔王の周りを覆っていた闇は後ろに退き、そこにいるのは、一人の人間、勇者と等身大の存在だった。
「……自分自身を、だと……? 俺が貴様のものになる対価に、貴様を俺にくれる、というのか……?」
「そうだ」
「意味がわからん」勇者は頭を抱えた。「お互いに相手のものになって、それでどうなる。まさか、魔王が俺に求婚するわけではなかろう」
魔王は、仮面の下でくつくつと喉を鳴らした。それは、嘲笑ではなく、どこか温かみのある、楽しそうな響きだった。
「ほう、そう聞こえたか。……ならば、それもまた一興やもしれぬな」
そう言うと、魔王はゆっくりと自らの仮面に手をかけた。それは、威圧感に満ちた、表情の一切を覆い隠す黒鉄の仮面。勇者は、固唾を飲んでその動きを見守った。
カチャリ、と小さな金属音がして、仮面が外される。 そこに現れたのは――
息をのむほどに美しい、一人の女性だった。 長く艶やかな黒髪がさらりと流れ、仮面に隠されていた白い肌は、窓から射す月光を浴びて淡く輝いている。切れ長の瞳は、長年何かと戦い続けてきたかのような深い理知と、その奥に隠された、癒えることのない悲しみの影を宿していた。しかし、それらを圧倒するほどの、揺るぎない意志の光を放つ、凛とした美貌。その瞳は、間違いなく今まで対峙してきた魔王その人のものだった。
彼がこれまで「魔王」と呼び、断罪しようとしてきた存在。その仮面の下にあったのは、あまりにも人間的で、あまりにも複雑な感情をたたえた、一人の女性の姿だった。守るべきものの正体を見失い、自らの偽善に打ちのめされた勇者は、敵だと思っていたものの姿すら見えていなかった自分の浅はかさに、もう一度絶望した。
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