第七章 守ってきたものの正体
魔王の言葉は、勇者の築き上げてきた信念の塔を、その土台から粉々に打ち砕いた。何が正義で、何が悪なのか。もはや何も判断できない…。だが、それでも、焼け跡のように心の奥底から消えずに燻り続ける一つの原風景があった。それは、幼い頃から夢見てきた、温かい家庭の姿…。
勇者は、崩れ落ちそうになる膝を必死で支えながら、絞り出すように声を上げた。その声は、彼の魂からの叫びのように聞こえた。 「……魔王よ。貴様の言うことは…頭では、理解できたのかもしれん。だが、それでも…もし、この俺が、誰かと添い遂げ、家族を築くというのなら…やはり、家族は皆、同じ一つの名を名乗りたい。そう願ってしまうのだ。それが、俺にとっての…揺るぎない、家族の絆の証だからだ」
それは、論理で武装された主張ではなく、彼の最も純粋で、そして最も根深い感情の吐露だった。
魔王は、その勇者の魂の叫びを静かに受け止めた。その仮面の下の表情は窺い知れないが、声にはわずかな温かみが宿っているかのようだった。
「勇者よ、そのお前の『願い』は、何ら否定されるべきものではない。むしろ、それもまた人間として自然な感情であろう。『選択的』夫婦別姓とは、別姓を強制するものでは決してないのだからな。お前たちが心から望むなら、これまで通り、同じ姓を名乗ることを選べばよい。大切なのは、そこに誰かの意思が強制されるのではなく、お互いを尊重した上での『自由な選択』があるということだ」
魔王の言葉は、勇者の荒れ狂う心に、ほんの少しの安堵をもたらした。だが、それも束の間、新たな、そしてより個人的な葛藤が彼を襲う。
「だが、もし相手が…その、俺が愛する人が、自分の生まれ持った姓を、どうしても変えたくない、と強く願ったら? 俺は同姓がいい。相手は自分の姓がいい。そうなれば、どちらかが自分の心を殺し、我慢せねばならんではないか。それは…あまりにも悲しいことではないか」 それは、彼にとって、まさに究極の選択だった。自分の理想の家族像か、愛する人の切なる願いか。
魔王は、その勇者の苦悩を見据え、静かに、しかし核心を突いて問うた。
「ふむ。では勇者よ、もしお前が、相手のその『自分の姓を大切にしたい』という切なる想いを、心から尊重したいと本気で願うのであれば、お前自身が、相手の姓を名乗る、という選択肢もあるのではないか? なぜ、その可能性を最初から考慮の外に置くのだ? なぜ、姓を変えるのは常に『相手』であると、無意識のうちに決めつけてしまうのだ?」
その言葉は、勇者の思考を完全に停止させた。
「俺が……? 俺が、家の名を捨てるというのか!?」 具体的な想像が、彼の脳裏を鮮明に駆け巡る。例えば、相手が「佐藤」という姓だったとしたら、自分が「佐藤勇者」と名乗り、呼ばれる……。 「馬鹿な! 俺は、この村の、代々続く勇者の家の名を継ぐ者として育てられたのだ! それを、俺がまるで婿養子のように、相手の家の名を名乗るなど……! 親に説明することもできない……。そんな女のような……屈辱的なこと、俺にできるはずがない!」
彼の叫びには、深い苦悩が生々しく表れていた。
魔王は、その勇者の苦悶の表情を真正面から受け止め、静かに、しかし一言一言に千鈞の重みを込めて告げた。
「……そうか。自分の姓が変わる可能性を想像しただけで、それほどプライドを傷つけられ、自らの存在意義すら揺らぐのだな、勇者よ。その『考えたこともなかった苦しみ』、その『屈辱的な想像』。それこそが、この国の数え切れぬ女性たちが、何十年、何百年と、愛する人と結ばれるという人生の大きな喜びの陰で、声もなく、あるいは声を上げても聞き入れられず、ただひたすらに耐え忍んできた痛みそのものなのだ」
魔王の声は、玉座の間に厳粛に響き渡る。
「お前が『従来の制度なら悩まなかった』と安堵する、その『悩まなかった』世界の裏側で、誰かがその痛みを、その屈辱を、一身に引き受けてきたのだ。お前は今、その途方もない痛みの、ほんのひとかけらを、想像の中で垣間見たに過ぎない」
「そして」魔王は言葉を続ける。その声には、深い悲しみと、長年の憤りが滲んでいるかのようだった。「その痛みを『女のように姓を変えるなど』と、無意識のうちに性別と結びつけて卑下し、自分が味わう可能性には目を背けてきたお前の心。愛する人に、自分がこれほどまでに耐え難いと感じる苦しみを『当然のこと』として強いることを、これまで何とも思わなかったその心」
魔王は、錫杖を床に打ちつけた。乾いた音が、玉座の間に響き渡る。
「勇者よ、それこそが、お前が、そしてこの社会が長年、無自覚のうちに育て上げ、見過ごしてきた、醜悪な姿。今、その剣でお前が守ろうとしているものは、ただの偽善だ」
「偽善……」
その一言が、勇者の全ての思考を、そして彼の存在そのものを打ち砕いた。
「俺が……俺自身が……偽善者……?」
魔王の言葉は、これまでの論理的な衝撃とは全く異なる、より個人的で、倫理的な、そして魂を直接打つような重みを持って彼にのしかかる。自分の発言の持つ意味、無意識の差別性、そして何よりも「愛する人に味わわせる痛み」への想像が、彼の中で具体的な形を結び始め、深い羞恥と、言葉にできないほどの罪悪感となって彼を襲った。
「俺は……何も見えていなかった……何も……」
もはや立っていることもできず、勇者はその場に膝をついた。聖剣が手から滑り落ち、カラン、と乾いた音を立てて床に転がる。 魔王はそれ以上何も言わず、ただ静かに、そしてどこか悲しげな目で、打ちのめされた勇者を見つめている。 勇者の心の中で、これまでの信念、自分の発言、そして魔王が抉り出した「痛み」と「偽善」が激しく衝突し、自己嫌悪と混乱が渦巻いていた。 しかし、その崩壊のただ中で、勇者はふと魔王の瞳の奥にある深い悲しみのようなものに気づいた。
(この者は……一体何を背負って……)
これまでとは全く質の異なる疑問が、彼の心にかすかに芽生え始めていた。
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