1章-6(1章終)
翌朝、まだ日が昇り切らない頃。
ユーリがそっとスーインの寝室に入った。
出立の朝だ。
スーインはもう起きて、寝台に腰かけていた。
かねてより侍女としても仕えてきていた、エマとサラが身支度を整えるために控えている。
部屋に入ると、ユーリは静かに一礼した。そのまま黙って部屋の隅に立ち、成り行きを見守る。
薄物の夜着をまとい、豊かな黒髪を流したままのスーインの姿は、どう見ても大公家の姫にしか見えない。だが、その目に宿る光は、姫という名にはふさわしくない強い光をたたえていた。
「お方様、ではお着替えを」
エマがそっと声をかける。
スーインは一つうなずくと立ち上がり、部屋の中央に歩み出た。
サラはその間に、武官の装束である鎧一式を持ってくる。
スーインは夜着を脱ぎ、鎧の下に着る衣服を着込む。ほぼ男性用のそれは、ユーリなどには着るには戸惑うものばかりだが、十五歳ぐらいからすでに騎士団団員として辺境防衛に出ていたスーインは、迷うことなく的確に身に着けていく。
介助のエマも、心得たものでほとんど手を出すことなく、しかしスーインのリズムを乱さないタイミングで衣装を渡していく。
あとは鎧を着るだけ、になったところで、スーインはエマを止めた。
そして、机の上に用意していた
「ユーリ。女の黒髪にはどんな意味があるのだろうかね?」
「えっそれはその……女性性、といいますか……」
突然の思いもしないスーインの質問に、ユーリは驚きすぎて、らしくない平凡な回答を返してしまう。
「そうだな。女性らしさの象徴だ。このように武具を身に着けることが当たり前のわらわでも、この髪の長さだけは、どうしても一般的な女性の長さと美しさを保つことにこだわった。この長さを美しく保つのは、なかなか手間のいることで……エマとサラには苦労を掛けたが」
そう言うと、労わるように二人を見る。
そしておもむろに、腰までの長く美しい髪を左側と右側にわけ、それぞれ体の前に持ってくると、背中の真ん中あたりを左手でつかみ、まず左側から切り落とした。
「スーイン様!」
何が起きたかわからないユーリは、早朝であるにもかかわらず、思わず悲鳴のような声を上げる。
だが、スーインは構わず、手にした髪の束を机の上に置くと、今度は右側の髪を同じように背中の真ん中あたりをつかみ、切り落とした。それも机の上に置く。
机の上には、二束の豊かな黒髪が置かれ、さながら水紋であるかのようだった。
「ユーリ。これは、わらわに万一のことがあったら、サリフとラーニアに渡すのだ」
エマはあらかじめ聞いていたのだろう。水を思わせる美しい青のひもを使い、二つの髪束をくくっている。
サラが水紋が描かれた青い木の箱を持ってきて、一つ一つ髪束を収めた。
こんなものまで用意されているということは……
思考の上でさえ、この先を考えることはユーリにはできなかった。
だが、ここまでの覚悟を見ると、駄々っ子のように泣いて引き留めるわけにもいかないと、ようやく覚悟も定まる。
エマとサラが切り落とした髪を処理している間に、スーインは自身で髪を高い位置に一つで結った。
「続けよ」
短く命令が下され、またエマが淡々と鎧を着せ付け始める。
「やはり……私だけでも連れて行ってはいただけませぬか」
長年外回りを担当してきたサラが、跪くと、絞り出すように懇願する。
「ならぬ。そなたには右大公家を護衛する責務がある」
「ですが」
なおも言いつのろうとしたサラは、涙をたたえたエマの視線に止められる。
そう。もうどうにもならないのだ。
やがて、スーインはすべての装束、装備を身に着け終わる。
「ユーリ。この装束と鎧一式はな。わらわが十八のときに、三年間の南方辺境防備に従事し、防衛に成功し続けたことで、先王から下賜されたものなのだよ」
水の国を象徴する美しい蒼の鎧に、右の肩甲に水の精霊、マーメイドが象られたモチーフが美しい。
鎧の下の装束は右大公家を現す赤。赤と蒼が互いを引き立て合い、非常に映えていて、今のスーインが放つ威厳を引き立たせている。
先王は、わずか十八のスーインに、将来これだけの威厳が将来備わると見越して、この鎧一式を下賜したのだろう。
そう素直に信じられるほど、この鎧をまとったスーインの姿は、国を守る決意と相まって気高く、美しかった。
「スーイン様。国を守るご意志、ここに」
言うとユーリは右手の握り拳を胸に当てる。
「確かに受け取りました。あとは憂いなく、お任せください」
ユーリの頬に涙が一筋、伝う。
「それでもやはり言わせてください。ご無事のお帰りを、お待ちしています。ご武運を」
スーインはうなずくと、右手でユーリの肩を、軽くたたく。
そして微笑むと、朝の光の中へと足を進めた。
**
それからおよそ半刻たち、朝議が始まる刻限になった。
スーインが南方国境に旅立つあいさつに来る、とのうわさが流れ、廷臣たちの好奇心に満ちたささやきが広がる。
ざわつく朝議の間に、赤い右大公の朝服を着た人物が現れ、ざわめきが最高潮に達した。
騎士団団長として国境に赴くスーインは、文官の朝服ではなく武官の鎧姿で旅立ちの挨拶に来るはずなのだ。
なのに朝服とは、やはりスーインめ、おじけづいたか……?
と、一瞬侮蔑のささやきが広がりかけるが、すぐに驚嘆のささやきが取って代わる。
「エ、エルディオ殿……?」
「これはどういう?」
そのうち、一人の廷臣が思い出す。
「そ、そういえば先日のサリフ殿の釈明の時、右大公家『嫡男』と奏上しておったではないか?」
「お、おお。そうじゃ」
「と、言うことは、スーイン殿はエルディオ殿に爵位を譲られた、と?」
ざわめきをものともせず、エルディオは今までスーインが座っていた右大公家の椅子に着席をした。
それからほどなくしてアーサーが現れ、朝議が始まろうとした。
「朝議に先立ち、騎士団団長よりご挨拶がございます」
エルディオの声が広間に響き渡る。
それと同時に鎧を身に着けたスーインが、カイルとキリアンを従え現れた。
アーサーの前に進むと、3人とも礼を取る。
「右大公家長女、騎士団団長スーイン、仰せに従い火の国との開戦を阻止するべく、南方辺境の地に赴き、和平交渉を行います」
「あいわかった。活躍を期待している。……出立はいつになる?」
「一刻ほどののちに」
「では、見送ろう。武運を祈る」
「ありがたき幸せ」
スーインは深く頭を下げると立ち上がり、まずアーサーを見、そのあと空白になっている左大公家の席を見、そして最後にエルディオを強い視線で見た。
エルディオは、正面から姉の視線を受け止め、軽くうなずいた。
スーインもうなずき返す。それは、右大公家の義務と権利の受け渡しの儀のように、廷臣たちの目には見えた。
そして次の瞬間、スーインは廷臣たちを睥睨する。
その圧に、廷臣たちは震え上がる。
それはスーインの狙いだった。
自分たちがしたことの結末をしかと見届けよ、行動に責任を取れ、というスーインの最後のメッセージだった。
贄にもなれぬまずい奴らめ。
貴族のたしなみとして、今まではそのような侮蔑をおくびにも出さない社交を心がけてきたが、もうあとがないとなれば、遠慮はせぬ。
そして傲然と、スーインは広間を出ていったのだった。
**
前庭に、騎乗したスーインとキリアンが出てきた。青空に、蒼い鎧がよく映える。
「副団長は一人しか行かないのか?」
前庭を見渡せるバルコニーに立ったアーサーは、右隣に控えるエリシアに、そっと問う。
「はい。カイルは残った騎士団をまとめる役目がございますれば」
生きて帰れと言ったはずだ。
アーサーの胸を嫌な予感がかすめる。
1個師団ほどの騎士達が隊列を組み終わると、スーインはバルコニーを振り返った。
あまりにも遠い距離。
しかし、二人の視線はしっかり絡み合った。
そして、スーインは馬上の礼を取ると晴れやかに笑った。
表情が見えるような距離ではない。だが、アーサーには、命を懸けて出立するスーインは、ここで晴れやかに微笑んでいると確信できた。
やがて、スーインは馬首を返して出発した。
一行が見えなくなる頃合いを見て、エリシアが口を開いた。
「カイルは残って後方支援に責任を持ちます。……兵站は決して、止めませぬ」
いくつか前の夜、エリシアに兵站が止まった戦地の惨状をエリシアに説いたことをアーサーは思い出した。
それを覚えていて、寄り添ってきた王妃を、アーサーは改めて見直す。
「エリシア……礼を言うぞ」
そして、改めて南方の空を見る。
これだけの人間が、お前と志を同じくし、困難な任務の完遂を助けようと奮闘しているのだ。
何があっても、生きて帰れ。
それに俺は、国を守るというスーインを支えるために王になったのだ。お前がいなくなったら、俺は、何を守り支えていけばよいのだ?
騎士団が見えなくなってもしばらく、王の影はバルコニーの上にあった。
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