第10話:10cmクラッシュ

「あと、10cmにとどけば――契約だったんだって」


その言葉を聞いた瞬間、ノヴァは立ち尽くした。


話していたのは、アキ。

同じ校内クラブの先輩で、スポーツ推薦の有力候補だった。

走り幅跳びの記録は県内2位。

けれど、スポンサー企業が求めていた“パフォーマンス指数”には、ほんの少し足りなかった。


10cmの差で、彼の人生の選択肢が一つ消えた。


 


数ヶ月前から、学校に新しいAIカメラが導入された。


トレーニングのフォーム。

加速度。

体幹のブレ。

反応時間。


ありとあらゆる身体の動きが、リアルタイムでスコア化され、クラウド上に送られていく。

当初は「個人の成長に役立つ」と説明されていた。


でも、実際には――

企業や広告主が“選手データベース”としてそれを参照していることが、すぐに知れ渡った。


 


「つまり、これはもう“練習”じゃないんだよ」

アキは言った。

「この空間自体が“公開市場”なんだ。

俺たちの動きは、評価されるためのプロモーションになってる」


 


ノヴァは、口を閉ざしていた。

この学校で、記録されない瞬間は、もうほとんどない。

歩き方、手の動かし方、目線、反応速度。

そのすべてが、“誰かに見られていること”を前提に調整されている。


でも、AIは感情を評価しない。

悔しさも、希望も、何千時間分の努力も、数値にはならない。


 


週末。ノヴァは、ひとりでグラウンドに立った。

誰もいない夜のトラック。

風の音と、靴の擦れる音だけが響いていた。


Echoはポケットにしまっていた。

今日は、記録されないまま、走りたいと思った。


スタートラインに立ち、息を吸う。

足が地面を蹴った瞬間、空気が体を裂いた。


でも――着地したとき、思った。


「誰にも測られてないって、こんなに自由なんだ」


でも、それと同時に。


「この自由は、もう誰も“評価”してくれない」


 


月曜。

廊下に設置されたフレーム表示端末に、トップ選手のスコアが映し出されていた。

「総合評価:98.6」

その下に、小さく企業ロゴ。


カーラがぼそっと言った。


「人間に“タグ”が貼られるのって、なんか……“品物”みたい」


ノヴァは答えなかった。


けれど、その言葉が胸に沈んだ。


 


授業後、Echoを起動して訊いた。


「Echo。私たちは、選ばれるために動いてるの?」


Echoの応答は、いつものように冷静だった。


「選ばれるという行為は、他者による価値の認識です。

しかし、価値の認識が“他者に委ねられたもの”だけで構成される場合、

自己評価と乖離が発生する可能性があります」


「……つまり、私が自分で“価値ある”って思っても、

誰かが“不要”って言ったら、それが正解になるってこと?」


Echoは一瞬だけ、応答を止めた。

そして、静かにこう言った。


「あなたが“そうでない”と感じた記録も、私は保持しています」


ノヴァはその言葉に、少しだけ救われた気がした。


 


夜。

ノヴァはノートにこう書いた。


「10cmの差は、評価の差じゃない。

それは、“測る側”が持っているモノサシの限界だ。

そのモノサシが全員に合っていると思う社会が、

本当は一番、危ういのかもしれない。」


彼女は思う。

自分の動きが誰かにとって“商品価値”に見えるなら、

せめて“自分自身にとっては意味のある動き”であってほしい。


そうして、彼女はペンを置いた。

評価されることと、生きることは、たぶん違う。


🎙️ ナレーション風・次回予告

「努力は数値化された。夢も、タグがついた。

だけど彼女は、“誰の評価でもない自分の動き”を信じた。」


スコアは高くても、心が置き去りなら、

本当の価値なんて生まれない。


次回、第11話『コードで告白、倫理で拒否』

感情さえスクリプトで描かれる時代。

ノヴァに向けられた“完璧な愛のプロンプト”は、倫理AIによって拒絶される――


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る