第6話『わたしの力で、守れるなら』

風が鳴いていた。


 


……違う。

それは――子供の悲鳴だった。


 


アヴェルは扉を蹴り開け、駆け出す。


 


森の端。

木々の影から這い出してくる、黒い影。


 


四つ足。

泥に塗れた毛並み。

裂けた口。

血走った眼球――


 


それは獣の形をしていながら、もはや獣ですらない。

瘴気に侵され、肉が崩れ、骨が剥き出しになった異形の魔獣。


 


「グオオオオオ……ッ!」


 


咆哮。

逃げ惑う子供たちの間を、魔獣が駆ける。


 


ひとり、転んだ。

血の滲む膝。

立ち上がれない。


 


そこへ、牙が迫る。


 


その瞬間だった。


 


空気が変わる。


 


焼けつくような呪気が地を這い、風を裂いた。


 


立っていたのは――ルア。


 


その右腕に刻まれた刻印が、眩しくも禍々しい光を放っていた。


 


地面を這うように伸びていく黒い呪糸。

次の瞬間、それは跳びかかった魔獣の体へと巻きついた。


 


ギュ、ギギギ……


 


骨が砕ける音。

肉が裂ける音。


 


魔獣の両前脚が、逆方向にへし折られる。


 


断末魔の叫び。

グオォォアアアア!


 


それでも止まらない。

呪糸は獣の口へと潜り込み、喉を這い、内側から身体を引き裂いていく。


 


バキ、ズチュ……


 


血と瘴気と、肉片。


 


まるで、解体される獣。


 


その場にいた誰もが、言葉を失った。


 


次の魔獣が、低く唸りながらルアに飛びかかる。


 


しかし、それも同じ運命だった。


 


ルアの視線がわずかに動いた。

刻印の光が瞬き――


 


空間が、凍る。


 


呪糸が獣の四肢を串刺しにし、動きを封じる。

さらに、頭蓋へ向けて呪力が集中する。


 


ボン、と音を立てて、魔獣の頭部が内側から破裂した。


 


脳漿と黒い瘴気が霧のように舞い、沈黙の中に落ちる。


 


風が止まる。


 


森が、音をなくした。


 


それは、呪いの“領域”。


 


もがくことも、叫ぶことも許されず、ただ命が消えていく場所。


 


誰がどう見ても、それは――残虐な殺戮だった。


 


けれど。


 


その呪いが守っていたのは、怯える子供だった。


 


その力が覆っていたのは、誰かを傷つけようとする者だけだった。


 


すべてが終わった時、ルアの膝が崩れる。


 


アヴェルは無言で駆け寄り、その身体を支えた。


 


刻印から立ちのぼる熱が、彼の手を焼く。


 


「……無茶をするな。お前は、生きていていい」


 


制御魔法を展開し、刻印を抑え込んでいく。


 


そのときだった。


 


「ありがとう……」


 


静かな声。

震えながらも、はっきりと。

少女の母親が、そう言った。


 


周囲の空気が、少しずつ変わっていく。

戸惑いと恐怖の先に、ほんのわずかな理解。


 


村長が前に出て、言葉を落とす。


 


「この子は……“呪い”じゃない。命を守った、“人間”だ」


 


アヴェルの腕の中で、ルアがゆっくりと目を開ける。


 


「……わたし……」


 


その先は、声にならなかった。


 


ただ、彼の手を、そっと握る。


 


その細い指が、震えている。


 


アヴェルは何も言わず、強く、握り返した。


 


そのぬくもりが――

彼女の中に、初めて“いてもいい”と思える温度を残した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る