第5話『戦うしか知らない手』
朝の空気は冷たく澄んでいた。
小屋の裏手で薪を割っていると、軋むような音が指先を伝う。
割り口から舞い上がった粉が、風にさらわれて消えていく。
ふと、背後から気配を感じた。
ちらと視線を向けると、ルアが無言で洗い物をしていた。
相変わらず、右腕をかばうような動き。
湯に手を浸けるたびに、わずかに肩が揺れている。
痛むのか――いや、疼いているのだろう。
あの刻印(しるし)が。
だが彼女は、何も言わなかった。
こちらも、何も言わずに斧を振り下ろした。
昼過ぎ、遠くから子どもたちの声が聞こえた。
笑い声ではない。悲鳴――かすれた、助けを求める声。
すぐに腰の短剣を取る。
ルアもそれに気づいたようで、身を翻して走り出していた。
「ルア、待て!」
制止の声は届かない。
小柄な背中が、森の外れへ消える。
現場に着いた時には、すべてが一瞬だった。
一人の少年が地面に尻餅をついている。
その前に、牙を剥いた獣――痩せた魔物の幼体。
そして、その間に立つ少女。
右腕が、かすかに光を帯びていた。
肌の下、刻まれた呪の紋様が脈打ち、空気を震わせている。
「ルア――!」
叫んだその時、風が裂けた。
無音の一撃。
魔物は吹き飛ばされ、地を這い、木に激突して動かなくなった。
沈黙。
呆然と立ち尽くす子ども。
駆けつけた村人たちの顔に、恐れと、そして――安堵の色が交差する。
「……よくやった」
誰かがぽつりと呟いた。
次の瞬間、ルアの膝が崩れた。
アヴェルは慌てて駆け寄り、その体を抱き留める。
「おい、ルア……!」
応えはない。
意識を手放した顔は、安らかというより、限界の中でぎりぎり保たれていたようだった。
夕暮れ、村へ戻る坂道。
アヴェルはルアを背負いながら、重さのない背中の温度を感じていた。
その小さな体に、どれほどの力が詰め込まれていたのか。
それを、今ようやく知った気がする。
「……戦うしか、知らなかっただけだ」
呟いた声が、風に消えた。
「それでも、守るために立ったか。……なら、いい判断だ」
言葉に出したところで、眠る彼女に届くはずもない。
それでも。
その手が、無意識にこちらの服の裾を掴んでいたのが、妙に印象に残った。
小屋へ戻る前に、村の有志たちが待っていた。
年配の男が一歩前に出て、真っ直ぐこちらを見つめる。
「……あの子の腕の印。呪いだってことは、誰でもわかる」
一瞬、警戒しかけたその時。
「けど……今日、見せてもらった。命を守るために立った。――それで十分だ」
他の者たちも、静かに頷いている。
「口外はしない。あんたたちがここで穏やかに過ごせるなら、それでいい」
アヴェルは、短く息を吐いた。
「……助かる」
それ以上、余計な言葉は要らなかった。
夜。
焚き火に薪をくべ、静かな炎を見つめながら、ルアの袖に目をやる。
ほつれはもう限界。
縫い直してどうにかなる状態ではなかった。
「……明日は街に出よう」
誰に言うでもなく、ただ独り言のようにそう呟く。
“壊す”ためではなく、
“生きる”ために手を使うなら――まずはその準備からだ。
炎が、静かにぱちりと音を立てた。
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