全肯定お姉ちゃん。

うみゃうにゃ

第1話

 最初に覚えているのは、声だった。

 優しく、すべてを許すような声。喉の奥に染み込んでくるような、音でも言葉でもない感覚。

 続いて、巨大な手が現れた。空を覆うような、けれど指先には信じられないほどの繊細さを宿した手だった。

 彼女は笑っていた。やさしく、まるで赤子を見るように。


「……大丈夫。」


 その言葉と同時に、画面が血飛沫に染まる。

 小さな影が、ナイフを突き立てていた。

 まっすぐに胸を。

 巨体はぐらりと揺れ、けれど微笑みだけは消えなかった。



ーーー


「……っ、あつ……っ!?」

 龍星(りゅうせい)はベッドの上で跳ね起きた。額に汗。息が荒い。

 部屋は薄暗く、天井に埋め込まれたパネル照明がぼんやりとした白を照らしている。


「……おい、まだ寝てんのか龍星ー! はよゴーグル被れやー!」


 花輪(はなわ)の声が、薄い壁越しに響いた。隣のユニットの友人だ。

 声の主はARデバイスで通話してきているらしい。枕元の投影パネルに、チャット通知が浮かぶ。


 龍星はため息をつき、近くのラックからARゴーグルを手に取った。

 日常は、もうこれなしでは成立しない。

 現実と虚構が交差する、地下生活者の唯一の娯楽――いや、現実逃避装置。


 けれど、彼はなぜか今日だけは、少しだけゴーグルをつける手が重かった。


ーーー


 俺は電車に乗っている。

 路線名は「第五東環状線・更安支線」。AR上に再現された仮想の列車だ。だが、乗客たちは本気でそれを「現実」として扱っている。


 更安(さらいず)は、最近“お姉ちゃん”が頻出すると噂のスポットだ。噂なのか本当なのか、その境界すらも曖昧なまま、話題性だけが先行している。


「なあ龍星、もし“お姉ちゃん”に認定されたらさ、俺、むしろ喜んじゃうかもな。守ってくれるんだろ? 優しくて、おっぱいもでかくて――」


 花輪が、例によって不謹慎なことを口走る。

 「死にかけるまで抱きしめられてみてぇよな、なあ?」

 冗談のつもりだろうが、声が乾いている。笑い声は車内のBGMと混ざり、まるで誰か別人が言っているかのようだ。


 ARなのに電車?と疑問に思うかもしれないが、今の世の中、むしろこういう“前時代的な空間”が流行っている。レトロ趣味というより、回帰願望に近い。

 現実が壊れすぎて、かつて壊れていなかった“気がする”時代の記号にすがっているだけだ。


 俺たちは、空虚に退屈を埋める。

 今日も支給されたレーション吸引は済ませた。空腹感も栄養も、すべて政府指定のペーストと吸引器任せ。満腹感だけはちゃんと演出されている。

 外の景色は、ARでは古き良き都市風景に加工されている。ネオン、看板、緑の少ないビル群。だが、現実は瓦礫の山だ。ドーム越しに光の届かない地下都市の外縁部には、もはや“街”と呼べるものはない。


 なぜVRではなく、ARなのか?

 本物の現実から完全に目を背けたいなら、VRのほうが都合がいいはずだ。だが、俺たちは“現実とのつながり”を断ち切れない。正確に言えば、断ち切る勇気も、断ち切る意味も見いだせていない。

 だから、瓦礫の上に“現実そっくりの幻”を重ねる。安心と刺激、どちらも捨てられず、中途半端にしがみついている。それが今のAR社会だ。


「着いたぞ!」


 花輪が声を上げる。いつものように元気そうに。

 でも、本当に喜んでいるのか? それとも、喜んでいるフリをしているのか。

 そんなの、俺にも分からない。だけど俺もつられて、軽く笑ってみせた。

 そして、車両の自動ドアが開く。


 そこから差し込んでくる“明かり”――

 AR越しの偽物の明かりなのに、目を細めてしまう。


 まぶしいと思った。心のどこかで、本物だと錯覚したがっている自分がいるのを、否定できなかった。


ーーー


 二人で適当に歩いていた。舗装されたはずの道路は、実際には砕けたコンクリ片と錆びた鉄骨の連なりだ。だが、ARのフィルターを通せば、そこは整然とした都市のショッピングストリートに見える。現実と虚構が混じりあい、どちらが本物かさえ分からなくなる。


 そのときだった。

 唐突に、景色の端が“揺れた”。錯覚かと思ったが、違った。

 巨大な影が、ゆっくりと街角を曲がってきた。


 ――お姉ちゃん。


 全長六メートルの巨体。やわらかな肌。母性的な微笑みと、絶対的な包容力。

 

「やっべ、出たぞマジで……」

 花輪が呻くように呟いたかと思うと、次の瞬間には背を向けて走り出していた。


 「おい、龍星!逃げろ!お前、そんな顔してたら“弟認定”されるぞ!」


 ARなのだから、本来は安全なはずだ。触れられるわけでもない。攻撃されるわけでもない。

 でも――それでも、逃げてしまう。


 ARとはいえ、視覚も聴覚も、時には触覚すら刺激してくる。しかも、あの巨体は「人間の姿をしている」のだ。機械の怪獣でも、データの集合体でもない。“自分より大きな人間”というだけで、脳が本能的に拒絶を叫ぶ。


 逃げようとしたその瞬間、足がもつれて、龍星は崩れるように地面に倒れ込んだ。

 視界が一瞬、白くノイズじみた演出に包まれ――そして、現れた。


 六メートル。人間の形をした“巨女”が、静かに近づいてくる。

 美しい。整った顔立ち。やさしい目元。肩にかかる長い髪。

 だが――怖い。怖くて仕方がない。


 人間がこんなに大きくていいはずがない。

 たとえその顔がどれだけ優しくても、美しくても。

 それはもう、化け物だった。



 「……大丈夫?」



 声がした。

 

 優しい声だった。懐かしい、どこかで聞いたことのあるような。

 初めてじゃない――いや、これは再会だ。

 そう思った。理由なんてない。ただ、そう感じた。


 また、会えた気がした。


 そのとき。


 「緊急警報発令! これは訓練ではありません。対象存在に警戒してください――繰り返します――緊急警報発令!」


 アナウンスが、耳を切り裂くように響いた。

 赤い非常灯が辺りのAR空間を貫き、街の虚構が崩れかける。


 龍星は、ようやく正気を取り戻した。

 肩で息をしながら、目の前の“お姉ちゃん”を見上げた。


 ――間違いない。

 自分は、“弟認定”された。


 警報のサイレンが鳴り響く中、突如、空間に「ノイズ」が走った。

 視界の一部が歪み、ピンと張った静電気のような音が耳鳴りのように漂う。


 ――AR転送開始。


 空中に走る銀色のライン。電子的な光の閃きが形を織り上げていく。次の瞬間、青白い光を纏った人影が二つ、地上へスムーズにマテリアライズされた。


 ひとりは、白髪混じりの無精髭、皺ひとつない戦術スーツを着た初老の男――郷田政宗。

 もうひとりは、微笑みを浮かべた短髪の女性、早乙女環。周囲に走るARウィンドウとシンボルが彼女の役職とステータスを示している。


 「SSERB、現場制圧プロトコル起動」

 彼女の言葉に合わせて、彼らの背後に立体的なホログラムが展開。防衛局のマークと作戦マップが空中に浮かぶ。


 その時だった。


 ――空が、裂けた。


 轟音。空気の壁が崩れたような圧力。

 物理的な質量が、虚構を突き破って落ちてきた。

 上空から、重厚な金属製の射出ポッドが地響きを立てて墜ち、地面を抉るように着地した。


 AR演出とは対極にある、質量そのものの衝撃。

 爆風。粉塵。アスファルトが弾け、現場が一瞬で沈黙する。


 そのポッドが、軋む音を立てて開いた。

 内側から漏れ出す蒸気とともに、巨大な影がゆっくりと立ち上がる。


 まず、つま先。

 続いて、制服の裾。

 そして最後に、その全体像が明らかになる。


 ――お姉ちゃん。


 6メートル級の巨体。人間のフォルムを保ちつつ、明らかに“異質”な存在。

 モサモサの髪に、特姉専用の婦警風バトルスーツを纏い、目をぱっちりと開いて微笑んでいる。


 名は、斑鳩(いかるが)


 「弁当食べてましたっ!」


 敬礼。見上げるほどの高さから、無邪気に。

 その場にいた誰もが、言葉を失う。

 “敵”と同じ形をした存在が、“味方”として現れたのだ。


 「遅いぞ、モサ頭!」

 郷田が一喝する。声に怒気はないが、緊張を切り裂くように大きく鋭い。


 「は、はいっ!」と、斑鳩は元気よく返事をした。


 そのとき。

 目の前にいた敵性“お姉ちゃん”が、静かに首を傾けた。


 「あなた……だれ?」

 音にせず、空間ごと震わせるような、柔らかくも不穏な問い。


 斑鳩は胸を張って、にこにこと笑いながら答える。


 「お姉ちゃん警察ですっ!」


ーーー第一話:お姉ちゃん警察ーーー

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