第2話
「お姉ちゃん警察ですっ!」
斑鳩が勢いよく手を挙げて、満面の笑みを浮かべながら名乗った。
その場にいた誰もが、一瞬、どう反応すればいいのか分からなかった。
「……警察じゃない。特姉だって言ってんだろ」
郷田が肩を落として呟く。
「まあ……あんな服、着せられてりゃ無理もないか」
ごちるように言いながら、額に手を当てる。
婦警風にカスタマイズされた活動服は、斑鳩本人の希望でもあり、広報戦略の一環でもあった――とはいえ、さすがに混乱を招くのも無理はない。
だがその会話に、目の前の“お姉ちゃん”はまったく反応を示さなかった。
長い黒髪が、まるで重力とは別の規則で揺れる。
彼女――敵性お姉ちゃんは、黙ったまま、地面に手をついた。
そして、そのまま掘りはじめた。
爪ではない。掌の平面全体を使って、まるで柔らかな粘土を抉るように、アスファルトとコンクリートの層を、音も立てずに破壊していく。
シェルター構造の外郭が軋む。AR演出ではない。これは現実の質量による破壊行動だ。
斑鳩は表情を引き締め、腰のホルスターから武器を引き抜いた。
銀色の筒状の本体に、突起が連なった異形の先端――ソウルピアサー。
一見すると警棒のようだが、これは対姉性体専用の貫通打撃装備。
「いきます!」
斑鳩の巨体が跳ねるように飛び出す。重力無視の速度。
次の瞬間、敵性お姉ちゃんの背後からソウルピアサーが振り下ろされた。
だが――
ぐにゃっ。
まるで打撃が空気に吸い込まれたかのように、武器は滑り、すべての力を無にされた。
敵性お姉ちゃんの背中――いや、**その“肌”**が波打つように変形し、衝撃を丸ごと飲み込んだのだ。
柔肌(やわはだ)――“お姉ちゃん”たちの絶対防御。
生物的な弾性を持ちつつ、入力されたエネルギーを分散・拡散させる構造。どれだけの力でも、どんなに鋭い刃でも、「傷」として到達する前に柔らかく、優しく、抱きとめてしまう。
まさに“庇護”の本能が物質化したかのような、異常な防御機能。
「……やっぱり効かないかー……」
斑鳩が呟いた。表情に動揺はない。
彼女にすら、突破できない――それほどまでに、“お姉ちゃん”の柔肌は絶対だった。
「AR、外せ」
郷田の声が、硬質に響いた。
「早くしろ。君はもう“庇護対象”だ。ここから先の作戦行動には、ARでは対応できん」
郷田の目は、まっすぐに龍星を射抜いていた。そこには情も迷いもなかった。ただ、指揮官の命令としての重みがあるだけだった。
「……わかりました」
龍星は乾いた唇を舐め、ゴーグルの側面を指で押し込む。
視界が、ノイズとともに崩れ落ちた。
――次の瞬間、目の前に広がっていたのは、あの豪奢な街でも、掘り進む巨人の背中でもなかった。
そこは、自室だった。
地下シェルターの一角にある、無機質で殺風景な六畳ほどの部屋。簡素なベッドと、壁に埋め込まれた小型の照明、必要最低限の家具。
ARの幻が剥がれた世界は、音も色も温度も――現実すぎて、寒かった。
数分もしないうちに、ドアが開く音がした。
無造作な足音とともに、郷田が入ってくる。そのすぐ後ろに、早乙女環の姿もあった。
「座りなさい」
郷田は手短にそう言って、自分の腕時計型端末を操作する。空中にマップと作戦要項が浮かび上がる。ARではなく、リアルなホログラフだ。
「君が“弟認定”されたのは、間違いない。現場の斑鳩も視認している。問題は、あの敵性お姉ちゃんの目的が“地下の庇護対象”に接触することにあるって点だ」
郷田はホログラムの一角を指し示した。そこには、今まさに“掘削”されている地下区域の図面が映っていた。
「対処法は、接触だ。君が、生身であの個体に近づき、庇護本能を引き出す。その瞬間、“柔肌”の効果が一時的に緩む。斑鳩がそこを突く。それだけだ」
「……それだけって……」
龍星が小さくつぶやいた声に、早乙女がすぐに膝をついて目線を合わせた。
「怖いのはわかる。でも、大丈夫。あなたはひとりじゃない。必ず、斑鳩が守ってくれる。わたしも、ここから全力で支援する」
ホログラムに映し出された地下シェルターの構造図は、複雑な迷路のようだった。
そして、その中にぽつんと光る赤い点――“現在、掘削が進行中の地点”。そのすぐ下には、まだ避難の終わっていない生活ブロックがある。
郷田はそのマーカーを指差しながら、淡々と続けた。
「……あのAR都市景観な。正式には“風景保全型情動安定支援システム”っていうんだ。地上の風景を再現して、視覚的な開放感を演出する。精神衛生の維持が目的だ」
そう言って、ホログラムの画面を切り替える。今度は、ある論文の抜粋だった。
タイトルには、“地下生活における視覚的閉塞と集団不安”の文字。著者は複数の心理学者と社会学者の連名だ。
「専門家の見解だと、地下に閉じ込められた生活を維持するには、たとえリスクがあっても“空を見せること”が必要だと。
これを取り上げた場合、最悪、自殺率が跳ね上がり、局地的な暴動すら起きる可能性があるとまで書かれている」
郷田はそこで視線を龍星に向けた。今度は、言葉に鋭さが増していた。
「君も……分かってたんだろ? 地上は虚構で、危険でもあって、それでも“遊んでた”んだ。自分の心がどこかでスリルを求めていたって、認められるか?」
龍星は何も言えなかった。
目の前の男は怒鳴ってもいないし、責め立ててもいない。ただ事実を突きつけているだけだ。それが逆に重かった。
「郷田さん、少し言い方……」
環が横から、そっと声を挟んだ。
「……いいんです」
声はかすれていたが、しっかりと届いていた。
「分かってました。ARの都市が虚構だってことも……本当の地上が崩壊してることも。それでも、行きたかった。見たかった。……なんなら、“出会えるんじゃないか”って……どこかで期待してました」
しばらく沈黙が続いた。
龍星は、自分の内側にあったものをひとつひとつ、言葉にしていった。
「退屈だったんです。毎日が。閉じた部屋と、加工されたご飯と、予定調和のやりとりばかりで。……だから、怖いもの見たさっていうか、パニックみたいなものを、どこかで……」
言いかけて、息をつく。
「……多分、自分で呼び寄せたんです。あの“お姉ちゃん”も、斑鳩さんも、全部」
環が、何も言わずにうなずいた。
郷田は少し目を細めると、再びホログラムを操作し、作戦画面を閉じた。
「なら――もう決まったな」
その短い一言は、命令でも怒声でもなく、ただ、前に進むための言葉だった。
ーーー
「行くぞ」
郷田のひと言に、龍星は頷きながら後をついて歩いた。
たどり着いたのは、地下鉄のホームだった。
現実の、埃っぽくて、錆びの匂いのする、本物の地下鉄。
定刻通りに来るはずのない列車が、暗闇の中から音を立ててやってくる。ドアが開き、わずかに油の混じった機械音が鳴った。
車内に足を踏み入れた瞬間、龍星はふと、違和感に襲われた。
硬質な床の感触。手すりのひんやりとした鉄。電灯のかすかなちらつき。
――これは、本当に“現実”なのか?
「……まだ、ARなんじゃ……」
思わず独りごちたその言葉は、誰にも聞かれていなかった。
どこかで“現実を演じている仮想”なのではないかという感覚が抜けない。
それは現実逃避なのか。それとも、この腐った現実が見せている幻なのか。
龍星には、もはやその境界が分からなかった。
地下鉄が走るたびに、微かに軋む音が心に引っかかる。
やがて列車が停車し、ドアが開いた先に待っていたのは――
「ふぎぎぎぎ……っ!!」
斑鳩だった。
相変わらずのモサ頭、婦警風スーツの袖をまくって、全身で敵性お姉ちゃんの腕を押し返していた。
地面には既に直径数メートルの穴が穿たれており、その奥から吹き上がる冷気が皮膚を刺す。
渾身の力で抗っていた斑鳩だったが、こちらに気づいた途端、
「……あっ、来たんだ!」
と満面の笑みになり、あっさり腕を離してしまった。
ドシン、ドシン、と大地が揺れる音とともに、斑鳩がこちらに駆け寄ってくる。
龍星は思わず身を固くした。怖い。大きい。
でも、どこか――可愛いとも思ってしまった。
体格は化け物でも、顔に浮かぶ笑顔や、微妙にぎこちない走り方が、妙に人間らしく見えたからだ。
「じゃあ、はい!」
その声とともに、斑鳩は突如、自分の胸元を両手でガバッと開いた。
「えっ……な、なに……?」
あまりに不意打ちすぎて、龍星は声も動きも止まる。
だが、よく見ると――斑鳩の胸元、柔らかそうな谷間の間に、棒状の構造物が挟まっていた。
人ひとりがすっぽり入れそうなサイズで、素材は衝撃吸収材のような何か。全体を斑鳩の“柔肌”が優しく包み込むように配置されている。
「搭乗口だ」
郷田が淡々と補足した。
「庇護対象の生身を保護しつつ、即応的に接近させるための収容機構。柔肌の脂肪層で包んで防御を兼ねる。合理的だろう」
「……合理的、って……」
龍星は頭を抱えたくなった。羞恥と困惑と、それを振り払うしかない状況とが一気に押し寄せてくる。
斑鳩はニコニコしながら、胸元を開いたまま待っている。
「さ、どうぞ!」
「……っ、うう……」
顔を真っ赤にしながら、龍星はおそるおそる、構造体に体を滑り込ませた。
温かくて、柔らかくて、ほのかに良い匂いがした。
「よお〜〜しっ!!オペレーション・ハグ、開始ぃぃぃぃ!!」
斑鳩が胸を張り、誰に言われるでもなく号令をかけた。
その声はやたらと明るく、ノリノリで、場違いなほど前向きだった。
「……おまえが仕切るな」
すぐさま郷田の冷たい声が飛んだ。
斑鳩の胸元――柔肌に守られた構造体の中に、龍星は収まっていた。
狭くはなかった。むしろ絶妙なフィット感で、全身がふんわりとした何かに包まれている。
温かい。柔らかい。安全なはずなのに、心はざわつく。
怖くないと言えば、嘘になる。
斑鳩の身体が一歩動くたびに、周囲の景色が揺れる。
視界の端に映る瓦礫、遠ざかる地下鉄の照明、そして――敵性お姉ちゃんの姿。
羞恥心が強く脈打つ。
だが、それ以上に、不思議な安堵感があった。
いや、違う。これは……現実味がないのだ。
何もかもが遠くて、ぼんやりしていて、夢の中のような感覚が抜けない。
自分は本当に“今、ここにいる”のだろうか。そんな疑念すらよぎる。
斑鳩の足が、ドシン、ドシンと音を立てる。
まるで地鳴りのように、敵性お姉ちゃんへと向かって進んでいく。
その足取りに、僅かな迷いもない。
龍星は顔をしかめた。思わず、声にならない声がこぼれる。
――そんな顔で、見ないでくれよ……
敵性お姉ちゃんは、微笑んでいた。
口元をほんのわずかに吊り上げ、優しく、静かに。
何かを許すように。包み込むように。
そして、何も疑っていないように――
それが、たまらなくーー
敵性お姉ちゃんとの距離が、目に見えて縮まっていく。
「触って!」
斑鳩の声が響いた。
はっきりと、強く。真剣な声だった。
龍星は一瞬ためらったが、すぐに手を伸ばした。
構造体の前方が自動で開き、薄い保護膜が引っ込む。
自分の腕が、斑鳩の胸の間から伸びるという妙な構図に、羞恥のようなものが一瞬よぎったが、それもすぐに消えた。
目の前には、敵がいた。いや、敵であり、なにか“人間らしさ”を帯びた巨大ななにかがいた。
そっと、手が触れた。
その肌は、ぬるりと温かく、驚くほど柔らかかった。
瞬間、敵性お姉ちゃんの動きが止まった。
その頬に、ぴくりと小さな反応。まばたきの速度がわずかに遅れる。
あの“柔肌”――絶対防御が、解除された。
「今……!」
斑鳩が全身をひねる。収容ホルダーがスライドし、そこから銀色のスピアー――ソウルピアサーが抜かれる。
その刹那、彼女の動きが変わった。
普段ののほほんとした斑鳩からは想像できない、研ぎ澄まされた殺意があった。
「――っはあああああああッ!!」
咆哮とともに、斑鳩の右腕が一閃する。
ソウルピアサーが、敵性お姉ちゃんの胸――龍星が触れた、まさにその場所に、鋭く突き刺さる。
ズガンッ!
音は、粘土に鋼鉄を叩きつけたような、重くて湿った衝撃音だった。
敵性お姉ちゃんの表情が、ほんの一瞬だけ揺れる。
微笑みが、ほんの僅かに崩れる。
まるで、悲しげに。
だが、それは言葉になる前に消えた。
巨体が、ゆっくりと、後方に傾く。
まるで空気に沈むように、静かに――倒れていった。
斑鳩はスピアーを引き抜き、深く息をついた。
「オペレーション・ハグ……完了ですっ」
彼女の声は、汗まみれで、でもどこか誇らしげだった。
倒れた巨体は、もう動かなかった。
柔らかな肉の塊が崩れるように、ゆっくりと、そして静かに横たわっている。音もなく、命の終わりがそこにあった。
「……殺したのか」
自分の声が、自分のものとは思えなかった。
「俺が……?」
現実感が、ない。
突き刺したのは斑鳩だ。だけど、それを可能にしたのは、自分の手だ。
触れたことで、守りを解かせた。
だから、倒せた。
だから――殺せた。
目の前で、斑鳩がふにゃりと笑っていた。
誇らしげに、嬉しそうに、まるで「やったね」と言うように。
大きな身体のどこにも迷いはなく、笑顔だけがまっすぐだった。
でも、それすらも――現実じゃない気がした。
あまりに、あっけなさすぎた。
ついさっきまで、あんなにも怖かったはずなのに。
その姿に戦慄して、逃げ出したはずなのに。
今はもう、怖くない。いや、それどころか、悲しみすらない。
空っぽだった。
「――大丈夫?」
その声が、どこから聞こえたのか分からなかった。
斑鳩だったのか、環だったのか、それとも――あの敵性お姉ちゃんだったのか。
ただ、その声だけが、胸の奥にじわりと染みて、痛かった。
意識が追いつかない。
今、自分がどこにいるのかも、何をしたのかも、曖昧なままなのに――
気づけば、目元が熱かった。
涙だけが、理由もわからずに、ぽろぽろと零れ落ちていた。
「……っ……あれ……」
止まらなかった。息も詰まるほどに、でも声は出なかった。
体は静かに震えていた。
ーーー
「どうだ?」
郷田が口を開いた。
「人類を救った感想は」
その言葉に、龍星は少しだけ顔を上げた。
皮肉だろうか――そう思ったが、不思議とそうは聞こえなかった。
かといって、賞賛でもない。
乾いた現実を語るような、あるいは、自分に言い聞かせるような、そんな声だった。
「……あのお姉ちゃん、本気で俺のこと……心配してくれてました」
ぽつりと漏れた龍星の声は、弱々しかった。
だが、それは確信でもあった。
あの笑顔、あの微笑み。それはただの模倣でも、プログラムでもない。あれは確かに――感情だった。
郷田は、短くうなずいた。
「そうだな。だからこそ、君を庇護対象にした。そして……そのせいで、シェルターが危険に晒されることになった」
言葉は淡々としていた。だが、責めているようには聞こえなかった。
ただ、事実を並べているだけのように。
「……外になんか、出なければよかった」
龍星の声は震えていた。
「そしたら、あのお姉ちゃんも、殺さなくてすんだのかもしれない」
「それは違うぞ」
郷田がすぐに返した。
「君が行かなかったとしても、別の誰かが庇護対象になっていた。そういうものだ。あいつらは神出鬼没だからな。偶然のようでいて、必然だ」
慰めか? いや、そういう口ぶりには聞こえない。
この男の真意は、いまだに読めない。
けれど――
「……よくやったな」
その言葉とともに、郷田の手が、そっと龍星の肩に触れた。
龍星は堪えきれず、また涙をこぼした。
それは安堵でも、悲しみでもなかった。
うまく言葉にできない感情が、ただ静かに流れ出すようだった。
少し離れた場所では、斑鳩が地べたに座り込み、環と一緒に弁当をつついていた。
いつもと変わらぬ調子で、何かを笑いながら喋っている。
その姿だけ見れば、ごく普通の人間にしか見えなかった。
――なんで、あのお姉ちゃんは人類の味方なんだ?
――なんで、あんなにも笑いながら、同族を……平気で、殺せるんだ?
――あのお姉ちゃんの庇護対象って……誰だったんだ?
問いは尽きなかった。
何もわからないまま、終わってしまった。
だが――それでも、終わったのだ。
今回の役目は。
龍星は、何かを失った気がした。
同時に、何かを得た気もした。
それが何かはまだ分からない。
でも、ほんの少しだけ、自分が“誰かになった”ような気がしていた。
ーーー第二話:オペレーション・ハグーーー
全肯定お姉ちゃん。 うみゃうにゃ @umyaunya
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