第二章:オールドスクール・アルゴリズム

 日曜日の午前十時、空は鈍いグレーに曇っていた。


 悠希は、駅前のロータリーで立ち尽くしていた。手には例の名刺。裏面は空白で、QRコードも何もない。今どき、SNSどころかメールアドレスさえ書かれていない名刺なんて、初めて見た。


 けれど、それがかえって橋本という男の「重さ」を物語っているように思えた。


 「人を信用させるのに、デジタル証明なんて要らない」──そんなふうに、堂々としていた。


 悠希の前に、静かに黒いセダンが止まった。助手席の窓が下り、中から見覚えのある顔が覗く。


 「乗りなさい。時間は有限だ」


 それだけ言うと、橋本は助手席から体を引いた。


 不安がなかったわけではない。見知らぬ老人の車に乗るなんて、普通なら警戒すべきだ。でも、あの日、卒業式の午後に聞いた言葉が、ずっと心に残っていた。


 「“正しい答え”じゃなくて、“選んだあとでも間違いにしない力”」


 あの一言が、今も胸の奥で燃えている。


 車内は想像以上に無駄がなかった。カーナビは旧型で、スマートディスプレイもなし。あるのは小さなメモ帳と、万年筆だけ。


 「デジタルより紙のほうが速いときもある」


 そう言って橋本は、信号待ちの間に手帳に何かを走り書きしていた。悠希がそれを覗き込むと、そこには不思議な記号の羅列──まるで、どこかのアルゴリズムのような構造が記されていた。


 「それ、なんですか?」


 「これはな、人間の動き方を計算するための“フローチャート”みたいなものだ。人は感情で動く。AIが見落とす“揺らぎ”を、人間が数式にする試みさ」


 悠希は、しばし言葉を失った。


 「それって……意味あるんですか? AIの方が早いし、正確だと思いますけど」


 「その通り。だがな、君のスマホが固まった原因も“早すぎて、間違った”からだろ?」


 橋本の視線が、信号の変わる瞬間に、悠希をまっすぐ見た。


 「AIは、答えを出すのが早すぎる。人間は、ゆっくり考えて、間違えて、でもその“間違い方”にこそ、意味がある」


 その言葉の重さに、悠希は初めて“遅さ”が武器になる可能性を考えた。


 20分ほど車を走らせた先にあったのは、HashiTechの研究棟だった。工場とは思えないほど静かで、外観は古びていたが、施設の奥に設けられた一室に案内されると、そこには驚きの光景が広がっていた。


 部屋の中央に置かれたのは、古い木製のデスク。その上には、分厚い紙の設計図、計算用紙、電卓、年代物のノートPC。そして壁一面に貼られたホワイトボードには、無数の数式と矢印と手書きのメモ。


 だが、その隣には──最新のGPUサーバーがうなりを上げていた。


 「これが、うちの“協調型設計室”だ。紙とAIを一緒に働かせている」


 橋本は、まるでアナログとデジタルを混ぜて煮込んだような空間を悠希に見せた。


 「……正直、混ざり合わないものだと思ってました」


 「それが混ざるんだよ。AIは答えを持ってくる。でも、どの答えが“適切”かを選ぶのは人間だ。その目を育てるには、時間と経験が要る。……お前さんには、それがこれからできる」


 橋本はホワイトボードの前に立ち、悠希に問いかけた。


 「ここにあるアルゴリズムのどれかに、ミスがある。見つけてみろ」


 悠希はたじろいだ。けれど目の前の橋本は、まっすぐに期待を向けていた。

 自分の“仮説”が試されているのだと、直感で理解した。


 数十分後──

 「……ここの論理分岐、前提条件が一つ足りない気がします。データが欠けてるときに、無条件に右ルートに流れてます」


 橋本は微かに笑った。「よし、そこに気づいたか」

 そしてこう続けた。


 「AIに頼るな、とは言わない。だが、“頼る前に自分で疑う力”を持っておけ。それが、生き残るためのオールドスクール・アルゴリズムだ」


 夕方、帰り際。曇っていた空に、細い陽が差していた。

 悠希の胸には、はじめて湧いた感覚があった。


 “遅くても、間違えても、自分の頭で考えることが意味を持つ”──

 そんな実感が、ほんの少しだけ自信に変わっていた。


 AIが持つのは最短経路かもしれない。

 でも、最短がいつも最善とは限らない。

 それに気づいた日だった。

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